「ただいま、百子」
陽翔はドアを開けて彼女に声を掛けたが、返事が無いことに訝しんで靴を脱ぐ。百子の靴の隣に自分の靴を揃えた陽翔は、取り敢えずリビングに顔を出した。ソファーの背もたれから、彼女の頭が見えていることにホッとした陽翔は、彼女の前に回り込みながら声を掛ける。
「百子、帰った……ぞ」
陽翔の声は百子を見た瞬間に、尻すぼみになってしまった。彼女は背もたれに体を預け、微笑んで目を閉じていたのだ。彼女の膝には長方形の物が散らばっており、何なら同じものがソファーの前にあるテーブルにも散乱している。
(何かと思ったら……結婚式の写真か。前撮りしたやつもあるな)
陽翔は百子の膝に乗っているそれらを、そっと持ち上げてテーブルに戻し、彼女の隣に座った。どうやら百子は、結婚式や前撮りの写真の仕分けの最中に眠りこけてしまったようだ。陽翔はくすりと笑って、彼女の愛しさに誘われるまま、百子の髪をゆっくりと撫でる。サラサラと指の間を通るそれの手触りを楽しんでいた彼は、できることなら百子と話をしたいと願っていた事に気づき、困惑したように微笑んだ。
(百子は最近よく眠るようになったな)
百子が退院して1ヶ月目は、仕事が忙しかったようで、休日によく昼寝をしていた。とはいえ、それ以降はぱったりと途絶えていたのだが、それから8ヶ月経った現在、何故か百子は朝起きづらくなっていたり、昼寝の回数が増加傾向にあった。百子は生理前になると眠気が来るとよく言っていたので、たまたまそういう時期かもしれないと思った陽翔は、百子を起こさないようにその場を離れようと思ったが、彼女の桜桃のような唇から目が離せなくなり、ふと体を傾けて百子に口づけする。
「ん……」
百子がピクリと反応をしたので、慌てて陽翔は彼女から離れる。ぼんやりと瞬きをしていた百子は、陽翔の姿を認めて目を大きく見開いた。
「あ、おかえり、陽翔。休日出勤お疲れ様。早く帰ってきてくれて嬉しい」
百子は両手を伸ばして陽翔の背中に手を回し、自分の方に引き寄せて、彼の胸に顔を埋め、頬を擦り寄せると、陽翔がぎゅっと百子を腕に閉じ込める。
「ん、ただいま、百子……具合とか悪いのか?」
「ううん……眠かっただけ。しんどくはないよ」
百子はテーブルに散らばっている写真を見ながら息を吐いた。リビングの写真立てに入れるための写真を厳選するという、大して疲労の溜まらないことをやっていたのにも関わらず、寝てしまったことに訝しんだのだ。
「百子が気づいてないだけで、疲れが溜まってたんだろうな」
百子は纏わりついていた違和感を無視し、陽翔の言葉に頷いた。そんな些末事よりも、写真を厳選する方が優先度は遥かに高いからだ。
「にしても写真、こんなにあったのか」
それぞれの身内だけの式だったとはいえ、テーブルに散らばる写真は、ざっと50枚はあるだろうか。この中から4枚だけを厳選するのは、中々骨が折れる作業に違いない。
「陽翔も一緒に選んで。私だけじゃ決められなかった」
手伝う旨を申し出るはずだった陽翔だが、百子に先を越されてしまった。それを誤魔化すべく、力強く頷いて彼女の額に口づける。そして自分の近くにある写真を幾つか手に取り、思わず口元を緩めた。
「百子はドレスも和装も似合うな。和装の方が俺は好きだが」
紋付袴に白無垢の男女の写真を手に取り、陽翔は神社での厳かな式を思い出す。雅楽を聞きながら神職に先導されている時も、二人で祝詞を聞いている時も、三三九度の杯の時も、陽翔はどぎまぎしながら百子の方をちらちらと見ていた。ドレスを着て前撮りしていた時よりも、百子は凛としており、所作も美しく、誰よりも気品があって麗しかったのだ。
「うん。私も和装の方が好き。ドレスみたいに色々種類は無いし、体型が多少変わっても着れるし」
百子が明け透けに現実的な物言いをするため、陽翔はソファーからずり落ちそうになった。
「そういうことじゃねえって……」
「冗談よ。半分ホントだけど。和装はドレスよりも体が締め付けられて苦しかったけどね。変な例えかもしれないけど、どこかの姫君になった気分だった」
百子は照れたように頬を染めながら、写真を選り分ける。結局は二人で写っている写真ばかり手元に残り、思わず顔を綻ばせた。
「いや、俺にとって百子は姫だぞ。礼儀作法も知ってるし、教養もあるし。どこぞの姫君でもおかしくないと思う……いや、百子の場合は正真正銘のいばら姫か」
百子が顔を上げると、陽翔の熱を帯びた黒玉に縫い止められた。真剣に返答されることは考慮の外だったために、彼女は熟れた柘榴もかくやと言うほど顔を赤らめる。
「……いばら姫? なんで?」
「百子は100日眠ってたからな。しかも俺のキスで目覚めてた……な? まるでいばら姫だろ? 俺のキスで目覚めたからには、もう永くは寝かせないがな」
あわあわと眼球をせわしなく動かしていた百子だったが、陽翔に抱きすくめられ、体温が陽翔と同じに染まる。そして日が暮れるまで、写真選びをそっちのけにして愛を語らい、愛を惜しみなく注がれたのだった。