アフォガートはイタリアのデザート、辻崎宗介はエスプレッソコーヒーではなくアッサムティーを好んだ。甘さ控えめのバニラアイスクリームにトプトプと香り高いアッサムティーが湯気をたてながら注がれた。
「いい香りです」
「ありがとうございます」
「オーダーはいつものアフォガートで宜しいですか?」
「はい、お願いします」
「かしこまりました」
バニラアイスがとろけるガラスの器をテーブルに置いたパティシエールの名前は
「アフォガートはイタリア語で あなたに溺れる という意味だそうですよ」
「そうなんですか」
「はい」
果林は宗介が副社長である事を知らない。
辻崎株式会社2階フロアの一角に辻崎株式会社専用のパティスリーブーランジェリー
「いらっしゃいませ」
「
「はい、エスプレッソとタルトタタン(りんごケーキ)のセットで宜しいですか」
店内を切り盛りしている女性の名前は
「おまたせいたしました」
「ありがとう」
「おい果林!遅いぞ!」
「はい!」
果林の両親は交通事故で既にこの世を去り身寄りもなくアパートで一人暮らし、こうして
「ほら!皿を下げろ!」
「はい!」
木古内和寿は
そこに現れたのは美しいグレージュの巻き髪の女性、黄色と黒の派手なワンピースに香水の香りを撒き散らしながら深紅のハイヒールで
「あらぁ、果林さん相変わらず貧相なお顔だこと!もう少し綺麗にお化粧なさったらどうなの?」
「いえ、飲食店でそんなお化粧はちょっと駄目かなって」
「はああ、また言い訳!もう聞き飽きたわ!」
「申し訳ありません」
隣のテーブルで飲食を愉しんでいた社員たちは香水の匂いに鼻をつまみ眉間にシワを寄せていた。
「き、木古内さん、香水は控えめにお願いできませんか?」
「菊代さんとお呼びなさいって言ってるでしょう!」
「はい」
「その空っぽのおつむはシュークリームの皮みたいね、和ちゃんにクリームのひとつでも絞ってもらったら?」
「き、菊代さん、声が大きいです」
「あーーーらぁ、私はこの店のオーナーよぉ、良いじゃなぁい?」
この厚かましい女性は
「菊代さん、今日はどうしたんですか?」
「なに、自分の店に来ちゃ悪いの?」
「いえ、そんな意味で言った訳ではありません」
「あなた、失言に申し訳ございませんの一言もないの?」
「申し訳ございませんでした」
菊代の装いはいつもに増して華やかで周囲に着座している社員は気圧された。果林がライムが浮かんだグラスをテーブルに置くと仰々しく脚を組んだ菊代がメニュー表を開いた。
「いつもの頂戴」
「はい?」
「いつものサンドイッチとカフェオレ!そんな事も覚えられないの!」
間髪入れずに菊代が謝罪の言葉を求めて来た。
「申し訳ございませんでした」
菊代は毎日、重箱の角を
「和寿を呼んで頂戴」
「え・・・・お客さまがいらっしゃって満席ですから」
「果林さんがおひとりで接客されたら?ほんの数分よそれくらいも出来ないの?」
「・・・・分かりました」
「なぁにその
「申し訳ございませんでした」
菊代は謝罪の質よりも兎にも角にも果林に頭を下げさせ「申し訳ございませんでした」と言わせたいのだ。
「呼んできます」
「雇い主に向かってなにその呼び方は!果林さん、あなた何様なの!」
「申し訳ありません、お呼びして参ります」
「最初からそう言えば良いのよ」
母親が来ていると知った木古内和寿は菓子工房の中でエプロンを外すと嬉しそうに奥の席へと向かった。そこに客が居ようとお構いなしに一直線、母親の顔しか見えていない。その有り様に果林は大きな溜息を吐いた。
(潔いほどのマザーコンプレックスよね)
そこで
(・・・・あ、あの人だ)
その男性は14:00になると
(でも社章は付けているのよね、不思議な人)
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
「いつものオーダーで宜しいでしょうか?」
「お願いします」
男性はいつもアフォガートをオーダーする。アフォガートはイタリアのデザートでバニラビーンズが香り立つアイスクリームにエスプレッソコーヒーを垂らす。しかしながらその男性は「アッサムティーでお願いします」と言った。
「あ、私はアッサムティーでお願いします」
「かしこまりました」
そしてその男性は果林を凝視して薄い唇で呟いた。
「アフォガートはイタリアでは溺れるという意味だそうですよ」
「おぼ、溺れるですか?」
「はい」
