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第5話

「動かないでくださいね」


 珈琲で休憩した後、私には苦行が待っていた。


(オレンジジュース一本が賄賂とは、解せぬ)


 この三泊四日の小旅行は井浦教授ののモデルとして随行したものであって恋人同士の甘いものではない。背もたれのない椅子に座らされた私は惣一郎に背中を向け斜め45度で後ろを振り向くように指示された。


「そ、惣一郎、これは無理」

「まだ5分しか経っていませんよ」

「早く、早く描いて」

「ウェストが細くなりますよ、良かったですね」

「そ、そうですか」


 キャンバスに向かい木炭で指先を黒くした惣一郎は黄色の顔料を木製パレットに絞り出しテレピンオイルで溶いた。


「も、もう良いですか」

「あぁ、もう少しの辛抱です」

「もう絵の具で塗っているじゃないですか」


 ベージュのチノパン、白いTシャツ、顔料で汚れたエプロンを身に着けた惣一郎は筆を握った。


「これはね、下書きなんですよ」

「絵の具が下書きなんですか」

「木炭で予め線を引いて黄色の絵具でなぞっておけば油絵具を重ねても下絵が消える事はありませんからね」

「そ、そうなんですか」

「あぁ、ほら動かないで下さい」

「もう良いですよね」

「辛抱出来ないんですか、オレンジジュース返して下さい」

「も、もう無理です」





ジュウウウ


「い、痛い」

「七瀬、あれしきで音を上げていては座ったポーズは無理ですね」

「正面なら耐えられます」

「小学生の図画工作じゃないんですよ」

「そうですが」


 私はリビングのソファに突っ伏して凝り固まった腰を撫でていた。耳を澄ませると冷蔵庫の扉が閉まりコンコンと叩きつける音。


「ーーー卵」


 ボウルに割り落とされた卵が菜箸でリズミカルに溶かれ、続いてフライパンがガスコンロに乗せられた。


ジュワワワワ


「ーーー美味しい匂いがします」

「起きて下さい、オムライスが出来ますよ」

「オムライス!オムレツじゃなくてオムライス!」

「ケチャップライスは冷凍ですが、ほら、お皿を出して下さい」

「はーい!」


 食器棚を開けると二客のコーヒーカップ、マグカップ、ワイングラス、二枚の平皿、小皿、二個のサラダボウルが入っていた。


(ーーー全部、二個)


 それは何処か違和感を感じさせたがそれを考えるより先に私は平皿に盛り付けられたオムライスの湯気でご機嫌になっていた。


「七瀬、ちょっと目を瞑って下さい」

「なんですか」

「良いから、早く閉じて下さい」


 私はスプーンを手に、バターの匂いに鼻先をひくひくさせた。


「はい」


 冷蔵庫の扉がバタンと閉まる音、なにかを開ける音。


ブチュ


(ーーーぶ、ぶちゅ?)

「はい、目を開けても良いですよ」

「はい」


 恐る恐る片目を開けると黄色いオムライスの上に井浦教授の作品が仕上がっていた。


「これは、昼間の井浦教授の作品ですか?」

「本当の私の気持ちですよ」


 私たちはテーブルを挟んで軽いキスを交わした。オムライスの上には赤いケチャップで真っ赤なハートと I LOVE YOU の文字が並んでいた。


 その夜は日向ひなたのにおいにくるまって私の緊張は最高潮だった。お互いに半袖Tシャツにハーフパンツ、肌の密着面積はこれまで以上に広く肢体の熱を感じた。


くちゅ ちゅ ちゅぱくちゅ


 敷布団に押し付けられた私の頬に惣一郎の口付けの雨が降った。深く重なり合う唇、舌先が中をなぞり舐めまわし唇を啄む。その快感をもっと堪能したいと舌を差し出すと、惣一郎はいつもの気怠い微笑みで口をつぐんだ。


「七瀬、どうして欲しいですか」

「な」

「な、何ですか」

「舐めて、舐めて下さい」


 淫靡な声のトーンに思わずはしたない言葉を口にする。するとお預けを喰らっていた舌先を惣一郎が喰み舌裏の筋を舐め上げる。


「あ」

「今夜は声を出しても良いですよ」


 惣一郎の舌先が口腔内を所狭しと這い回り、息継ぎで唇が離れると涎がいやらしく糸を引いた。


(ーーーあ、勃ってる)


 股の間に大きく形を変えた惣一郎を感じた。


(触って、お願い、触って)


 けれど今夜もその気配は無く、触れるのは口元だけで首筋にすらそれは届かなかった。


「あ、あ」


 惣一郎は私の乳首が硬く膨らみを待っている事を感じている筈だ。なのに決して指先を伸ばす事はない。私は行き場のない感覚に身悶えしながら浅い眠りに落ちた。


 浅い眠りから目覚めると惣一郎はまだ寝息を立てていた。薄っすらと髭が伸び、少し野生的な雰囲気を醸し出していた。私は起こさないようにベッドから這い出しリビングのベンチに座り朝靄あさもやの海を眺めた。


「朝の海って灰色なんだ」


 重い腰を上げて歯を磨く事にした。


(洗面所がないのはちょっと不便)


 このコテージにシャワールームはあるが洗面所がない。「顔を洗うのはどうしたら良いのか」「歯磨きはどこでしたら良いのか」という問い掛けはあっという間に解決した。


「キッチンで洗えば良いじゃないですか」

「あ、はい」


 という事で私は腰に手を当て、半分寝ぼけまなこで歯磨きをしていた。木枠の窓を開けると湿った朝の空気が身体に纏わり付いた。


(ーーー今日も暑いのかなぁ)


 私はまた。慌ててカーテンを開け、朝靄の中で目を凝らした。


(あ、またあの人だ)


 今度はにれの樹の下に、白い日傘を差して黒い髪をハーフアップに結えた大島紬の着物を着た細身の女性が立っていた。会釈をしたがあまり反応がない。不思議に思っていると肩を叩かれた。


「ひゃっ!」

「なんですか、人を幽霊みたいに」

「おはようございます」

「おはよう」


 惣一郎は顎を掴むと唇を重ねて来た。


(ーーーやだ、見られちゃう)


 横目で見た樹の下に日傘を差した女性の姿は無かった。



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