短期大学部正門を出て右に折れる、歩道なき生活道路を5分から10分ほど歩くとJR北陸本線在来線の古びた駅舎、
(ーーーーいやー暗い!)
生活道路といってもこの辺りは農家が多く、夏の日暮ならば未だ農作業の片付けに勤しんでいる。遥か遠くからトラクターがこちらに向かって来るのが見えた。
(不気味不気味!)
日本海に落ちる寸前の夕日、黒い影に包まれた景色。どの家屋も静まり返り明かりが漏れる家は少なかった。
(急げ!今なら未だ間に合う!)
課題の仕上げが最終段階に入り制作に夢中になっていた私は45分に1本しか停車しない電車に駆け込み乗車する為に走っていた。
(ひぃ、う、運動不足だ)
斜め掛けのトートバッグの中で携帯電話や眼鏡ケースがガシャガシャと音を立てた。
(ーーーお、重い)
無駄に豊かな胸は不必要だと思う。その肉の塊は必死で前に踏み出し道路を蹴り上げる足の速度を落とした。仄かに灯りが灯る電話ボックスの角を曲がった時、無情にも電車の扉が閉まりシュンと発車のエンジン音が響いた。
「ーーーう、嘘でしょう」
額に汗を掻き、Tシャツの脇に汗を滲ませた私は膝に手を突いて肩で息をした。喉が渇いた。水分が欲しかった。チラリと横目で自動販売機を見たが羽虫が飛び交っていてとても手を出せる状態ではなかった。
バチバチバチ
青紫の誘蛾灯に誘われた虫が最後の悲鳴を上げていた。私は鼻先に滲む汗をTシャツの袖口で拭き取った。
その時、駅前を通り過ぎた如何にも古そうな2ドアセダンが白いバックランプを点して私の方へと後方発進して来た。それは木の電信柱の蛍光灯の下で停車し、車体が黄土色である事が分かった。
「七瀬ちゃん、ひとりマラソン大会は楽しい?」
「た、楽しーー楽し、楽しそうに見えますか」
車から降りて来たのは惣一郎さんだった。いつものベージュの帽子は被っておらず髪の毛は無造作なオールバック、ジーンズに革靴、レーヨン素材の開襟シャツは茶系の南国プリントでそれをなんの違和感もなく着こなしていた。そして中指と人差し指にはシルバーのごついリングが光り、丸眼鏡には薄い色が入っていた。
「惣一郎さん、派手ですね」
「ーーーこれが本来の私ですが」
「なんでいつもベージュの塊なんですか」
「仕事着です、顔料で汚れるのは嫌ですし」
「ですし、なんですか」
「こんなに派手な顔立ちだと生徒が落ち着いて制作に励めませんから」
「ーーーーご自身が格好いいと自覚されているんですね」
「はい」
そう真顔で答えた惣一郎さんは車の助手席を開けた。乗れという事らしく私も戸惑う事なく乗り込んだ。座席は低く座席シートは硬く乗り心地はどちらかと言えば悪い。エンジン音も足の裏にやけに煩く感じた。
「惣一郎さん」
「はい」
在来線下り列車が踏切の向こう側を通り過ぎて行く。
「黄土色の車って珍しいですね」
ぶっ
「七瀬ちゃん、あなたも美術科の生徒なんだから別の表現方法はないんですか、せめてイエローオーカーとか」
「ああ、イエローオーカー」
「はい」
車の内装はレトロ感満載でメーターパネルもアナログ式だった。
「これ、相当古い車じゃないですか」
「あーー、私よりも年上ですよ」
「はあ」
「昭和42年8月生まれ、ダッドサン社のブルーバード510型です」
「昭和っていつですか」
「七瀬ちゃんの親御さんが生まれた頃じゃないですか」
「ーーーそんなに古いと燃費も悪そうですね」
「ガソリンもかなり喰いますよ」
「はぁ、余程お好きなんですね」
「はい、喰いたいものは喰う、乗りたいものには遠慮なく乗ります」
「喰う、乗る」
「はい」
時折見せる気怠げな笑顔で口にした「喰う」「乗る」には特別な意味があるような気がした。
「ダッドサンは今の日産自動車なんです」
「はぁ」
「くうねるあそぶ、このキャッチコピーは知っていますか」
「あーーー、何処かで聞いたことがあります」
「1989年、日産自動車のキャッチコピーでライターは糸井重里さんです」
「あーーー、糸井重里さん」
惣一郎先生は赤信号で停まった運転席から私を見下ろした。
「くう、ねる、あそぶ、最高だと思いませんか」
「はぁ」
「で、私はあなたを何処まで送って行けば良いのですか」
「ーーーえ、送ってくれるんですか」
「それこそ、逆に何処に行くつもりだったんですか」
