燕のさえずりと
(・・・・・また、ですか)
菊代さんの起床時間、お化粧時間、お洋服をお召しになる時間は毎日一分一秒も乱れる事が無いのだろう。混雑するランチタイムを狙い定めたように来店し我が物顔で香水の香りをふりまきながら奥の席に座る。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
果林がライムの浮かんだグラスとおしぼりをテーブルに置くと菊代は踏ん反り返りながら脚を組んだ。
「いつもの頂戴」
「・・・・え?」
「い・つ・も・の!聞こえないの!本当に気が利かないわね!」
菊代が注文するメニューはその日その日で一様では無い。それを充分承知な上で声を張り上げている事を理解している社員たちは「また店員をいじめている」と顔をしかめた。すっかり気分を害し食事の途中で席を立つ社員もいた。
「ご馳走さま、会計お願いします」
「賑やかで申し訳ありません」
「君も毎日大変だね」
「い、いえそんな。ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
果林は菊代に耳打ちした。
「菊代さん、もう少し声の大きさを抑えて頂けませんか?」
「これが黙っていられますか!」
菊代さんはなにやらご立腹の様子でマザーコンプレックスが駆け寄り機嫌を取ると辻崎株式会社からパート社員の時給を1,200円に賃上げするようにとお達しがあったので納得がゆかないらしい。
「こんな馬鹿な話がありますか!」
「まぁまぁ、母さん辻崎の言う事は聞くしか無いよ」
「それにしても今までなにも言わなかったのに!誰が余計な事を!」
そこで菊代と和寿の視線が果林に集まった。
「そんな訳ないわよね」
「そうだよ、こんな鈍い奴になにも出来ねぇよ」
「あぁ、もう腹が立つ!」
そこで
(あーーええと、宗介、宗介さんだ)
「辻崎さまいらっしゃいませ」
「こんにちは」
「こんにちは」
「果林さん、私のことは宗介と呼んで頂けませんか?」
「そ、宗介さん」
「はい」
「宗介さん、いつものアフォガート、アッサムティーで宜しいでしょうか」
「お願いします」
宗介の穏やかな微笑みに気が休まる。果林は紅茶葉を蒸らしながらその横顔を眺めた。上質な仕立ての濃紺のスーツに焦茶のネクタイ、ワイシャツは上品な灰色、胸に社員証は無い。
(・・・・・この人は何者なんだろう)
果林はバニラアイスをガラスの器に盛り付けて紅茶を注いだ。視線を感じて振り向くと宗介が果林を見つめていた。
(・・・・・・ん?)
すると宗介は慌てた素振りで手を挙げた。
「いかがなさいましたか?」
「これを下さい」
爪先まで整えられた美しい指がメニュー表を指した。
「ズッパイングレーセ(スポンジケーキ)、こちらで宜しいですか?」
「はい」
「リキュールシロップを使用していますがお車の運転は大丈夫ですか」
「あ、迎えが来るので」
「迎え・・・・ですか」
「いや、なんでも無いです」
その後宗介はアフォガートをもう一杯注文し、ウエイトレスとして店内を切り盛りしている果林の姿を目で追った。
(・・・・・・あれ?そう言えば、時給って)
果林は昨夜の宗介の険しい顔を思い出した。宗介は
(まさか)
果林は宗介がたまたま辻崎と同姓なのだと勝手に解釈していた。
(まさか)
突然の時給賃上げで辻崎宗介が辻崎株式会社の関係者なのではないか、そう考えた果林は何気なく背後を振り返った。
(うわっ)
するとそこで
(み、見られていた、見ていた!まさかずっと見てた!?)
辻崎株式会社が秘密裏に社員の素行調査をしているのではないかと勘繰った果林の動作は一気に機械じみてぎこちなくなった。
「どうかしましたか」
「ナ、ナンデモゴザイマセン」
「表情が堅いですよ、なにかありましたか」
(はい、それは多分あなたが調査員だからです!)