その呟きにどんな意味があったのか果林には見当がつかなかった。
パティスリーブーランジェリー
「おい果林、今夜は母さんと食事に行くから後片付けは頼むわ」
「果林さん、戸締りはしっかりして頂戴ね!」
「アルバイト募集のポスターも貼っておけよ!」
「はぁ」
「はぁじゃないでしょう!」
「かしこまりました」
清掃を終えた果林は一脚の椅子抱えると
「あ〜あ」
手には透明なガラスの器にアフォガート、あの男性が眺める景色を見てみたいと思った。甘くほろ苦い香りに思わず涙が溢れた。
(・・・・なんか疲れちゃったなぁ)
果林は親戚が勧めるままこの店に勤めたが菊代からの不条理な仕打ちとそれを見て見ぬ振りでやり過ごす
(私の人生ってなんなんだろう)
すると一羽の鳥が
ピーチチチ
ピーチチチ
白い腹、黒い胴体、黒い羽根、赤い頭、
辻崎株式会社新社屋ビルの1階はブティックや小物雑貨、飲食店などのテナントが入っている。果林は
(・・・みんな楽しそう)
25歳、同年代と思われる会社帰りの女性たちが新作のワンピースを手に全身鏡の前で「花柄が良いかな、ストライプも捨て難いよね」どちらにしようかと悩んでいた。
「良いなぁ」
果林の給与では新しい服を買い足す事も出来ない。アパートの家賃に光熱費、食費は自炊でなんとか抑える事が出来ても頭の痛い事だらけだ。
「おつかれさまです」
フロアの一番奥に場所に総合案内所があった。
「お疲れさまです」
「あら羽柴さん、まだお仕事だったの?」
「はい、残業だったんです」
「また?毎日じゃない。オーナーは残業しないの?」
「どうなんですかね」
果林が苦笑いをしていると背後の社員専用のエレベーターの扉が開いた。
ぽーーーん
「・・・・あ」
そこで見覚えの有る赤茶の革靴、見覚えのある顔の男性が足を踏み出した。
濃灰のスーツに紺のネクタイ、赤茶の革靴を履いた男性は社員証を首に下げた総務課部長と一緒にエレベーターから降りて来た。
(総務課の部長さんはエスプレッソにティラミス、あの男の人はアフォガート)
「・・・・・あ」
男性も果林に気が付いたのか会釈する総務課部長に「いいよ、いいよ」という風に手を挙げて総合案内所に向かって歩いて来た。アテンダントスタッフがお辞儀をしたので小声であの人が誰かと尋ねたが分からないと答えが返って来た。
「こんばんは」
「いつもありがとうございます」
「はい」
やはりその胸元に社員証は無くスーツの襟元には社章が光っていた。
(・・・・誰なんだろう)
果林がぼんやりと間抜けな顔で社章を見上げているとその男性は優しく微笑んだ。
「果林さん」
「はい?あの、なんで私の名前をご存知なんですか?」
「あぁ、いつもパティシエ、オーナーに呼ばれているから覚えました」
「あーーーーーあれですか。お恥ずかしい」
「でもなぜ果林さんが彼に注意されているのか私には分かりませんが」
「私がのんびりしているからです」
「いえ、果林さんの穏やかな雰囲気が好ましいとみんな言っていますよ」
(ん?みんなとは誰が?みんな?)
「そうですか、ありがとうございます」
「そうだ、私の名前をあなたに伝えていませんでした」
「お名前ですか」
「はい」
男性はスーツの内ポケットを探してみたが名刺入れを忘れたと言った。
「あぁ、名刺を忘れるなんて最悪ですね」
「最悪ですか?」
「最悪です」
男性は最悪だと言いながら果林に右手を差し出した。
(握手、握手をするのね)
それは握ると大きく見た目よりもゴツゴツとしていたが温かい手だった。
「私の名前は
「辻崎、この会社と同じ名前ですね!」
「あーーーー、そうですね。そうとも言いますね」
「宗介さん、素敵な名前ですね」
「ありがとうございます」
宗介は顔を赤らめて横を向いたが果林の腕に抱えているポスターに興味を示した。
「それはなんですか」
「
「拝見しても宜しいですか」
「はい」
男性は眉間にシワを寄せた。
「
「ちょっと安いですよね」
「これは宜しく無いですね、ありがとうございます」
すると背後で総務課部長が宗介の名前を呼んだ。
「果林さん、また明日」
「はい、またのお越しをお待ちしています」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
宗介は社員出入り口の自動扉の奥に向かうと黒い車の後部座席に座った。
「誰なんだあの人は。謎な人だ。あっ、閉館時間になっちゃう!」
果林は慌ててエスカレーターを駆け上がった。