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第9話

 果林は髪の毛を掻き上げた宗介の横顔を見た。


「宗介さん、副社長さんだったんですか」


「はい」


「どうして言ってくれなかったんですか?」


「地位や身分関係なく私の事を果林さんに知って欲しかったんです」


「そうかもしれませんが、それでも言って欲しかったです」


「そうですか、申し訳ありません」


 確かに気付く点は多々あった。社章を付けているが社員証はなく会社と同じ辻崎姓、各課の上役が気遣う存在と言えば代表取締役社長、専務取締役副社長、常務取締役、本部長、と役職が続く。


(・・・・・なんで気付かなかったかな)


 果林は鈍感な自分に呆れた。悶々とした顔をしていると宗介は「痛みますか?大丈夫ですか?」と果林の顔を覗き込んだ。


「果林さん、ご自宅まで送らせて下さい」


「え、そんな副社長さんに送って頂くなんて滅相もない!」


「私が送りたいんです」


「いや、そんな、ええと」


「それにその格好じゃバスにも乗れないと思いますが」


 確かに、全身泥だらけでスーツはヨレヨレ、ストッキングは破れ顔は無惨にも赤く腫れていた。


「ああ・・・・」


「送らせて下さい」


「・・・・ありがとうございます」


 すると宗介は内線電話の受話器を持ち上げた。


「車を回してくれ」


(くれ、くれとな!この命令口調!やはり副社長!)


「どうしましたか?」


「改めて驚いているところです」


ぽーーーん


 エレベーターの扉が開くと車寄せには埃一つ付いていない黒い車が停まり黒いスーツに白い手袋の運転手がうやうやしく頭を下げていた。


「さぁ、行きましょうか」


「こ、これに乗るんですか!」


「そうですよ、私の車です」


「これに・・・・」


 果林は改めて自身の姿を確認し、革張りの車内を交互に見て首を振った。


「いやいやいやいや、お車が汚れてしまいます!」


「大丈夫ですよ、彼が清掃してくれますから」


「そんな意味ではなくて!」


 運転手にお辞儀された果林はその異世界に目を白黒させた。


「さぁ、乗って下さい!」


 果林は黒い車の後部座席に押し込まれた。後部座席のシートは程よい硬さで果林はその表面を指先で擦ってみた。それは合皮ではなく本革、確かにそれらしき匂いがした。


(・・・・・えっと)


 隣でiPadの画面をスライドしている宗介の横顔はいつもと違って見えた。何処か厳しく張り詰めた雰囲気、近寄り難い存在だった。


「この前のアパートまで行ってくれ」


「かしこまりました」


 運転席に座る初老の運転手の姿勢は良く、ハンドルさばきも滑らかだ。ウインカーが右折レーンで点滅し確かに果林が住むアパートへと向かっていた。


(え〜と、どうしてこうなったのかな?ん?)


 果林は意を決して尋ねてみた。


「宗介さん」


「なんでしょうか」


 そう言って振り向いた面立ちは優しい笑顔で安堵した。


「あのー、お土産や薔薇の花束を下さるのはどうしてですか?宗介さんと私、以前どこかでお会いしたことありますか?」


 宗介は片側三車線の大通りの中央を指差して懐かしそうに振り返った。


「あの辺りに建っていましたよね、果林さんがお勤めされていた木古内洋菓子店」


「あ、はい」


「あれは・・・・私がまだ本部長だった頃かな、よく通っていたんですよ」


「通っていた、お客さまだったんですか?気が付きませんでした」


 果林は通り過ぎる交差点で身を乗り出した。


「新社屋ビルの建設が決定した頃のことです」


「はい」


「心苦しい事ではありましたが近隣住民の方に立ち退きをお願いしていました。ただその中の数軒から立ち退きを断られてしまいました」


「あ、うちですね」


(さすが強欲ババァ)


「木古内洋菓子店にお願いに伺っているうちに1人の女性が気になり始めました」


「1人の女性」


「それが果林さんです」


「はぁ」


「オーナーから怒鳴られても笑顔を絶やさないその姿に惹かれました」


「惹かれました」


ぶっ!


「あ、ごめんなさい。驚いてしまって」


「いえ、突然申し訳ありません」


「それで毎日chez tsujisakiしぇ つじさきに来て下さったんですか?」


「最初は木古内和寿の動向を探っていたのですが果林さんとお話しするうちに欲が出てしまいました」


「欲、ですか」


「2年間の片思いです」


ぶっ!


