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第12話

 その日、Apaiserアペゼのフロアでは最後の点検と清掃が行われていた。


「あ〜もう少しこっちです」


「ここ?」


「あ〜もうちょっと右です」


「右?右ってどっちだよ」


「そこ、そこです」


 宇野は脚立を使って天井からぶら下がったガラスシェードのペンダントライトの位置を調節していた。首がり腰が痛んだ。上半身をひねったその時、脚立を支えていたスタッフの足に掃除機のコードが絡み付きバランスを崩してしまった。


「あっ!」


 宇野の身体がグラリと傾いた瞬間それは投げ出され床へと叩きつけられそうになった。


「宇野さん!危ない!」


 咄嗟とっさの出来事だったが果林は迷うことなく菓子工房から飛び出していた。果林の左腕はかろうじて宇野の後頭部を支え難を逃れた。


「痛たたたたたた」


「大丈夫ですか?」


「オープン前に怪我するとか信じらんねぇ」


chez tsujisakiしぇ つじさきの店舗は既に解体され社員のフリースペースとして開放されていた。そのデイベッドには力無く横たわる宇野とそれを心配そうに見守る果林の姿があった。


「宇野さん、頭を打たなくて良かったですね」


「災難だよ」


「良かった、大丈夫そうで」


 宇野は産業医に「絶対安静、動かないように」と指示され、救急車の到着を待っていた。


「大丈夫もなにも、果林ちゃんこそ女の子が飛び出すなんて無茶しすぎだよ」


「だって、気が付いたら身体が動いていて」


「男前だね」


 果林は左腕を強く打ったが「骨には異常がなさそうだ」と産業医は湿布薬を貼り鎮痛剤の処方箋を手渡した。


「ねぇ果林ちゃん」


「はい」


三途の川さんずのかわを渡る前にこの前の答えを聞かせてくれないかな」


「三途の川って、おじいちゃんみたい」


「田舎の父ちゃんが言っていたんだよ」


 果林は宇野の顔を凝視して悲しげに微笑んだ。


「果林ちゃん、それって駄目って事?」


「宇野さんは良い人だと思います」


「良い人ねぇ、一番聞きたく無い言葉だなぁ」


「優しくて頼り甲斐があって一緒に居ても楽しくて」


「でも駄目なんだ」


 果林の目には熱いものが滲んだ。


「ごめんなさい」


「そんな謝らないでよ、あ〜あ、果林ちゃんとわっさわっさしたかったなぁ」


「そのわっさわっさってなんですか?」


「分かんね」


 人影が宇野の顔を覗き込んだ。


「うおあっ!なんだよびっくりするだろ!」


「宗介さん!」


「俺の大切な部下と婚約者が怪我をしたと聞いて駆け付けた」


「はぁ?」


「誰と誰が婚約者なんだよ」


「昨夜、果林さんと婚約した」


「や、ちょっとまだお返事していません!」


 宇野は大きな溜め息を吐いた。


「な〜んだよ、宗介、それを先に言えよ!」


「まだ未確定な案件だったから告知しなかった」


「なんだよ、案件だの告知だの誤魔化しやがって、いつの間に出来てたんだよ!」


 宗介は腕組みをすると勝ち誇った顔で宇野を見下ろした。


「実はもう一緒に暮らしている」


「はぁ〜!?」


「まぁそういう事だ。残念だったな、だからおまえと果林さんはわっさわっさ出来ない」


「信じらんねぇ!」


 そこへストレッチャーを手に救急隊員が駆け付けた。


「怪我人はこちらの方ですか」


「はい、ちょっと頭がわっさわっさしているみたいなので念入りに検査して下さい」


「ちょ、おま!」


「はい、静かにして下さいね。はい、ストレッチャー通ります!どいて下さい!通ります!」


「これで虫は消えたな」


「宗介さん、なんだか宇野さんが気の毒です」


「虫は徹底的に駆除すべきです」


「そうですか」


「はい、それよりも果林さんも怪我をされたんですよね!」


「あぁ、打撲程度です」


 ふと見ると腕が膨れ上がっていた。


「こ、興奮していて気付かなかったんですが・・・・やっぱり痛いみたいです」


「早退して下さい!」


「は、はい。そうします」


 果林はエレベーターの中でうずくまった。






 耳元に風を感じた。


(・・・・・・ん)


