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木陰からいつも奥さまがこちらを見ていました
雫石しま
恋愛現代恋愛
2024年10月06日
公開日
30,865文字
完結
エロティックでややホラーな不倫物語をお届けします。
田上 七瀬(20歳)は金城大学短期大学部デザインビジネスコースの2年生。
緑豊かな美術棟で出会った井浦 惣一郎(45歳)教授と恋に落ちる。
しかし井浦には妻、碧がいた。

第1話

  八月の青い空を二本の飛行機雲が引き裂いた。


「あれは自衛隊機ですね」

「そのようだな」

F15ファントム緊急発進スクランブルです」

「そうか」


 日本海から吹き付ける突風に油絵具が付着したベージュの帽子が舞い上がった。


「おおっと」


 顔料で染まった指が帽子を押さえようと試みたがそれは叶わず、流木や割れた浮標ふひょうが埋もれた砂浜を転がって行った。


「ああ、帽子が飛んで行ってしまったじゃないか」

井浦いうら、てめぇに自由はない」

「なら拾って来てくれないか」

「大丈夫だあいつらが追い掛けている」


 振り返るとスーツ姿の厳つい男たちが帽子を求めて右往左往している。


「そうか、良かった」 


 井浦と呼ばれた男性は防波堤を越えた田園の中に建つ金城きんじょう大学短期大学部美術科油画コース教授、井浦 惣一郎いうらそういちろう45歳だ。


 井浦の手首には手錠が掛けられていた。


 砂浜に張られた黄色い規制線の奥には大きな穴が掘られていた。人ひとり入れる穴、その周囲を青いつなぎを着た捜査員が取り囲んでいた。


「ありましたーーー!」


 警察官たちが駆け寄った場所には黒いギンガムチェックのサンダルが砂底から顔を出し、海水に浸かった状態で見つかった。


「見つかりましたか」

「見つかったな」

七瀬ななせちゃん、喜んでいますね」

「んな訳ねぇだろーがよ」

「そうですか」


 私の名前は田上 七瀬たがみななせ20歳、井浦教授と熱い夏を過ごした同じ短期大学美術科デザインコース2年生だ。










 私の通う金城大学は国道8号線から横道に逸れた緑の田園の中に建っている。その道は駱駝らくだの背中かナイル川のように蛇行し、冬季限定で通学生徒の車が路肩から田畠へとダイブした。そして建物は全面ガラス張りの三階建で数日おきに野鳥が天へと召されて行った。それを咥えて走り去る狸。


「うーーーん、自然の摂理、食物連鎖」


 石の正門を潜り抜けると向かって右側が幼児教育コース棟、保育士を目指す生徒たちがピアノを弾き体操を踊り歌を唄いとても賑やかだ。赤茶の煉瓦貼りの廊下を左に折れると事務課がある。そしてワカメうどんが美味しい学生食堂、ビジネスコース棟、仄暗い渡り廊下を進むと瞬時に辺りに漂う空気が変わる。


 春夏秋冬、寒々しく時が止まった美術棟だ。


「ーーーふぅ」


 私、田上七瀬は大判の透明アクリルボードを抱え二階のデザインコース制作室へと運んでいた。厚さ10mm、かなりの重さで息も絶え絶えだが誰も助けてはくれない。ここは単独行動の世界、自分だけが頼りだ。

 このアクリル板には暖色系から寒色系のアクリルシートを豆状にカットし濃淡で円を描いてゆく。それが一体なにを意味するのか自分自身でもよく分からないがとにかく夏季休暇前に課題を提出しなければならなかった。


(ーーーこれが仕事につながるとは到底思えない)


 そんな事を考えていた私は階段を一段踏み外してしまった。


「あっ!」


 振り仰いだ天井にはつばめが巣を掛けていた。「あーー知らなかった」と身体が地球の引力に負けた瞬間、鋭い音がしてアクリルボードが粉々に砕け散る音がした。


(ーーー高かったのに)


 そして気が付けば私は階段途中でこの身を誰かに預けていた。


「おっとっと、君、胸大きいね」


 確かに色とりどりの油絵具が付着した分厚い手のひらが私の両胸を下から支えていた。これは褒め言葉なのか否かと考えて振り返るとベージュの帽子を被った丸眼鏡の笑顔があった。


「あ、カーネルサンダース」


 危機一髪から救い出してくれた相手に大変失礼な発言をしてしまったが、彼の名前はカーネルサンダースではなく油画コースの井浦教授だ。他の美術科教授陣が神経質な細身である事から彼の体型が強調されてしまうのだろう。