「2年間、の」


「あなたのな不遇ふぐうな環境が見ていられなくてApaiserアペゼのオーナーに推薦しました」


「そんな単純な理由で」


「いえ、果林さんの接遇の素晴らしさや調理の腕の確かさは総務課部長や人事課部長も認めています」


「ありがとうございます」


「それに私の父も果林さんの事を褒めていました」


「父」


「はい、父です」


「父の父とは父の父で父ですかーー!」


「はい」


「父とは、しゃ、社長」


「はい、数回果林さんの接遇を受けたそうです」


「そうなんですね、全く気が付きませんでした」


「という事で果林さんは実力でApaiserアペゼのオーナーになられました、推薦した私も鼻高々、嬉しいです」


「・・・・はぁ」


 そんな衝撃の告白を受けていた果林はさらに衝撃の事態に直面することとなった。

 交差点を曲がり細い路地に入ると規制線の黄色いテープが張られ人混みが出来ていた。


「副社長、通行止めの様です」


「迂回出来るか」


「いえ、この先は一方通行です」


「ありがとうございます。アパートから近いのでここから歩いて行きます」


「そうですか」


 その時、人混みの向こうに赤い消防車が見えた。放水しているらしく白い煙がもくもくと立ち昇っていた。その方向には果林のアパートがある。まさかと思い後部座席のドアを開けると焦げ臭い臭いが充満していた。


「火事のようですね」


「まさか!」


「アパートの方角ですね」


「ちょっと見てきます!ありがとうございました!」


「果林さん、私もご一緒させて下さい!」


「はい!」


 人混みを掻き分けると「ここから先は立ち入り禁止です!」と消防隊員に立ち入りを制止された。


「近くのアパートに住んでいるんです!お願い!入れて下さい!」


「ですが!」


「ほんの少し見るだけでも良いんです!」


「危険ですから入れません!」


 慌ただしく走り回る消防隊員、その向こうには炎が燃え盛る築40年のアパートがあった。果林の部屋は焼け落ち煤に塗れた柱が数本残っているだけだ。


「あ、ああああ、私の部屋が!」


「果林さん、大丈夫ですか!」


「どうしよう、アパートが火事とか最悪」


 果林は膝から崩れ落ちると消防車の放水で濡れたアスファルトにしゃがみ込んだ。


「果林さんの部屋は・・・・全焼の様ですね」


「は、はい」


 出火原因は住人の火の不始末だという。木古内和寿に殴られた挙句自宅は全焼、この災難続きに果林は途方に暮れた。


「これから私はどうしたら」


 真っ青になった果林の顔を覗き込んだ宗介はひとつの提案を申し出た。


「果林さん、会社所有の社宅がありますよ。しばらくそこに身を寄せてみてはいかがでしょう?」


「えっ!そんな場所があるんですか!」


「はい」


 宗介は満面の笑みで頷き果林の手を取った。


「さあ、行きましょう」


「あ、ちょっ」


「さあさあさあ」


「私、管理会社の方との手続きが!」


「その様な事は明日でも出来ます、さぁ車に乗って下さい」


 果林は車の後部座席に押し込まれた。


 無理やり車の後部座席に押し込まれた果林は腑に落ちない面持ちで燃え盛るアパートを振り返った。


「果林さん」


「はい、なんでしょうか」


「住居を移されて社宅に入るにはご親戚の方にお知らせしなくてはなりませんね」


「はい」


「叔父さまにお伝えしておきましょう」


「はい?」


「羽柴さんの叔父上宅まで頼む」


「かしこまりました」


 運転手はルームミラーの中でうやうやしく頷いた。


「・・えっ、叔父さんの事まで」


「はい、社員の家族構成は把握しておかなくてはなりませんからね!」


「宗介さん、それは職権濫用」


「プライバシーの侵害も含まれるでしょうか?」


「それは分かりませんが今、ドン引きしています」


 そして果林の叔父は宗介の身なりに驚き、手渡された名刺に腰を抜かした。


「つ、辻崎、辻崎株式会社の副社長さん」


「はい、お初にお目に掛かります。辻崎宗介と申します」


 叔父は縮こまり茶托を差し出す叔母の指先は震えた。


(おおーーーい)