 鎮痛剤を服用した果林はいつの間にかリビングのソファで眠り込んでいた。西日が差し込む光の筋、肩に触れる温もりと心地良い重さに目を見遣ると隣で宗介が寝息を立てていた。


(!?)


 見回すとそこは宗介の部屋で果林が仰向けになっているのはシダーウッドの香りがするキングサイズのベッドだった。


(これは、ベッドまで運んでくれたんだな、ん?)


 宗介の部屋はリビング続きで抱えて運ぶには丁度良い距離だと思われた。


(ングググぐ)


 起きあがろうとするが鎖骨に伸びた宗介の腕が兎に角重い。


(脱力した人間の重さ・・・・・・半端ない)


 果林が身体をよじっていると宗介の腕から力が抜け、朦朧もうろうとしながらも目が覚めた様子だった。


「宗介さん、宗介さん起きて下さい」


「・・・・・ん」


「宗介さん」


 夢かうつつか、事もあろうか宗介は果林の頭に頬擦りすると優しく抱きしめ子どもがぬいぐるみを撫でるように手を動かし始めた。身体中を這い回る指先は意志を持ち、これは明らかに寝た振りをしているのでは無いかと勘繰る程だった。


(・・・・・ちょっ)


「宗介さん、起きていますよね!」


 指先がルームウェアの裾から中へ差し込まれた。


「宗介さん!」


「ちっ、ばれたか」


(・・・・・ちっ!?今、ちって舌打ちしたよね!?)


 果林が宗介に向き直ると優しい眼差しが捉えて離さずゆっくりと唇が重なった。


「・・・・・!」


「腕、やっぱり痛いですか?」


「腕よりも!今、き、キスしましたよね!」


「キスなら一度しているじゃないですか」


「あ、あれは、なんて言うか雰囲気に流されて!」


 宗介は果林の額に口付けで呟いた。


「宇野ではなく私を選んでくれたんですね」


「そ、それは」


「ありがとうございます」


 宗介の指先がルームウェアの裾をめくった。


「ちょっ」


「ちょ?」


「こういう事は、怪我が治ってからにして下さい!」


 すると宗介は言質げんちを取ったと言わんばかりの表情を浮かべてベッドから起き上がった。


「分かりました。怪我が治ったらにします」


「ぐっ、ぐぬぅ」


「でも気持ち良かったでしょう」


「ぐっ、ぐぬぅ」


「我慢は禁物ですよ」


「宗介さんは我慢して下さい!」


 穏やかな物腰に見え隠れする素顔の宗介に果林の心はときめいた。


「もーーー!」


「牛ですか」


「もーーー!」


「美味しそうな牛ちゃんです」


「もーーー!」


 果林はクッションを宗介に投げ付けた。


「さぁ、夕食ですよ。今夜は食べやすい献立をお願いしました」


「なんですか?」


「冷たいお素麺です、それならお箸で摘みやすいでしょう」


「ありがとうございます」


 これまで木古内和寿から身体の具合を気遣われる事など皆無で熱があっても働かされた。宗介とは互いを思い遣れる穏やかな暮らしを営むことが出来るだろう。2人の結婚生活の輪郭が見えたような気がした。


