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第4話

一日目は快晴だった。


 どこまでも青く高い夏の空を二本の白い飛行機雲が宙を引き裂いていた。


「あれは自衛隊の飛行機?」

「そうだね、F15ファントム緊急発進スクランブルだね」

「なんでいつも二機なの」

「一機が駄目になったらが頑張る、しばらくすればもう一機が駆けつけてくれるんだよ」

「そうなんだ」


 時速70kmで駆け抜けるイエローオーカー、エアコンが効かないブルーバードの助手席に座った私はサイドウィンドウを全開にし髪をなびかせていた。


「惣一郎、スピード速すぎない?」

「そうかな」


 海岸線は緩いカーブが絶え間なく続き、時折対向車線へとはみ出した。


「ほら、あぶなーーー危ないって!」

「良いんだよ!」

「なにが良いのーー!ほら、50km制限って看板が!」

「良いんだよ!」

「良くない!」

「死ぬ時は死ぬんだよ」

「え、聞こえない!」


 ハンドルを片手で握り窓に片肘を突く惣一郎は気怠げに微笑んだ。それは時に人生を投げ出したような雰囲気を醸し出していた。


 左側は落石防止のネットが張られた切り立った壁、センターラインの向こう側は白いガードレールが遮る断崖絶壁の海。平静を装った私の両手はシートベルトを握り締め、黒いサンダルを履いた両脚を突っ張っらせた。


(ーーーこんなに乱暴な運転をするなんて、聞いてないよ!)

「なに、どうかした?」

「ううんって、前を見て、前ーーー!」


 黒いワンピースの脇に汗を掻いたのは暑さのせいだけじゃない。


「惣一郎、前ーーーー!」


 対向車線から鳴り響く激しいクラクション、生きた心地がしなかった。


「あ、ここ」


 路肩の白いガードレールが途切れ、海岸へと下る細い道が現れた。


「曲がるんですか」

「そうですよ」


 ウインカーが右に点滅し車はスピードを落としてその坂道を進んだ。シダ植物が生える松葉の絨毯、杉林の中に太陽の光が点々と届いた。


「涼しい」

「日差しが届かないからね」

「だからあんなに沢山生えているんですね」

「あぁ、シダね」

「はい、ちょっと不気味かも」

「でもあれがないと地球に酸素が足りなくなるよ」

「光合成、ですか」

「そう」


 やがて杉の木立は山葡萄や木通あけびの蔦が絡まる胡桃くるみならの雑木林へと変化した。


「今度は鹿でも出て来そうな雰囲気ですね」

「あぁ、カモシカとは時々遭うね」

「まさか、熊は」

「熊はいないよ、見た事がない」


 砂利を踏むタイヤの回転音、パキパキと小枝が折れる音が私たちの後を尾いて来た。


「ーーーーわぁ、わぁすごい!」


 一気に視線が開け青空が覆い被さって来た。その景色に浮かび上がる真っ白なロッジ、木枠の出窓ガラスの向こうには水平線が広がっている。床下には薪が積み上げられていた。


「私のアトリエ、冬は使えないけれどね」

「如何してですか」

「あの坂道を除雪してくれる人は誰も居ないよ」


 ふと見上げると天窓にライトが点いている。


「どなたかいらっしゃるんですか」

「防犯用にソーラーライトを点けてあるんだ」

「そうですか」

「誰か居るみたいに見えるだろう」

「そうですね」


 惣一郎はトランクを開けて油画用のテレピンオイルや顔料、木製パレット、筆を取り出した。私がそれに触れようとすると「待って」と止められた。


「顔料に慣れていない人が触ると皮膚がかぶれますから」

「そうなんですか」

「気を付けてください」

「はい」


 私はイーゼルと数枚のキャンバスを抱えて玄関の扉が開くのを待った。惣一郎のジーンズのポケットから鍵束が取り出され施錠が解かれた。


「はい、どうぞ」

「お邪魔します」

におい、大丈夫でしょうか」

「ちょっとーーー臭いです」


 シンナーにも似た鼻をつく臭いに吐き気を覚えた。


「すみません、今すぐ換気しますね」


 開け放たれた窓から吹き込む日本海の潮風、はためく白いカーテン、木の床や白い壁は飛び散った色彩に溢れ、何十枚ものキャンバスが壁に立て掛けられていた。イーゼルの上には描きかけの風景画、そして背もたれのない木の椅子が二脚置かれていた。


「ここが、井浦教授のアトリエ」

「違います、惣一郎ですよ」

「そうでした」


 惣一郎は私の手からイーゼルを受け取ると床に置いた。そして顎に手を添えて屈み込むと舌で私の前歯を割り中へと滑り込ませた。

 夜の路肩に停めたブルーバードの助手席や、カーテンを閉め切った暗い研究室とは異なる開放感。天窓から差し込む光の筋の中で私は幸せに包まれた。


(ーーー惣一郎の目の色、綺麗だな)


 碧眼に薄茶を混ぜたような瞳、切れ長の二重のまつ毛は長く目尻に小さなホクロを見つけた。


(ーーーやっ、ちょっと)


 そこでようやく自分も同じように近距離で見られている事に気が付き身体を離そうとした。ところが背中に回された腕はびくともせず惣一郎は更に熱く舌を絡めて来た。息が苦しく顔を背けると、顎を掴まれて引き戻された。


(え、どうしたの)


 いつもならばここで身体が離れるのだがその気配はない。


(ーーとうとう、その時が来るの!?)