「いえ、とんでもございますでございません」
「言葉遣いもなんだかぎこちないですね」
(ああーーーー
宗介は顔を赤らめ視線が落ち着かない果林を見上げて口角を上げた。
「このケーキは果林さんが焼いた物ですか」
「はい、昨夜仕込んで先程焼き上げました」
「スポンジに染みたリキュールのしっとり感、にも関わらず上品です。果実の配合も絶妙ですね」
「ありがとうございます」
「見た目は素朴ですが素材の良さが引き立っている」
「ありがとうございます」
宗介はケーキをフォークで口に運ぶと優しい微笑みを浮かべた。
「確かに温かい味がします」
「はぁ、焼き上げたばかりですから」
「その様な意味ではありませんよ、
(・・・・・・・あぁ、人事課部長さんはズッパイングレーセにオレンジペコ)
狸のような姿が頭に浮かんだ。それにしても総務課部長や人事課部長と交流があるこの人物は何者なのかと俄然興味が湧いた。
「おい!おい果林!聞こえないのか!」
そこで現実に引き戻された。1人の客に何分時間を掛けているんだと和寿の怒号が菓子工房の中から容赦なく果林に浴びせられた。
(・・・・・はぁ、お子様だわ)
「またオーナーは賑やかですね」
「・・・はい」
「お引き留めして申し訳ありませんでした」
「ありがとうございます、失礼致します」
果林は宗介に会釈しながら脳内で木古内和寿を2回抹殺した。満席でも無い、菓子類は既に焼き上がっている、木古内和寿が接客してもなんら問題は無い。しかしながらパティシエたるもの工房から出てはならないと訳の分からない理由をつけ、バックヤードで携帯ゲームに課金をしている。
(・・・・・・素行調査で厳重注意されるがいいわ!)
果林はいい加減な雇い主を睨み付けた。
連日の残業で果林は疲れ果てていた。足取りも重く出勤のチェックを受けていると顔見知りの警備員から声を掛けられた。
「おはよう果林ちゃん」
果林の目の下には大きなクマが出来ていた。
「おはようございます」
「ありゃあ、なんだか元気がないねぇ顔色が悪いよ」
「そんなにひどいですか?」
「良くはないねぇ」
「はぁーーーーそうですか」
「溜め息かい、果林ちゃんには似合わんぞ」
「はぁ」
今の果林は溜め息で押し潰される一歩手前だ。「あんな職場なんて無くなればいい!」と毎朝「頭上に隕石でも落ちて来ないかな」などと下らない妄想をひとしきりしたところで布団から這い出しバスに揺られる。
「はぁ」
また一つ溜め息が出た。
ぽーーん
「え!なにこれ!」
果林は素っ頓狂な声を上げた。エレベーターの扉が開くとそんな悶々としたものが吹き飛ぶ光景が目の前に広がった。
「えええええ」
2階フロアの
「えっ、あそこって店舗スペースだったの!」
これまでビルの壁かと思っていた部分は石膏ボードの板だった。石膏ボードがすっかり取り外されたその内部はコンクリートが剥き出しで電気の配線コードが天井からぶら下がっていた。外部に面した箇所には青いビニールシートが張られている。ビルの外観から想定するに
「うわーーーーー結構広いな」
明らかに
「なんの店だろう、飲食店だったら困るなぁ」
現在の
「すみません」
14:00、久しぶりに
「あの男、あんたが良いんだって!」
「あんたってーーー!」
「ふん!」
よほど面白く無かったのだろう
(ああ、他のお客様もいるのに最悪だ)
宗介は果林に微笑みかけるとテーブルで肘を突きあごを乗せた。
「いらっしゃいませ」
「お邪魔します」
「宗介さん、お客様が「お邪魔します」はちょっと違うかもしれませんね」
「ああ、本当だ」
失笑してしまった。
「果林さんは笑っている方が魅力的ですよ」
「ありがとうございます」
果林は(そうよ!あの2人が居なければ!)と脳内で地団駄を踏んだ。
「諸事情でしばらく来る事が出来ませんでした」
「ご出張ですか?」
「色々と手配をしていたので時間が取れなくて・・・・寂しかったです」
(寂しかった?宗介さんが、誰に?)
「そうなんですね、お疲れさまです」
宗介は木古内和寿と杉野恵美を見遣ると果林に小声で尋ねた。
「果林さんは昨日はお休みだったんですね」
「はい、公休日でした」
「そうですか」
「お店に来て下さったんですか」
「はい、アフォガートとタルトタタン(りんごケーキ)を注文しました」
「ありがとうございます」
「りんごの仕込みはどなたがされたのですか?」
「具材の下処理と仕込みは先ほどの女性が担当しました。ケーキはオーナーが焼きました」
「あぁ、なるほど」
「どうかなさいましたか?」
「よく分かりました」
「分かったとは、なにが分かったんでしょうか?」
「温かい味がしませんでした」
「あっ、申し訳ございません!塩味がした、とか」
数日前、携帯ゲームアプリに夢中になっていた木古内和寿はケーキの生地に入れる砂糖と塩の分量を間違え苦情が出た。
「・・・・・え?」
「いえ、数日前に手違いがありまして」
「ああ、あの件ですか」
(あの件?どの件?なんの件?なんで知っているの!?)