「なんですか?」


「宗介さんといると幸せだな〜って思いました。」


「それなら婚姻届に印鑑を捺して下さい」


 眩しい笑顔が屈み込んで来た。


「そ、それは」


「お素麺を食べたら捺しましょう」


「それは」



 エレベーターの中で詰め寄られて汗が滲んだ。


「うーん」


 そして素麺をすする食卓では宗介の大立ち回りが話題に上った。




「え、そうなんですか!?」


「そうなんだよ、こいつはchez tsujisakiしぇ つじさきのパティシエを踏みつけたらしいぞ」


「父さん、虫の横に靴を《置いただけ》です」


「あらまぁ、困った子ねぇ」




「え、そうなんですか!?」


「果林さんに慰謝料600万円払えと殴ったらしいぞ」


「父さん300万円です。あと300万円は割られた窓ガラスの賠償金です。それに殴ってはいません」


「あらまぁ、暴れん坊さんねぇ」




「え、そうなんですか!?」


「今日は果林さんを婚約者だと叫んで女性社員が泣いているらしい」


「叫んではいません」


「同じようなものだろう」


「父さん、今夜婚姻届が仕上がりそうです」


「あらまぁ、情熱的ねぇ」




 和やかな一家団欒、果林に逃げ場はなかった。


(印鑑捺すか)


 宗介は無言で素麺をすすり続けた。


 満面の笑みとはまさにこの事。


「はい!ボールペンと万年筆、どちらが宜しいですか!?」


「・・・・・・・」


「朱肉は丸と四角がありますが、どちらがお好きですか!?」


「・・・・・・・」


 宗介はクッションを抱えテーブルの横で果林の顔を覗き込んだ。


(犬みたいだ)


 飼い主にボールを投げてくれと尻尾を振る大型犬が隣に座り目を輝かせている。確かに婚姻届に印鑑を捺す事を断る理由などなにひとつ無い。


「では、書きます!」


「ボールペン、万年筆、丸、四角!」


「そのどれも要りません」


「え、なんですかそれ」


 果林はシャープペンシルを取り出すとカチカチカチと芯を出した。


「シャープなペンソー」


「はい」


「間違えると困るから?」


「いえ、Apaiserアペゼがオープンした日に書きたいと思います!その時はボールペンでお願いします!」


 宗介の眉毛は八の字になり眉間にシワが寄った。


「それはまた面倒な」


「私なりのけじめです」


「真面目」


Apaiserアペゼのオープンが成功する願掛けです」


 カーペットの上に伏した宗介は恨めしい面持ちで果林を見上げた。


「じゃあ《あっち》もお預けですか」


「あっち?」


「夕方の続きです、愛の行為です」


「なっ、生々しい表現しないで下さい!」


「じゃあ、セッ・・・・・」


「それも言わないで下さい、分かりますから!」


「ですよねーー」


「ですよねーー」


「で、そちらはご検討頂けるのでしょうか」


「・・・・モチロンデス」


「はい!?聞こえませんでした!もう一度!」


「勿論です!そちらの相性も大事ですから!」


「38歳なのでお早めにお願いします」


「現実的ですね」


「重要事項です」


 宗介は携帯電話を開いてGoogleカレンダーを果林に見せた。


「なんですか?」


「10月5日Apaiserアペゼがオープンします」


「はい、間違いありません」


「この前日、10月4日が私の誕生日です」


「そうなんですね!おめでとございます!」


「ありがとうございます、39歳です」


「なんだか暗いですね」


「なんとなく祝う気分にはなれません」


「そうですか」


「はい」


「しかし!誕生日の翌日に婚姻届!神様が私に下さった贈り物に違いありません」


「はぁ」


「なんですか、その気のない返事は」


「なんとなく」


「そうですか」


「はい」


 果林は1人で盛り上がる宗介を横目に婚姻届記入欄にシャープペンシルで一文字、一文字丁寧に 羽柴果林 と書き込んだ。


「宗介さん」


「なんですか」


「ありがとうございます、私、今すごく幸せな気分です」


「そうですか」


「はい」


 宗介は果林の顎を優しく摘むと唇を重ねた。


「早く怪我が治りますように」


「ありがとうございます」


「《あっち》が出来ませんから!」


「そっちですか!」


 素麺をすすった夜、婚姻届に印鑑が捺される事はなかったがシャープペンシルで2人の思いが繋がった。

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