宇野に支えられて医務室の扉を開けた果林は産業医の診察と手当を受けた。両手首と顔には複数の擦り傷、口角と口腔内は内出血を起こしていた。
「はい、これで冷やして」
「ありがとうございます、ごめんなさい」
「果林ちゃんが謝る事じゃないよ」
「でも、ガラスが割れてしまいました」
「あんなものは金を出せば何とでもなるさ、果林ちゃんの身体の方が心配だよ」
果林は宇野に手を握られながら冷却剤で頬を冷やした。
「お、来たきた」
廊下を小走りに革靴の音が近付いて来た。それは医務室の扉の前を素通りし慌てて戻って来た。
「果林!」
「宗介さん」
慌てた宗介の顔色は青ざめ宇野を突き飛ばすとベッドの傍に両膝を突いて果林の手を握った。その大きな手の温もりに安堵した果林の目には涙が浮かんだ。
「大丈夫か!」
「はい、宇野さんが来て助けてくれました」
宇野はうんうんと頷いた。それを見た宗介は「大丈夫なんだろうな!」と言わんばかりの表情で産業医を睨みつけた。
「あぁ、問題ないですよ軽い打撲です」
「本当か!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃなかったら解雇だぞ!」
「大丈夫です」
果林の傷の状態がさほど悪くないことを確認した宗介は勢いよく床から立ち上がった。
「宇野、木古内和寿はどこに居る!」
「総務課の隣の会議室だよ警備員が付いている」
「分かった」
「おまえは仕事に戻ってくれ」
「了解、果林ちゃんの事は頼んだぞ。で、割れた扉は如何する」
「大至急発注だ」
「了解」
「果林さん、事情を伺いたいので会議室まで一緒に来て頂けますか?」
「はい」
宗介は果林の頭を撫でると優しく微笑んだが、扉に向かった顔は厳しいものへと変化した。
果林は宗介に肩を抱かれエレベーターに乗った。4階総務課のエレベーターホールにはビジネスバッグを抱えた中肉中背で濃紺のスーツを着用した男性と、上背のあるやや白髪混じりの短髪でワイシャツにベージュのチノパンツを履いた男性がソファに腰掛けて待っていた。
「この度はご足労頂き有難うございます」
「いえ、こちらこそご迷惑をお掛けいたしました」
「こちらへどうぞ」
「はい」
白髪混じりの男性は腰を屈め、総務課社員に頭を下げながら申し無さそうに廊下を歩いた。
コンコンコン
宗介が総務課会議室と表示された扉をノックすると中から複数人の警備員が顔を出し深々と頭を下げて退出した。
「ご苦労様でした」
「はい」
「ではどうぞ、お入り下さい」
「はい」
警備員と入れ違いに宗介と果林、2人の男性が入室した。会議室には木古内和寿、木古内菊代、杉野恵美が青ざめた顔でパイプ椅子に座っていた。チノパンツを履いた男性は杉野恵美の顔を見るなり歩み寄ると右手を振り上げ思い切りその頬を叩き怒鳴りつけた。杉野恵美はパイプ椅子ごと後ろに倒れた。
「おまえは何をやっているんだ!」
「あ、あなた」
「この恥知らずが!」
この男性は杉野恵美の夫だった。宗介は雇用契約書の緊急連絡先から夫に接触し妻が
「ま、まさかそんな筈は」
「それではご確認下さい」
当初その事実を受け入れられなかった夫は
「も、申し訳ありません」
そこで濃紺のスーツを着用した男性が杉野恵美に数枚の書類を提示した。
「あなたには
「そんな」
杉野恵美は呆然となった。
「ご主人様に賠償金の肩代わりをお願いされてはいかがですか」
「あ、あなた」
夫は
「弁護士の方に聞けば俺はおまえに不倫の慰謝料の請求が出来るらしいじゃないか」
「そんな!」
「賠償金はおまえ名義の不動産でもなんでも売却して自分で後始末しろ!」
「そんな」
杉野恵美と夫の修羅場を横目に和寿は項垂れ、両膝の震えを止めようと両手で押さえたが今度は
「あっ、あなた!待って!」
すがり付く妻の声など聞こえぬ素振りの夫は勢いよく扉を閉め、杉野恵美は床に突っ伏して号泣した。それをさげすんだ目で見た宗介は弁護士に目配せをした。
「さあ、落ち着いて座って下さい」
弁護士が倒れたパイプ椅子を元に戻し座面を叩くと杉野恵美は力無く立ち上がり焦点の合わない目で腰掛けた。その顔は化粧が崩れ落ち見るも無惨なものだった。