いつも思わせ振りな口調で果林には理解出来ない事だらけだが宗介は色々なことを知っているようだった。
「お待たせ致しました」
宗介はアフォガートを口に含むと満足気に息を吐いた。次にタルトタタンにシルバーのカトラリーで切り目を入れゆっくりと口に運んだ。
「やはり果林さんです」
「私、ですか」
「温かな味がします」
「ありがとうございます」
宗介は木古内和寿が自分たちを険しい面持ちで睨んでいる事に気付き呆れ顔で溜め息を吐いた。
「オーナーはいつもあのように険しい顔をなさっているのですか?」
「ああーーー、どうでしょうか」
果林が日々の辛さを誤魔化して自虐的に笑って見せると宗介の表情が深刻なものになった。
「果林さん、そこは笑う所ではありませんよ」
「ご、ごめんなさい」
「あぁ申し訳ありません。私もつい感情的になってしまいました」
「ごめんなさい」
果林が俯き加減になると宗介は慌ててスーツのポケットから小さな白い包みと白い封筒を取り出した。果林がなんだろうと不思議な顔をすると「これは出張先で購入した土産とお守りです」と微笑んで見せた。
「お土産、私にお土産ですか?」
「小町紅、
「口紅」
「水で溶いて使う自然由来の口紅で匂いは殆どありません」
「水で溶いて使う、珍しいですね」
「小筆で塗るのだと説明を受けました」
「小筆、なんだか和風で素敵ですね」
「色味の濃さが調節出来るので飲食店の方にもお勧めだそうです」
「お勧め、お勧めですか」
「私が持っていても意味がないので受け取って下さい」
「あ、ありがとうございます!」
そして手渡された白い封筒には<退職願>と書かれていた。
(退職?誰がって・・・・私が?)
そこで木古内和寿の怒号が閑散としたフロアに響いた。
「果林!モタモタすんな!」
「は、はい!」
そのやり取りを耳にした社員たちは居心地が悪そうに次々と席を立った。宗介はその様子を眺めながら腕組みをしてフロア全体を見渡した。
「しっ、失礼します!」
「はい」
「お土産ありがとうございました!」
「こちらこそ受け取って頂きありがとうございます」
果林は手渡された白い包みの小箱と封筒をサロンエプロンのポケットに入れた。
「にっ、24.000円(税抜)!」
閉店後、インターネット検索で調べたところ、果林が宗介からプレゼントされた口紅の商品名は小町紅の雪月花、半月形のコンパクトは24金メッキで雪と月、菊の細工が施されアワビの青貝が七色に輝いている。江戸時代から続く紅花の口紅、その価格は24.000円(税抜)、これはちょっとした土産物などでは無かった。
「そ、宗介さん、このプレゼント贈る相手を間違えているよね!?」
今頃、慌てているのではないかと思った果林は「明日お返ししなければ!」と金色のコンパクトをもう一度白い箱に戻し包装し直した。
「あーーー、びっくりした!」
そしてもうひとつ驚いた事は手渡されたお守りの退職願だった。果林自身もその選択肢も有りかと考えていた矢先の出来事で全てお見通しと言わんばかりで驚くと共に迷っていた背中を押されたような気がした。
「果林、掃除はもう終わったのか」
「あっ、はい!」
「おまえ、携帯なんか見てサボるんじゃねぇよ!」
(あ、あなたがそれを言いますかーーーー!?)
呆れて物も言えない。そんな時、木古内和寿がテーブルの上に置いてあった白い封筒を見つけた。
「退職願だぁ?」
「あっ、あのそれは!」
杉野恵美がシフトに入った事で気が大きくなったのか木古内和寿は「ああ、いいよ!おまえなんか辞めても構わねえ!」と声を荒げた。
(・・・・・なんだ、そうかお店を辞めても良いんだ)
「では明日、退職届を書いて来ます」
「願いでも届けでもなんでも書いて来い!」
果林は封筒を手に立ち上がった。