 宗介の登場で果林のアパート全焼云々は吹っ飛び「アパートが焼けたの」「あ、そうか」程度で終わってしまった。


「という事でお住まいを無くされた羽柴果林さんには我が社が所有する社宅をご用意致しました。そちらへの入居につきましてはご了承頂けますでしょうか」


 叔父は火事で焼け出された姪の渡りに船とばかりに二つ返事で頷いた。


「ぜ、是非!よろしくお願い致します!」


「では失礼致します」


「叔父さん、叔母さん遊びに来てね」


「元気でな」


「副社長さんに可愛がって貰いなさいよ」


「え、それどういう意味!?」


「元気でな」


「なに、その今生こんじょうの別れみたいな言い方やめてよ!」


「達者でな」


「叔父さん!?叔母さん!?」


 それはもういつの時代かは不明だが、奉公ほうこうに出される娘の気分で果林は車の後部座席に押し込まれた。


 叔父と叔母の様子がおかしいことに疑問符を抱いていた果林だったが、きらびやかな車窓からの眺めを見ているとそんな事は吹っ飛んでしまっていた。会社所有の社宅ならば辻崎ビルに近く通勤も便利だろうと果林はまだ見ぬ新しい住まいを思い描き胸躍らせた。


(どんな感じかな、アパート、まさかマンションだったりして!?)


「はい、着きましたよ」


「はい?」


 到着したのは辻崎株式会社の正面玄関の車寄せだった。運転席から降りた運転手がうやうやしく後部座席のドアを開け、果林が茫然としていると宗介が不思議そうな顔をして車内を覗き込んだ。


「どうしましたか?降りて来て下さい」


「あ、あのーーここは本社ビルでは?」


「はい、ここが会社所有の社宅です」


「は、はぁ」


 果林は嫌な予感がした。それは数分後に的中した。宗介はエレベーターホールで黒いカードキーを階層ボタンにかざし上階へ向かう矢印を押した。


「はい、どうぞ乗って下さい」


「は、はい」


 一般社員が出入り可能な7階の屋上庭園を通過したエレベーターの箱は上昇し続けた。


「8階は秘書のフロア」


「はぁ」


「9階は本部長クラスのフロア」


「はぁ、本部長」


「10階は常務取締役クラスのフロア」


「そうですか」


「11階は私のフロア」


「そ、宗介さんのフロアとは副社長のお部屋ですか?」


「そうです」


「12階は父のフロア」


「ち、父とは父の父で社長さんですか」


「そうなりますね」


「宗介さん、い、今私たちが向かっているのは」


「16階の私の部屋です」


「ですよねーーーー!」


ぽーーーん


 ここはいつか見た風景。以前「お茶を飲んでいきませんか?」と強引に誘われ連れ込まれそうになった宗介の部屋だ。


「ここが会社所有のしゃ・・・社宅ですか?」


「はい!」


 家財道具一式、住む場所を無くした果林に選択の余地は無かったがだまされた感が半端なかった。


「どうぞお入り下さい」


「はい」


「靴は脱いで下さい」


 宗介の赤茶の革靴の隣に泥だらけの黒いパンプスが並んだ。


「では、あらかじめご説明致しますね」


「・・・・・はい」


 白い大理石のエレベーターホールまでは清掃員が掃除、分別ごみ、燃えるごみなどのペールが壁に埋め込まれそれも回収してくれるのだと言った。


「部屋の中は自分で掃除すれば良いんですね」


「はい」


 制服やスーツは8:00にクリーニング店が集荷に来るので備え付けの棚に入れておく様にと説明があった。


「あの、タオルや細々とした物の洗濯はどうすれば良いのでしょうか」


「あぁ、ランジェリーですね!」


 それは大丈夫だとドラム式の洗濯機を叩いて見せた。


「最新式なんですよ」


 ロボット掃除機もかき集めたゴミを自動で処理する最新型なのだとそれを抱き抱えてドヤ顔をした。


(家電製品マニアなんだな)


「ここが果林さんのお部屋です」


「ここが、会社所有の社宅ですか・・・・立派ですね(20畳は軽くある・・・!)」


「そうですか?普通だと思いますが」


(副社長さんならこれが普通なのかもしれませんが!これは普通じゃありません!)


