果林は退職届を何度も書き直し一晩掛かって書き上げた。最後に印鑑を力強く捺した。これを4階の総務課に提出すれば晴れて自由の身だ。
(やっと、やっと解放される)
そして遅番の果林が出勤するとランチタイムにも関わらず店内は閑散としていた。
「その時さぁ、なんて言ったと思う?」
「なになに、ほんとぉ」
他人事の様に菓子工房の中で楽しそうに会話をするお花畑なパティシエとアルバイター、我が物顔で無銭飲食を楽しむ自称
(この店は終わりだ)
果林は今、まさに沈んでゆく泥舟に乗っている。
(これはもう今すぐ退職届を提出せねばならない!)
「おい!果林!」
「あ、はい」
「ダスターまとめて洗濯しとけ!」
(なんで私が!そこにもう1人いるじゃない!)
果林は洗い物を籠に入れバックヤードの奥に向かった。バックヤードの奥は雑然として整理整頓がなされていない。どうやら木古内和寿と杉野恵美が
(もう地獄でしかない)
洗濯機を回していると木古内和寿の愚痴が始まった。
「なんだよ、トンテンカンテンうるせぇんだよ」
「なに作ってるのかなぁ」
「くっそ、辻崎に営業妨害だって言ってやる!」
木古内和寿は向かいの工事の音が
「あ、果林さぁん」
「なんでしょうか!」
「窓際のイケメンがお呼びですよぉ」
「かしこまりました!」
「なんだよ、イケメンって」
「うっそ、嘘。和寿の方がぁ〜い・け・め・ん」
(がぁがぁってあなたはアヒルですか!)
手指の消毒を済ませてサロンエプロンを着ければ営業スマイル。14:00、
「いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
2人の口元が同時に綻んだ。
「あ、宗介さん。昨日のお土産ですが誰かのプレゼントと取り違えていませんか?」
「なにか不具合でもありましたか」
「いえ、金色のコンパクトを頂いたのですが調べたらとても高価でどなたかのお土産と間違えていらっしゃるのではないかと思って持って来ました」
果林は丁寧に梱包し直した白い小さな包みをテーブルに置いた。
「いえ、それは果林さんの為に買いました」
「はぁ」
「今度、《私につけて下さい》」
(私に、とは。私につけるとは!なになになに、宗介さんって女装しちゃう系!?)
「いつか、私につけて下さいね」
「・・・・・・・・はぁ」
宗介は自身の唇に指を当てながら、疑問符を頭に乗せた果林を見上げた。そして御守りはどうなったかと尋ねられ、果林は事の顛末を話した。
「果林さん、御守りは持っていますか?」
「あ、はい」
「貸して下さい」
果林がサロンエプロンから白い封筒に入った退職届を取り出すと宗介は席を立ち上がって窓際の席へと向かった。
(ーーーん?)
そこには甘党の総務課部長と人事課部長がマチュドニア(フルーツケーキ)にナイフとフォークを入れているところだった。宗介は隣の椅子に腰掛け退職届をテーブルに広げると果林を指差した。2人の部長は大きく頷いた。
「はい、これで提出完了ですよ」
(え、え、なに早すぎるんですけど!)
「ありがとうございます」
退職届を部長に直に手渡す男性、この辻崎宗介とは何者なのだろうと果林は首を傾げた。
「おまえ、今なにしたんだよ!」
木古内和寿は宗介が白い封筒を総務課部長と人事課部長に手渡した場面を目の当たりにした。
(・・・・・はぁ、面倒臭い)
果林はサロンエプロンを取りに行こうとバックヤードに向かった。
「ちょっと待てよ」
「なんですか」
すれ違い様に腕を掴まれ引き止められたがその部分から広がる気味の悪さで全身が鳥肌立った。
「で、あいつらになに渡したんだよ」
「退職届を出しました」
「はぁ?」
「退職届を出したの!」
「はぁ?なに勝手な事やってんだよ!」
「木古内さんが出して来いって言ったじゃない!」
「言ってねぇよ!」
「昨日の夜の事も忘れたんですか!」
木古内和寿はようやく思い出し、「あぁあれか、あれの事か」と間抜けな顔をした。そして次の瞬間、銀色のボウルが宙を飛び果林の背中に命中し金属音を立てて床に転がった。
「い、痛い。痛いじゃないですか!」
「馬鹿か!冗談も分かんねぇのかよ!取り返して来いよ!」
「もう遅いです!」
「このくそ
「モラルハラスメントに暴力ですか!裁判になったらこれを出します!」
果林はポケットからボイスレコーダーを取り出した。これは万が一、なにかが有った時のために果林が常日頃から持ち歩いていた物だ。それを見た木古内和寿の顔色が変わり右手を大きく振りかぶった。
「ざけんじゃねえよ!」
これまで罵声を浴びせられることはあったが手を出されることはなかった。我慢して来た悔しさが涙となって溢れ出した。
「女は泣けば良いと思ってるんだろ!それ出せよ!」
木古内和寿はボイスレコーダーを果林の手から奪い取ろうとして2人は激しく争った。その間も録音機能は作動し赤いランプが点灯していた。
「なにをしているんだ!」
突然、菓子工房に赤茶の革靴が飛び込んだ。
「お客さまもいるんだぞ!良い加減にしろ!」
「えっ、あっ」
床に倒れ込んだ果林、その上に馬乗りになった木古内和寿、それを見下ろした宗介の形相は鬼のようだった。宗介は和寿を果林から引き剥がした。
「おまえ、後悔させてやる」
宗介は果林に手を伸ばすと軽々と抱き上げもう一度和寿に言い放った。
「後悔しても遅い!覚えておけ!」
その怒りに満ちた面持ちに和寿は恐怖を覚えた。
「この店員は私が預かる!2度とこの店には来ない!分かったな!」
「えっ、は、はい!」
果林は宗介のシダーウッドの香りに包まれて
宗介は大理石のフロアを果林を抱き抱えて横切った。その姿に女性社員は羨望の眼差しを向け、男性社員は驚きの声を上げた。
「そ、宗介さん」
「大丈夫ですか、背中は痛みますか?」
「いえ、大丈夫・・・だと思います」
我に帰った果林が背中に触れると鈍い痛みが走った。
(痛い!和寿め!暴力反対!いつか仕返ししてやる!)