 特に期待した訳ではないが万が一の場合を考えパンティとブラジャーを新調した。白地に淡いブルーの花、マーガレットの刺繍が施された清楚なものだ。


(ーーーくうっ!)


 ところが私の緊張感が伝わったのか惣一郎は口元を手で隠して笑い出した。


「なんですか、その顔は」

「どんな顔ですか」

「地上50mから谷間に飛び込むような顔です」

「地上50mに行った事はありませんが緊張しました!」

「緊張したんですか」

「緊張しました」

「そうですか」


 そう答えた惣一郎は高さ50mの崖から飛び降りる私の緊張を呆気なく素通りし、気怠げな表情でイーゼルを広げると真っ白いキャンバスを立て掛けて左右のバランスを整え始めた。


「そのキャンバスに私を書くんですか」

「これは練習用だよ」

「練習用ですか」

「七瀬、モデルは初めてだよね」

「はい」

「同じポーズを取り続けられるように練習してみよう」

「分かりました」


 惣一郎は襟足を掻きながら隣の部屋の扉を開けた。


「ーーーキッチン、リビングですか」

「そう」


 施錠を解き窓を開け放つとカーテンがふわりと舞い上がった。惣一郎は水道のカランを最大に捻りその様子を腕組みをして見ている。


ゴウンゴフ ゴウン


 空気を含んだ水が水道管を駆け上がりシンクの中に一気に解き放たれた。


「あーー、やっぱり濁ってるなぁ」


 そして今年初めて訪れたというアトリエの中はかなり埃っぽかった。ふと見ると青いバケツ、ハンガーには雑巾がぶら下がっていた。


「拭き掃除しますか」

「お願いできますか」

「任せて下さい!」


 私は木製のテーブルやベンチを水拭きした。


「ねぇ、ここは惣一郎が作ったの」

「まさか!それは無理です。地元の大工にお願いしました」


 成る程、どうりで細かな部分までやすりが掛けられニスが塗られている。


「七瀬、こっちの部屋もお願い出来ますか」

「はい」


 コテージの中央にはアトリエ、向かって左側にはリビングとキッチン、向かって右側にはーーーー私は手に持ったバケツを落としそうになった。


「ーーーベッドルーム」

「はい、布団とマットレスは天日干ししておきますね」


 無表情の惣一郎は南向きのベランダに掛け布団を干すと手で埃を払っていた。その姿を横目に私の脳内は思考回路が絶縁不良を起こしていた。なぜなら私はなのだ。性行為は未経験、未知の領域、45歳手練手管の惣一郎にどう対処すれば良いのか分からなかった。


(三泊四日)


 母親にはデザインビジネスコースの夏期講習があると嘘を吐いた。少なくとも三回の夜が巡ってくる。


「さて、珈琲でも飲みますか」


 ハッと我に帰った。惣一郎はキッチンに立つと峠下の町で購入した珈琲豆をミルで挽き始めた。


「いい匂い」

「珈琲は豆から淹れた方が美味しいです」

「インスタントコーヒーじゃ駄目なの」

姿の私はインスタントコーヒーで十分ですがはこれ一択ですね」


 私が昼間の井浦教授と夜の惣一郎が別人だと話したら「それは面白い表現ですね」と気に入ったらしい。そして姿の惣一郎は「夜の私を知っている学生は七瀬だけですよ」と耳元で熱く囁やいた。


「七瀬」

「はい」


 珈琲ドリップの準備を済ませた惣一郎は手を洗いながら振り返った。


「七瀬、私は画材道具を整理して来ます。食べ物を冷蔵庫に片付けておいて下さい。ビールは落とさないで下さいね」

「はい、分かりました」


 冷蔵庫の扉を開けると心地の良い冷気が首筋を撫でて通り過ぎた。リビングテーブルにはLLサイズのポリエチレン袋が三個、三泊四日分の大量の食材が冷蔵庫に入り切るのかと思ったがそんな心配は無用だった。


「ーーー大きい」


 この冷蔵庫は一人用にしては容量が多い。多分に私を連れて来たように油画の生徒を招き入れる事があるのかもしれない。冷凍庫にひき肉を詰めているとカーテンがはためき視界の端に気配を感じた。


(ーーーあれ?)


 木枠の窓の外、胡桃の樹の下に白い日傘を差しハーフアップに結えた黒髪、大島紬の着物の細身の女性が立っていた。


(近所の人かな)


 冷蔵庫に全てを詰め終え振り返るとそこに女性の姿はなかった。


「七瀬!」

「はい」

「珈琲出来たかな」

「あともう少しみたいです」

「分かった、座って待っていて」

「はい」


 私は一滴、一滴と落ちる珈琲を眺めた。


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