(あ、胸板厚い)


 私は今、井浦教授がメタボリックシンドロームや内臓脂肪過多ではない事を確認した。


「カーネルサンダース?」


 井浦教授の出立ちは大概同じで遠目に見てもすぐに分かる。ベージュの帽子、白いTシャツ、ベージュのサファリベストにベージュのチノパンツとベージュの塊が床の上を移動しているみたいだった。


「君、チキンが食べたいの」

「いえ、そういう訳ではありません」

「はい、気をつけなさいね」


 私は脇を掴まれると三段下の階段の踊り場に戻された。


「ありがとうございます」

「はい、では」


 結局割れたアクリル板は自分で始末しなくてはならなかったが井浦教授のお陰で私は無傷で済んだ。そして初めて間近で見たカーネルサンダースの物憂げな目に私の胸は高鳴った。


 数日後、来春の就職に向けた企業説明会が開かれた。大教室の棚田のような机に座ると教卓両脇に各学科の教授陣が並んだ。勿論、その中に井浦教授の姿もあった。


「え、誰、あれ」

「カーネルサンダース」

「うっそ、イケオジじゃん」


 井浦教授はベージュの帽子を被っておらず、濃灰のスーツに黒い革靴、髪はオールバックに撫で付けていた。これまで「カーネルサンダース、ださーー」と眉間に皺を寄せていた女子生徒たちもざわついた。


(ーーーー眼鏡、眼鏡を外した顔を見てみたい)


 私の煩悩に塗れた視線に気が付いたのか井浦教授が振り向いた。私の右隣は男子生徒でパンフレットに肘を突いてボールペンを回し、左隣の生徒は机に突っ伏していた。視線が絡み合い井浦教授の口元が緩んだ、やはり私を見ていた。


(ーーーーえ、なんで、なんで)


 耳から心臓が飛び出しそうになり頬が赤らんだ。


(ちょ、ちょっと待って)


 思わず視線を膝に落とし恐る恐る顔を挙げて見ると、井浦教授は素知らぬ顔で脚を組みパンフレットのページを捲っていた。その指先は赤や黄色の油絵具に塗れ、パイプ椅子に座っている男性が紛れもなく井浦教授である事を示していた。


(ーーー井浦教授の指に指輪はない)


 いつものゆったりしたTシャツやチノパンツの下には予想外の肢体が隠され、その二面性に強く惹かれた。


(ーーーあ、あの顔)


 そして時折見せる少し気怠げな表情は魅惑的だった。


 次の日は茹だるような暑さだった。制作室の空調も効いているのかいないのか生温い。振り向くとそこには窓を開け放ち電子タバコを咥えた男子生徒が机に脚を投げ出してデザインを捻出している。


(ーーー物思いに耽るのは良いけど、どこか他所でお願い出来ないかな)


 などと言える筈もなく、私は渋々階段を下り自動販売機のお世話になった。


ピーーガタン


 茶色い硬貨がカチャンカチャンと落ち、取り出し口から冷えたオレンジジュースを受け取った。缶の水滴が心地良い「さて」と周囲を見回してみたがベンチは既に満員御礼だった。


(うーーーん、あっ!)


 ベージュの塊が昇降口に座っていた。落葉樹が陰を作る階段には微風が吹き込んでいた。


(なにをしているんだろう)


 井浦教授は階段の一段目に座りアスファルトを眺めていた。私は少し離れた三段目で缶ジュースのプルタブを開けた。


プシュ


 井浦教授はその音に気付いて振り返ったが、感情の乏しい面持ちで再びアスファルトに視線を落とした。


(気が付かなかったかな)


 いや、気付くもなにもこの時まで私と井浦教授に深い接点はなかった。


キーンコーンカーンコーン

キーンコーンカーンコーン


 授業開始のチャイムが時間を切り取った。午後の授業を選択していなかった私は大欠伸おおあくびでその横顔を見つめていた。缶ジュースが温くなった頃、不意に声を掛けられた。


