「茨城さん大丈夫? 顔が赤いよ?」
ややハスキーな上司の声が降り落ち、パソコンに向かってキーボードを叩いていた
「休日出勤しろと言ったのはこちらだけど、今日はもう帰りなさい。ほら、そこそこ熱いし、今画面を見た限りだと誤字脱字が多いわよ。4日後には発表なんだから、今はちゃんと休みなさい」
百子はのろのろと自分の額に手を当てる。朝から何となく調子か悪いと思いながら出勤したが、まさか熱が出てるとは思わなかった。会社のプロジェクトのリーダーをやっている身としてはこのまま仕事を続けたいところだったが、仕事の効率が落ちてる以上は留まってもあまり意味がないと思い直して首を緩く振った。
「……ではお言葉に甘えて、本日は早退させていただきます。ありがとうございます」
「お大事にね」
百子はぼんやりとする頭で同僚に引き継ぎをしてから、ややふらつく足取りで職場を辞した。梅雨明けの抜けるような青空を仰いだ彼女は、瞳を刺すような太陽光線から思わず顔を背ける。
(外は暖かいね……あれ、今日って真夏日だったはず……暑いのに温かいなんて、やっぱり熱があるんだ)
どうやら少しずつ自分の体は寒いと感じ始めているらしい。どうやら思った以上に体調が悪いようだ。早退させてくれた上司と、残りの仕事を引き受けてくれた同僚に感謝しながら、重たさを増した体に鞭打って、彼氏である弘樹と同棲している家に辿り着いた。
力があまり入らない手で鍵穴を半分だけ回し、玄関のドアに寄りかかりながらゆっくりと開けると、玄関の異変を見てただいまという言葉が引っ込んだ。
(何で……何でここに
一つは弘樹の靴だが、もう一つは自分の持っていないパンプスだった。下を向いたまま頭の位置は固定されてはいたものの、自分の片手はカバンに入ったスマホを探り当てている。考えうる最悪な予感が極彩色の闇となって脳裏を素早くかけ巡ったのだ。熱でぼんやりとした脳が急速に冷め切ったような感覚がして、百子は2つの靴をスマホのカメラに収め、マイクをハンカチで抑えてからシャッターを押す。シャッター音が小さく漏れたが、この程度だと百子が帰宅したことはバレないだろう。
そろりそろりと玄関のドアを閉めた百子は、ゆっくりと靴を脱ぎ、スマホを録画モードにしてから忍び足で二人のベッドがある部屋のドアへと向かう。ドアからはくぐもった高い声と、弘樹の低い声、そしてベッドの軋む音が漏れていた。
百子は自分の心臓が破れんばかりにドキドキと体に反響し、そのリズムに合わせて頭痛が脈打つのを感じて思わずドアの前でうずくまった。胃の腑がぐるりと回り、酸っぱい匂いがこみ上げてきたので思わず口元を抑える。気休めかもしれないが、胃を落ち着かせるために自分の喉元を擦り、深く呼吸をした。
(気持ち悪い……でも、やるしか、ない……)
胃が落ち着いた百子はのろのろと立ち上がり、静かにドアノブに手を添えてゆっくりと回す。僅かに開いた隙間にスマホを差し込んだ百子は、そこにしっかりと生まれたままの姿で絡み合う男女を写していることを確認してから、一気にドアを開け放った。
「……ッ!」
ベッドの上の二人が動きを止めて、不気味なほど静かになった中、百子のスマホの発する無機質なシャッター音だけが部屋を引っ掻いた。その音が止んだと思えば、百子は未だかつてない程の低い声で言い放つ。
「ふーん……私とはできないとかほざいてたのに、違う人とならできるのね。良かったわね、弘樹。そしてそこの貴女も飽きられて捨てられないことを祈るわ」
言うだけ言うと百子回れ右をして玄関へと走る。もうこんな家にはいたくない。
「おい、待てよ百子!」
弘樹が何か叫んでいたが、それを完全に無視して百子は最寄り駅へとひた走る。頬を伝うぬるい雫は拭っても拭ってもとめどなく溢れ、頭が心臓の鼓動に合わせてズキズキと主張し、小さな耳鳴りが鳴り止まない。体中が悲鳴を上げるのを無視して百子は電車で繁華街へと向かった。少しでも人混みに紛れて、自身も住む家で起こったあの忌まわしいことを忘れたかったのだ。