宗介は社員用エレベーターホールで果林を床に降ろすとエレベーターにカードキーをかざし上階へのボタンを押した。
「さぁ、乗って下さい」
「宗介さん、私、お店を辞めることが出来たのでしょうか?」
「あなたは
「あ、ありがとうございます」
エレベーターに乗った果林は4階の総務課のカウンターに社員証とロッカールームの鍵を返却するはずだった。ところがエレベーターは4階を通過し6階、7階と上昇している。7階は一般社員に解放されている屋上庭園、ここがビルの最上階の筈だった。
(・・・・・え、どういうこと?)
そこで果林は宗介が一枚のカードキーを階層ボタンの下にかざしていた事を思い出した。数字の無い階層を通過し不安気にしている果林に気付いた宗介は黒い階層ボタンを指差した。
「今、9階です」
「宗介さん!」
「はい」
「ここはどこですか」
「辻崎株式会社のビルです」
「そうですねって違います!そんな意味じゃないです!」
宗介は果林の慌てぶりに失笑した。
「宗介さん、い、今何階ですか!」
「16階です」
ぽーーーん
エレベーターの扉が開くと白い大理石のエントランスが目の前に広がった。両窓には可愛らしい小窓があり眼下には縮尺した街並みがどこまでも広がっていた。目を凝らせば遥か彼方に風力発電の風車と夕日が落ちる海が見えた。
(なに、ここはどこ!なに、なに、なに!)
宗介がカードキーをマホガニーの扉にかざすとカチッと軽い音がした。
「さあどうぞお入り下さい」
(・・・・ど、どうぞ?)
「さぁ、どうぞ遠慮なさらずに」
「あ、はい」
清潔感のある白い壁の廊下の奥に落ち着いた色合いのリビングが見えた。大きな観葉植物の鉢植えがいくつもあった。そして幅広の窓から柔らかな陽射しが降り注いでいる。
(ええと、ここはホテルですか?)
「あ、靴はそこで脱いで下さい」
どうやらエントランスで靴を脱ぐ形式らしい。
「はい」
果林の薄汚れたスニーカーが赤茶の革靴の隣に並んだ。
(・・・・うっ、この貧乏臭さよ)
果林の視点は定まらずキョロキョロと落ち着かなかった。
「宗介さん、あの、ひとつお尋ねしますがここはどこでしょうか?」
「私の部屋です」
宗介は果林を凝視すると真顔でキッパリと言い切った。
「私の部屋とはいわゆるご自宅ということですか」
「はい、この部屋に住んでいます」
「私は今、宗介さんのご自宅にお邪魔しているということになるんでしょうか?」
「はい」
「はいじゃありませんーーーー!」
いきなり一人暮らし(多分)の名前しか知らない男性の部屋に上がり込むなど言語道断。果林は
「お、お邪魔しました!失礼します!」
「そんなに急がなくても。痛いでしょう?背中に湿布を貼って差し上げますよ」
「それは自分でも出来ます、大丈夫です!」
「一人暮らしでは不便でしょう、さぁ、遠慮は要りません」
(ーーーーなんで一人暮らしだって知ってるの!?)
「お茶でも飲んでいかれませんか?」
「いえいえいえ、お気遣いなく、お邪魔しました!」
いつもの宗介とは明らかに違う強引な姿勢に果林は
「いや、もうお構いなく!」
果林がエレベーターのボタンを押したが反応は無く扉が開く気配も無い。
「無駄ですよ」
振り返るとそこにはカードキーをヒラヒラとさせた宗介が微笑んでいた。
(目が笑っていない、笑っていないーーーー!)
「このカードキーが無ければエレベーターに乗ることは出来ません」
「ーーーーえっ!」
「さぁ、ご遠慮なさらずにお茶でもいかがですか?」
「今日はご遠慮いたします!今日は、もう疲れているのでまた今度!」
宗介は溜め息を吐いて仕方がないといった風にカードキーを階層ボタンにかざした。
「分かりました。また今度」
「はい!ありがとうございました!」
宗介は「ご自宅まで送らせて下さい」と言ったが果林は丁寧にお断りし、
(あーーーー!焦った!)
紳士的だと思っていた宗介は意外な事に狼だった。
(た、食べられるかと思った)
しかしながら