「授業はどうしたんですか」

「選択していません」

「そうですか」


 二人の間を風が吹き抜けた。


「教授はなにをしているんですか」

ありがね、大慌てしているんですよ」

「はぁ、蟻」

「はい」


 隣に座って覗いて見ると蟻の巣の入り口に小石が円を描くように置かれていた。


「それ、先生が置いたんですか」

「はい」

「酷いですね」

「はい」


 私と井浦教授はひざを抱いて地面の蟻を眺めた。


「君、玉葱たまねぎみたいな頭だね」

「マッシュルームヘアです」

「あぁ、椎茸しいたけ

「おなじ菌類ですが別物です」


 高かった太陽が日本海に沈む頃、ようやく井浦教授はその場で立ち上がった。腰が痛むようで少し前に屈み両手で摩っている。


「君、じっとしているの好きなの」

「好きではないですけれど苦手ではないです」

「じゃ、僕ののモデルになってみないか」

「ヌードは嫌ですよ」

「ちぇっ」


 その年齢で「ちぇっ」は無いだろう。20歳と45歳、25年の歳の差の二人はこの樹の下で知り合った。


 それから私は鼻につくテレピンオイルの臭いに誘われ油画制作室の前を彷徨うろつくようになった。けれど井浦教授のベージュの帽子はイーゼルとキャンバスの林の向こうに見え隠れするだけでその顔を見る事は叶わなかった。


(今日も収穫なし、会いたかったなぁ)


 そんな私の夏季休暇までに提出しなければならない課題の進捗しんちょく状況はかなり危うかった。


(仕方がない、頑張るか)


 私は涼を求めて自動販売機の前に立った。


(ひゃ、100円玉)


 硬貨はジーンズのポケットの中、お目当ての銀色を探す事に四苦八苦した。その姿は穴倉あなぐらに頭を突っ込む野鼠のねずみだったと思う。


「あ、すみません」


 背後に人の気配を感じその場を退いた。


ぴーーがちゃん


「ひゃっ!」


 左頬の冷たさに飛び上がると目の前にオレンジジュースの缶がぶら下がっていた。視線を上に見遣るとベージュのサファリベスト、白いTシャツ、銀縁の丸眼鏡、心臓が大きく跳ねた。


「はい、これ前に飲んでいたでしょう」

「はい、飲んでいました」


 缶を受け取る時に指先が触れた。


「これは私からの賄賂わいろです」

「賄賂」


 眼鏡の下には切れ長の奥二重、初めて間近で見た気怠そうな笑顔。


「私の絵のモデルになって下さい」

「モデル」

裸婦らふはいかがですか、涼しいですよ」

「ヌードはお断りです」

「ちぇっ」


 45歳は口を尖らせた。


「そうだ、あなたの名前を教えて下さい」

「デザインビジネスコースの田上七瀬です」

「七瀬、七瀬ちゃん」

「いきなりですか」

「私は生徒のみなさんを、ちゃん、くんで呼んでいます」


 ちょっと残念な心持ちになった。


「教授の名前を教えて下さい」

「油画コースの」

「それは知っています」

「井浦惣一郎45歳です」

「惣一郎さん」

「はい」


 そこで惣一郎さんは生徒に呼ばれて制作室へと戻って行った。私の右手の人差し指には赤い顔料が付いていた。


 結局、私は汗をかいたオレンジジュースのプルタブを開ける事なかった。


(これは記念に取っておこう)


 透明なアクリル板は放置状態、私は右手を天井にかざし人差し指に着いた赤い顔料を眺めていた。


「なにしてんの」

「え」

「♪僕らはみんないーきている♪ってやつか」


 その声の主は大垣 光一おおがきこういち(20歳)、同じデザインビジネスコースの2年生だ。

 大垣は髪の毛をハリセンボンみたいに尖らせて自分では格好良いと思い込んでいる。然し乍らそのどんぐりのようなつぶらな瞳には全く似合っていない。


「なにそれ」

「歌だよ」

「そんな歌あったっけ」

「手のひらを太陽に、小学校で習わなかったのか」

「忘れた」


 大垣は目の前の椅子に座ると背もたれを抱えて振り向いた。


「おまえさっきからずっとその格好じゃん」

「さっきからずっと私の事見てたの」

「悪いか」

「悪いよ、閲覧料」


 大垣は事ある毎に私に絡んで来る。


「おまえ怪我、怪我じゃねぇな」


 大垣は私の右手首を掴むと人差し指の臭いを嗅いだ。


「うえっ」


 そして顔を背けた。


「おまえ、これ何処で着けたんだよ」

「油画の制作室」


 つい嘘を吐いてしまった。


「これ銀朱ぎんしゅ、舐めるなよすぐ洗って来いよ」

「え、やだ」

「やだじゃねーよ、水銀中毒になるぞ」

「えっ」

「嘔吐に下痢、ナチュラルダイエットしたいなら止めねぇよ」


 惣一郎さんが私に着けたのは朱色だった。

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