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思い出す

「別に……俺の用事のついでだから気にすんな。茨城、冷めないうちに風呂入れよ。熱下がったところだから無理はすんな。あと脱衣所にあるメイク落としは使っていいから」


そう言って彼はリビングに向かった。その背中にありがとうと声をかけると、彼の右手が上がる。百子はメイク落としまで用意されてるとは思わず、彼の気遣いにひたすら感謝した。


「痛っ……」


だがそんな思いも頭痛が遮った。百子は15歳の頃から頭痛持ちで、片頭痛や肩こりからくる頭痛によく悩まされるのだ。今回は単に風邪由来の頭痛だろうと思うが、お風呂に浸かって痛くなるようならすぐに上がらなければならない。


(東雲くん、本当にありがとう)


百子は新品のメイク落としを手に取り、顔をしっかり洗い流してから湯船に浸かる。芯から徐々に温まるお湯に浸かっていても、頭痛はそれほど和らぐことはなかったが、体をさっぱりできるのは嬉しかった。病み上がりで長く浸かると良くないと思ったので、5分ほどで湯船から上がり、頭と体を洗う。このまま自分の心に巣食う昨日の生々しい光景も洗い流せたら良いのに、と思いながら、体についた泡を淡々と流したら、鼻がつんとして目の奥が熱くなり始めた。

洗い場にぽつぽつと落ちるのは、シャワーから出たお湯だけでは無かったのだ。


(うっ……)


あの忌まわしい光景を振り払おうとすればするほど、かえってそれがまとわりつくような気がして、胃の腑がぐるりと回った。百子は慌ててシャワーを止めて、息を整えて胃液が鎮まるのを待つ。流石に人様の家で吐きたくは無い。


(……気持ち悪い……)


シャワーから蛇口に切り替えて水を出し、その水を両手を皿にして少しだけ飲む。これでいくらかは落ち着く筈だ。あまり暑いところにいるのも良くないのかもしれない。百子は風呂桶と椅子を洗ってからドアを開けたが、お風呂マットへ足を乗せようとしたら湯垢に足を取られて派手に転んでしまった。風呂椅子を巻き込んでしまったようで、乾いた音が風呂場に反響して思ったよりも大きな音になる。


(痛っ……!)


頭は打たなかったが、肩をぶつけて呻く羽目になり、その痛みが収まるまでは立てそうにもない。じんじんと主張するそれに耐えていると、脱衣所のドアが大きく開く。


「おい、大丈夫か!」


陽翔の声がして思わず顔を上げる。どうやら彼は百子に何かあったと思って来てくれたようだ。だが彼の目にはタオルで目隠しがされており、百子の方角を見ていない。


「えっと……ちょっと転んだだけ。ごめん、大きな音を出しちゃって」


「やっぱりまだ本調子じゃないのか。怪我とかはしてないか?」


百子は首を緩く振って動こうとしたら、肩が再び痛みを訴えて小さく呻いた。


「やっぱり怪我してんのか。ほら、掴まれよ」


その音で陽翔は百子の位置を察したらしく、ややずれているものの、彼の手が差し出されてそれを掴む。彼の力を借りながら何とか立てた百子は、ありがとうと呟いた。


「いや、何かあったら大変だろ。そんなことよりも茨城、体拭いてパジャマ着たら台所に来てちゃんと水を飲めよ。マグカップに水入れとくから」


陽翔はやや上ずった声で素っ気なく言って脱衣所から出ようとしたが、あちらこちらに体をぶつけて低く呻く。百子の心配そうな声も一蹴した彼は苦労しながら出ていった。


(東雲くん……そこまで気遣いしなくてもいいのに)


どこか不器用な彼の気遣いに口元が少しだけ緩んだ百子は、パジャマを着て脱衣所を後にしてから台所で水を飲んだ。


「お風呂ありがとう。いいお湯でした」


陽翔は背中を向けていたが、彼女の方を振り返って頷く。だがすぐに視線を逸らしてしまった。


「どこかしんどくはないか?」


「……ちょっとまだ頭痛が」


「分かった。ちょっと待ってろ。そこのソファーに座っとけ」


百子は首を傾げたが、大人しくリビングのソファーに腰掛けた。頭痛がまだあるのでこめかみを擦りながら目をしばらく閉じていたが、ことりと何かがテーブルに置かれた音がして目を薄く開ける。


「ベランダで増え過ぎたミントで作ったやつだ。頭痛も少しは和らぐだろ」


陽翔の説明が終わるか終わらないかのうちに、爽快な香りが彼女の鼻孔をくすぐった。思わずカップを手に取って、その香りを深呼吸しながら味わうと、いくらか緊張がほぐれた気がする。


「ありがとう……東雲くんって植物育ててるのね。何か意外だわ。大学の時はそんなイメージ無かったのに」


口元に小さく笑みを作っている百子に、陽翔は明後日の方向を向いて頭を掻いた。


「俺の趣味じゃねえよ。妹が増え過ぎたとか何とか言って俺に押し付けただけだ。土が乾くと水やりする程度だし。他は何もしてないのによく伸びるからビビってる」


「ミントは強いもんね。鉢じゃなくてお庭の土に植えたら庭中がミントだらけになるんだって。千切れた小さな葉っぱからも根を下ろすから凄い生命力なのよ」


百子の説明で呆けている陽翔をよそに、彼女はミントティーに口をつける。口から鼻に爽やかな香りが駆け抜け、それは少しずつ百子の精神を和らげていった。

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