百子がそれに応えると、可愛らしい声と共に手提げを持った女児が小走りで百子の元に来て、口を大きく開ける。しかしすぐにぱあっと顔が明るくなり、ニコニコとして飛び跳ねながら大きな声を出した。
「……おねえさん! ねえねえおばあちゃん! おねえさんがおきてる!」
美香は未だに入り口付近に呆然と立っている章枝の元に行き、鼻息荒く訴える。章枝は美香の方を見ておらず、同じく自分を呆然として見つめる百子にしっかりと目を合わせる。その二つの瞳は、瞬時に滲んで輪郭をぼやけさせた。
「茨城さん……! 目覚めたんですね……! 本当に良かった……!」
感極まって目頭をハンカチで押さえる章枝に、百子は何も言い返せないまま彼女を見返した。彼女の顔立ちに、百子はぼんやりと覚えはあったものの、彼女の声を聞いて鮮やかに記憶が舞い戻り、おずおずと口を開いた。
「貴女は……もしかして……ひったくりの……」
「ええ、そうです……! 茨城さんが車から庇ったこの子の祖母です。茨城さん……私のみならず、美香までも助けて下さってありがとうございます……! 本当に何とお礼をして良いか……!」
百子は陽翔をじろりと睨む。美香と祖母である章枝が度々自分の様子を見に来てくれた話は彼から聞いていたものの、章枝がかつて百子がひったくり犯から助けた相手だとは一言も言ってなかったからだ。彼女の視線を受けた陽翔は明後日の方角を向き、素知らぬ振りを決め込んだために、思わずため息が漏れてしまう。とはいえ、章枝と美香の手前、ため息を漏らす訳にもゆかず、百子は両手を胸の辺りで小さく振った。
「いえいえ、そんな……! 気がついたら体が動いてたんですよ。それだけのことです。でも……お見舞いに来てくださりありがとうございます」
百子は彼女に向かって頭を下げ、改めて章枝をまじまじと観察する。頭頂に少しだけ銀が混じっているものの、髪は艶があり美しく、クリーム色の肌にはシミがあまり見当たらない章枝は、小学校低学年に見える孫を持つ女性にはあまり見えないとひっそりと思う。
「美香ちゃんもお見舞いに来てくれてありがとう。薔薇もたくさんもらっちゃって……すごく嬉しかった。私が起きられたのは美香ちゃんのおかげだよ。ありがとうね」
百子は美香に向き直り、なるべく身を屈めて微笑んだ。
「うん! おねえさん……こちらこそ、たすけてくださりありがとうございます。おねえさんがこえをかけてくれなかったら、あぶなかったっておいしゃさんがいってたの……。だから、ほんとうにありがとうございます」
美香は元気よく返事をして、百子に向かってペコリと頭を下げる。それを好ましそうに見つめていた百子は、ベッドのそばに置いてある折り紙の薔薇を手に乗せた。
「美香ちゃんは折り紙上手だね。もし良かったら、今度でいいから折り紙教えてくれる?」
「うん! もちろん! きょうもおりがみもってきたの! おねえさん、いっしょにつくろ!」
美香は手提げをゴソゴソと漁り、折り紙を取り出して、百子に薔薇の折り方を実演しながら教えていた。百子はそれほど折り紙が得意ではないのだが、美香と一緒に折っているうちに、徐々に自分の手のひらに薔薇が咲き、屈託の無い笑顔を浮かべるようになった。
「美香ちゃんありがとう! おかげで可愛く折れたよ」
美香が大きく頷いてぴょんぴょんと跳ね、陽翔も章枝も釣られて微笑む。それぞれ折り紙を手にして、4人は薔薇だけでなく鶴やハート、手裏剣やだまし船といったものを作ってはそれらを見せ合う。
「……美香ちゃんも百子も、葛城さんも、なんでそこまできれいにできるんだ」
陽翔は手のひらに乗せている、緑色の何かを見て肩を落とした。蛙を作ったはずなのだが、その細長い形状はどう見ても蛇にしか見えず、額に手を置いて頭を緩く振る。
美香は陽翔に何を作っていたかを聞き出し、折り紙をもう一枚取り出して実演してみせた。
「おにいさん、こうするの」