「いやーー特にーー深い意味はありません」
「ちぇっ」
惣一郎さんは私が実家住まいだと言うと「ちぇっ」を繰り返した。
女性の一人住まいで男性が喜ぶ事などひとつしかない。然し乍ら大学部の教授が生徒にそう安易と手を出すだろうか。
「あ、惣一郎さん、此処で良いです」
「家の前まで送るよ」
「こんな派手な人がこんな車で現れたら両親が卒倒します」
「心筋梗塞は怖いよね、心臓発作も」
「ーーーそんな話をしているんじゃありません」
「ーーーーー」
車内に微妙な空気が漂い、惣一郎さんの手が私の右肩を引き寄せてその薄い唇が覆い被さって来た。柔らかな湿り気と煙草の臭いが上唇を舐め、下唇を啄み、舌先が口腔内へと滑り込んだ。
くちゅくちゅ
それは止む事なく続き、私の舌も惣一郎さんの舌を求めた。
(ーーーあ)
惣一郎さんは丸眼鏡を外し気怠げな表情でまた口付け始めた。絡み合う舌、息継ぎをする度に糸を引く唾液。頭の中が真っ白になった。同じ事を繰り返し、名残惜しさで唇が離れた。
「あ、あのーー教授」
「じゃあ、また明日ね」
「は、はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
惣一郎さんは私に口付けただけでアクセルペダルを踏み、一時停止の看板で右ウィンカーを下ろした。窓を開けて手を振る事も、ハザードランプを点滅させる事もなく走り去った。私たちの熱い夏が始まった。
翌日、惣一郎さんは
プシュ
するとこの前と同じように惣一郎さんは感情の乏しい面持ちで私を見遣ったがすぐに地面へと視線を落とした。顔料塗れの指先が器用に巣穴の周りに小石の城壁を積み上げてゆく。巣穴から顔を出した蟻が
その姿に私は異様なものを感じたが、もう一度振り向いた気怠げな笑顔がその違和感を払拭した。
「天気が良いですね」
「はい」
「今日も遅くまで制作に励むんですか」
「もう、間に合わなくて」
「そうですか」
惣一郎さんはベージュの帽子を脱ぐと二人の口元を隠して口付けた。オレンジジュースの缶が傾き地面へと滴り、蟻たちはその甘ったるい匂いに誘われて右往左往した。
(ーーーーー)
微風が木立を揺らした。
そして夕凪が微風を留めて汗ばむ頃、日暮れのデザイン制作室に二人の影が伸びた。アクリル板に押し付けられた私の肢体にアクリルシートを咥えた惣一郎さんの唇が吸い付いた。手のひら、手首、腕の内側、肘、二の腕、脇の窪み、タンクトップの付け根にカットされたアクリルシートが貼り付けられてゆく。
私は身悶えた。
「・・・・・惣」
「声を出さないで下さい」
「ほら、素敵な作品の完成ですよ」
惣一郎さんは着衣の内側に触れる事はなかった。カッティングシートに彩られた私は彼の作品になり暮れなずむ制作室に展示された。両腕を組みそれを堪能した惣一郎さんはベージュの帽子を脱ぎ頭を左右に振ると両手で髪の毛を後ろへと撫で付け
「惣一郎さ、ん」
「良い子だから黙って」
今度はカッティングシートを唇で摘み、その場所を舌で舐めた。脚が震え崩れ落ちそうになると顔料塗れの手が腰を支えそれを許さなかった。
(ーーーあ)
最後の一枚は上唇に貼られていた。私は思わず舌を差し出したが惣一郎さんはそれに応える事なく身を離した。自分の隠れていたはしたなさに顔が赤らんだ。
「七瀬ちゃん、昨日の場所まで送って行きます」
「はい」
「教員駐車場で待っています」
「はい」
ベージュの帽子を目深に被った
「なに、あれ油画の井浦じゃね」
「うん」
「なんでここにいるんだよ」
「マスキングテープを探してたって言ってた」
「ふーーん」
「うん」
大垣光一の視線が止まった。
「なに、おまえなんか付いてるぞ」
「え」
「虫刺され?」
「そうかも」
184cmの虫、タンクトップの胸の谷間にアクリルシートのような赤いキスマークが付いていた。
それから私と惣一郎さんは二つの世界を行き来した。昼の時間は美術棟昇降口の階段で
「七瀬」
何度目かの夜には「七瀬ちゃん」が「七瀬」となり、「惣一郎さん」が「惣一郎」となった。
ちゅぱちゅぱ
淫靡な音が欲望を掻き立てたが惣一郎は決して私の肢体に触れようとはしなかった。激しい口付け、私は彼の首に手を回して引き寄せその腕に胸を押し付けたが顔料が残る指先はそれ以上触れる事はなかった。