 フローロングは柞の木いすのきで紅色を帯びた褐色、壁紙はアイボリーで優しい雰囲気だった。


急遽きゅうきょ秘書に準備させました。必要な物があれば遠慮なく仰って下さい」


 その部屋があまりにも立派すぎて口をあんぐりと開けていた果林だったが中に入ってみると真新しい木の香に包まれ、家具の優しい手触りに一瞬で心奪われた。


「か、可愛い、かわいいです!」


「可愛いですか!そうですか!」


 腕を組んでいた宗介は壁に寄り掛かって満足げに微笑んだ。クローゼットは埋め込み式でチェストやリビングテーブルも白味の強い楠の木くすのきで自己主張せず広々として見える。見上げると天窓が付いていた。晴れた日は青空が気持ち良いだろう。壁の窓からはchez tsujisakiしぇ つじさきの庭園にあるけやきの樹を見下ろす事が出来た。それにしても16階は高すぎる。地上に吸い込まれそうになった果林はもう2度と下は見ないでおこうと誓った。


「温かい造りですね」


「はい、辻崎株式会社のシンボルツリーはけやき、幸せの象徴だと言われていますから」


「なるほどです」


 そして振り向くと立派なベッドが鎮座していた。


「・・・・大きいですね」


「ベッドはクィーンサイズです」


「クィーンサイズのベッドは初めて見ました」


「このサイズだと2人でも広々です」


「2人」


「はい」


(2人、もしかして、もしかしてですか?)


 身の危険を感じながら周囲を見回してみたが電化製品が見当たらなかった。


「あの、失礼ですがキッチンは」


「リビングにミニキッチンがありますから使って下さい、食事は14階の食堂で食べます」


「しょ、食堂?」


「テレビはリビングにありますから一緒に見ましょうね」


「・・・・・はい」


 浮き足立ち嬉しさが隠せない宗介はルームツアーを続けた。


 「ここがバスルームとトイレです」


 2箇所のセパレート式のバストイレと洗面所のすりガラスの扉には鍵が付いていた。これならば2人でも難なく使える。その脇にはウォークインクローゼットとシューズボックス、コートなどはここに掛けるのだと言う。


(コート、私は冬もこの社宅に住むのか?)


「奥がリビングルームと書斎です」


 リビングルームも温かな造りでフローリングは柞の木いすのき、壁はアイボリー、家具も白味の強い楠の木くすのきで揃えられていた。


(会社の副社長さんの部屋って黒とか金とか大理石かと思ってた)


 カーテンも落ち着いたグリーンで森の中にいる様だ。リビングルームの隅にはバーカウンターと冷蔵庫があった。中を見ても良いですかと尋ねると「どうぞどうぞ」と鼻息荒く勧めるだけあって中はミネラルウォーターと赤ワイン、数本のビール、チーズが整然と美しく並べられ清潔そのものだった。


「まるでどこかのお店みたいですね」


「整理整頓が基本です」


 働く気力が皆無だった木古内和寿とは雲泥の差だった。


「次は私の部屋です」


「えっ、そんなプライベートな場所まで!良いです、結構です!」


「果林さんには私の全てを知って頂きたいのです」


「全てを知る」


「はい、すべてを、です」


 宗介の部屋も果林の部屋と同じ造りでやや広い。そしてこちらにはこれまた存在感が半端ないベッドが鎮座ましましていた。


「こ、このベッドはかなり大きいですね」


「キングサイズです」


「キングサイズ、ゴロゴロ転れそうですね」


「転がってみますか?」


「あ、いえ。この格好ですし」


 果林は全身泥だらけだ。しばし考えた宗介は自室から新品のTシャツとデニムのシャツ、ハーフパンツを持って来た。


「大きいとは思いますが着て下さい」


「・・・・・?」


「買い物に出掛けましょう」


「買い物、誰のですか?」


「果林さんのお洋服です!ランジェリーも必要ですしね!」


(やっぱりランジェリー大好き人間だ)


 そうと決まればと宗介は秘書室直通の内線電話の受話器を取った。


「あ、あの!私お金なくて買えません!」


 宗介は見たことも無いクレジットカードを胸ポケットから取り出した。


「車を回してくれ」


 果林は車の後部座席に押し込まれた。


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