テキパキと美香が手を動かすため、陽翔は要所要所で彼女に動きを止めて欲しいと要求し、彼女に間違いを指摘されたりして、美香にギリギリ及第点を貰える程度の蛙を手のひらで跳ねさせる。
百子は紫陽花を懸命に折っており、章枝はその手つきを好ましそうに見守った。時折章枝が折り方のコツを百子に伝え、百子が四苦八苦して紫陽花を完成させると、章枝は拍手をしてから新しい折り紙を手に取った。
「茨城さんはお花折るのが上手いのね。お花なら、こんなのもできるわよ」
そう告げた章枝が一番上手で、かつ作業が早かった。桃の花や菖蒲の花を1枚の折り紙で作ったり、くす玉やリースを作ったりして、皆の感嘆の息を一気に引き受けていた。そこからは何故か全員が無心に好きなものを折り始め、看護師がリハビリの時間を告げに来るまでそれは続いたのだった。
冬将軍が本格的に闊歩し、ベッドから出るのが億劫になってきたが、百子は懸命にリハビリを続けたおかげで、20日には退院が決まった。それまでの期間、百子は会社に連絡を取って、今の仕事の状況を把握し、少しずつ職場復帰できるように準備をしてある。休職の手続きをしてくれたのは他ならぬ陽翔であり、彼はそれ以外にも、百子の着替えや本を持って来るなど、入院中にあれこれ手を尽くしてくれたため、彼女は陽翔に頭が上がらない。百子は陽翔の好物を拵え、彼の欲しいものを贈ると約束し、彼の運転する車で二人の住む家に帰ることになった。道中は結婚式のことや、二人の将来のことについて話し合い、二人での話し合いの日時も決めたため、彼女の不安は蚊取り線香の灰を指で摘んだように、ほろほろと崩れていった。
「百子、まだ出るなよ」
エンジンが止まったため、シートベルトを外してドアに手にかけた百子は、陽翔を探るように見つめる。彼は素早く後ろの扉を開けて百子の荷物を取り出すと、彼女の乗ってる助手席のドアを恭しく開けたのだ。
「あ、ありがとう……陽翔」
気障ったらしくどういたしましてと返答する陽翔と目が合い、百子はどぎまぎして目を逸らす。
そのまま彼に腰を引き寄せられ、エレベーターに乗り、家の玄関のドアが閉まるや否や、百子は彼に顎を掴まれ、自身の唇を塞がれてしまった。玄関に鈍い音を立てて、彼の肩から荷物が滑り落ち、百子はそちらに注意を向けようとしたが、きつく抱きすくめられてしまったうえに、彼は執拗に百子の唇を、舌を求め続け、離してくれる気配はミジンコよりも小さかった。
「んっ……」
百子は陽翔の体温と、逞しい上半身と、彼の舌の熱さを一心に受ける。彼が与える全てに思考回路が、溶けたマシュマロのようにドロドロになり、無意識に彼の舌に自分の舌を絡め、唇を貪り、彼の背中に手が回った。
「ごめん、百子……まだ体が慣れてないよな……」
百子の膝が崩れそうになったのを、陽翔が慌てて支え、彼女を胸にもたれさせて抱きしめる。先程の強い抱擁と違い、身じろぎしたら抜け出せるのだが、百子は彼の胸に顔を埋めて首を横に振った。
「ううん……大丈夫……嬉しかったよ。陽翔とキスするの、好きだもん」
体中が歓喜に満たされた百子は陽翔を見上げたが、すぐに顔を伏せて、無言で陽翔の背中に回した手に力を込める。病院でも散々陽翔に抱きしめられたり、抱きついたりしていたが、家に二人きりでいる今の方が、安心感が桁違いなのだ。
(陽翔の匂い……落ち着く)
「……俺も好きだ」
言葉少なく、陽翔は再び彼女に唇を寄せた。そのまま舌を入れようかと思った陽翔は、彼女の体力のことが気に掛かり、軽く彼女の唇を啄むのみだ。下半身がはち切れんばかりに熱を蓄え、その先に進めと訴えているが、なけなしの理性をかき集め踏み躙る。
小さなリップ音と共に唇が離れると、百子の淋しげな瞳が陽翔を捉えた。
「ねえ、陽翔……いいよ? 陽翔をもっと近くで感じたいの……」
瞳が潤んだ百子は、陽翔に背伸びをして、やや掠れた声で囁く。
自身のなけなしの理性が粉々に砕ける音を、陽翔は微かに捉えた。