それから二人は、妊娠の時に訪れる体調や気分の変化、胎児の状態、妊娠時に禁止すべき食べ物や行動、そして会社や役所への手続きを可能な限り調べ、話し合ってどう対処をしていくかを決めていく。二人は情報量の多さに頭を抱えそうになったものの、整理して優先順位をつけ、不安を潰していった。
それでも過ごしていくうちに不安は出てくるもので、百子は最初のうちこそ躊躇っていたものの、少しずつ自分の不安を陽翔に伝えるようにしている。毎回話に応じる訳ではないが、それでも時間を作ってくれることに、百子は感謝していた。彼女は話を聞いてくれた時は、必ず陽翔の好物を作っておくようになる。しかしご飯を炊く時は必ず陽翔が行い、入念に換気を行うようになった。
とはいえ、コーヒーや紅茶を飲む陽翔や、飲み会で遅くなったりする陽翔を見ると、心が積乱雲で覆い尽くされ、拗ねてしまったり、彼とぶつかることもあった。また、月日が経つとお腹が張ったり、腰痛になったりと、妊娠特有の症状に悩まされるようになり、仕事をするのだけでも精一杯だ。つわりがそれほど酷くないのが救いではあるものの、毎日疲労困憊になってしまい、できる家事が炊飯を除く料理だけになってしまった彼女は陽翔に謝罪する。
「陽翔、色々任せることになってごめん……」
「気にすんな。こうなることは覚悟してた。それよりも妊娠中は免疫が弱くなるんだから、あまり気に病むな。それこそ病気の元だぞ。それより妊娠検査はどうだった?」
百子は葉酸のサプリを飲んでから報告する。
「うん、赤ちゃんの調子は良好だって。それと……陽翔の予想通り、やっぱり女の子だったよ」
「本当か?!」
陽翔の顔がぱあっと明るくなり、百子を抱きしめて口付けを落とした。
「そうか……! やっぱり夢に見た通りだったか! なあ、聞いてるか? お父さんだぞ?」
陽翔が百子の下腹部を愛おしげに撫でながら、お腹の中の子供に声を掛け、耳を下腹部に当てている。その様子は思わず百子を微笑ませた。
「陽翔、胎動はまだよ。来月くらいからだったかな……それに夢って……?」
陽翔は肩を落としたが、百子の下腹部を撫でながら続けた。
「先月俺の夢に百子と、百子そっくりの女の子が出てきた。三人でピクニックに行ってて……幸せな夢だった。正夢になりそうで、すげー嬉しい……!」
だから元気に産まれて来いよ、と陽翔はお腹の子供に向かって語り掛けた。
「ふふっ。いい夢ね。私も、いえ、お母さんも貴女が産まれるのが楽しみ。いっぱいお話して、いっぱい色んな所に行こうね」
二人は思わず顔を見合わせ、どちらともなく曖昧に微笑んだ。
「陽翔、お腹にいる時だけの、この子の名前をつけない? 呼び掛ける時に不便だもん」
「そうだな……俺も同じことを考えてた。簡単な可愛い名前にしようか」
百子は頷いて、秋に咲く花の名前を候補に上げる。陽翔と話し合った結果、竜胆にちなんでリンちゃんと呼ぶことに決めた。
それからは来る日も来る日も、二人は代わる代わるリンに話し掛け、お腹を撫で、まだ見ぬリンの誕生をわくわくしながら待つことになる。相も変わらず、お腹の張りやつわり、そして不安定な精神の起伏に苦しめられていた百子だったが、さらに1ヶ月経過すると、それらも徐々に落ち着いてくるようになる。それに伴い、お腹が少しずつ大きくなっていくのを、百子は感じ取れるようになり、体内から僅かな振動を捉え、ベッドに腰掛けていた百子は、あっと叫ぶ。
「あ、陽翔! 今リンちゃんが動いた!」
「本当か?!」
陽翔は彼女の、膨らみが目立ってきた下腹部に手を当てるが、特に動きは見られない。陽翔は口元に淋しげな笑みを浮かべていたが、リンに呼び掛けると、まるで返事をするかのように、陽翔の手のひらに、ピクピクと振動を寄越した。
「リンちゃん、返事してくれたんだな。ありがとう……お父さん、それだけで頑張れそうだ」
感極まって涙ぐむ陽翔の頭を、百子はくすくすと笑いながら撫でる。もう片方の手は、お腹の上にある彼の手の上に置いた。
「大げさね。でも……お母さんも、リンちゃんもどんどん大きくなってて嬉しい。早く顔が見たいな」
胎動は週を追うごとに増えていき、二人がリンに話しかけてお腹を撫でている時や、百子がお風呂に浸かっている時、美味しいご飯を食べ終えた時に、盛んに発生していた。何故か寝る前にも、リンがご機嫌にニョロニョロと動くため、百子は寝られずに悶々とする羽目になっていたが、陽翔がお腹を撫でると、徐々にそれも落ち着くようになる。
とはいえ、さらに2ヶ月経過すると、お腹が波打ったり、皮膚越しにリンの体の一部が浮き出るようになる。時折痛むが、リンの成長した証でもあり、嬉しい悲鳴を百子は噛み締めていた。
「うっ……」
既に産休を取っている百子は、ある日買い物から帰る途中に、唐突に強いお腹の張りを感じ取る。家まであと数十メートルではあるが、お米5キロを持ち続けたのが祟ったらしい。
「リンちゃん、ごめん。あと少しだから……ちょっとだけ我慢してね……」
そう声を掛けながら、文字通り重い足を引きずり、何とか家まで辿り着くと、百子はお米を玄関に置いて、のろのろとリビングのソファーに座る。人間二人分の重力から開放された足が鈍い痛みを訴えるよりも、遥かにお腹の痛みが酷い。胎動が無いのに、お腹が急に痛くなる時は、基本的に百子が無理をしている時なのだ。
「リンちゃん……ありがとう。お母さんが無理してるの、分かってたのね……もう無理しないから、大丈夫よ……」
百子は荒い息をつきながら、お腹を撫でて横になる。最近は15分程度歩いただけでもお腹が張るようになってしまい、買い物もろくに行けなくなっていた。しかし、お米の在庫が無いことに気づいた百子は、今日は大丈夫だと言い聞かせて強行し、その結果がこれである。小さな足の形にお腹が変形してしまい、百子はしょんぼりして謝罪した。
「そうね……お父さんに頼むべきだった。一人でやらなくても、お父さんがいるもんね。ごめん、リンちゃん。もうしないから……」
ソファーでうとうとしていた百子は、玄関に置かれた米を目撃した陽翔に、懇懇と説教をされてしまう。いつもは過保護だと告げる百子だったが、今日のお腹の痛みは過去最高であったため、自分とリンのために、買い物も陽翔に任せることにしたのだった。