「では」
次に宗介は和寿の前に腰掛け、弁護士がファイリングした資料をパラパラとめくり和寿に提示した。
「では木古内和寿さん、あなたにはお伺いしなければならないことがあります」
「は、はい」
「まず、
「私は・・・・そんな事はしていません」
「では、この白紙の請求書はどう説明されますか?」
「し、知りません」
和寿は什器や食器発注の際、安値の粗悪品を仕入れ白紙の請求書に正規価格を記入し経理課に提出していた。その水増し請求額は1回に付き多くても20,000円程度だが積もり積もればそれ相応の額になる。
「これは横領、犯罪になりますよ」
「そんな」
「あと、木古内菊代さんですが」
菊代は肩を振るわせながら宗介の顔を見た。
「わ、私がなにか」
「毎日
「は・・・はい」
「そのお代金はお支払い頂けたのでしょうか?」
「だ、代金?」
「お支払いが未だでしたら2年間で約649,700円を請求致します。ご子息の木古内さんがお支払いになられますか?」
「そんな事はババァに請求しろよ!」
「しかしながら無銭飲食を黙認された管理責任者の木古内さんにも非があると思われませんか?」
「そ、そんな」
宗介はファイルを弁護士に返却すると和寿に向き直った。そして宗介の声色がより一層厳しいものとなった。
「あと、
「被害届?」
「警察にです」
「そんな、そんな大袈裟な」
コンコンコン
入室したのは総務課部長だった。
「あぁ、分かった」
一言二言、耳打ちされた宗介は和寿の前で腕を組んだ。
「警察が来た」
「え、まさか」
「
「しょ、証拠はあるのかよ」
「我が社の監視システムを軽んじられては困ります。証拠はいくらでもあります」
宗介は果林を見遣ると「間違いないですか」と尋ね、果林は「暴行を受けた」と力強く答えた。
「くっそ」
「なお、
「払える訳ないだろう!」
宗介はテーブルを激しく叩くと和寿の顔を睨み付けた。そして弁護士と果林、杉野恵美に退出するように申し付け、その場に立ち上がった。その手はいきなり和寿の襟首を掴み捻り上げた。
「な、なんだよ!」
「おまえ、果林を殴ったな」
その声は低く唸り声を上げているような凄みがあった。
「お、俺の部下だ問題、ない、だろ」
「もうおまえとは縁が切れている!」
「あんたに関係ないだ、ろ」
「果林にはもう2度と近付くな!警察には付きまとい行為で被害届を提出する!次に果林の前に現れたら厳重注意、逮捕だぞ!覚えておけ!」
「わか、分かったから離してくれ」
宗介は振り払う様に和寿を床に叩き付けた。
「いてぇ、こんな暴力許されるのかよ!」
宗介の口元が歪んだ。
「うちの防犯システムは優秀なんだよ」
「暴力で訴えてやる!」
赤茶の革靴が床に倒れ込んだ和寿の顔の横に減り込んだ。
「おおーーっと、ゴキブリかと思った。すまん」
「や、やめてくれ!」
「チョロチョロ動くなよ、踏んでしまうかもしれん」
「ざ、ふざけんな!」
宗介は和寿に馬乗りになり睨み付けた。
「殴り付けたいのは山々だが我慢しよう」
「やめてくれ!もう分かった!悪かった!」
宗介は和寿の両の頬骨を指で挟み左右に激しく振った。
「んガッ、んが!」
「お前、果林に暴言と暴力を働いたよな」
「んガッツ」
「羽柴果林への精神的苦痛と暴力行為で慰謝料200万円でも300万円でも一括請求してやるから待ってろよ」
「んが!」
「自宅も家財道具も一切合財巻き上げてやる!」
「んがっ!」
「婆さん
「んガッツ!」
ふぅ、と一息吐いた宗介は身なりを整え髪を掻き上げると内線電話の受話器を上げた。
「終わった。もう入って良い」
すると傾れ込んだ複数の警察官が木古内和寿を抱え上げその身体を引き摺り、木古内菊代は女性警察官に従い後に続いた。果林は呆然と弁護士に尋ねた。
「あの、弁護士さん」
「なんでしょうか?」
「宗介さんは何者なんですか?」
「?」
「こんな事が出来ちゃう人って偉い人なんですか?」
「あぁ、辻崎株式会社の副社長ですが羽柴さんはご存知なかったんですか?」
「あ〜副社長」
「はい、副社長さんです」
「副社長!?」
果林はその時初めて宗介の正体を知った。