そして、数日後。
いよいよ、私が嫁ぐ日がやってきた。
結婚相手は予想通り、巷で『猛獣公爵』と呼ばれ、恐れられているジェイド・ウルス公爵。
ウルス公爵領は、ここレヴァイン王国の北方にある領地だ。広大な草原地帯や豊富な鉱山資源があるため、国内有数の裕福な土地として知られている。
また、その豊かな自然から良質な木材も多く取れるため、家具や調度品などの木工製品も有名らしい。
「それでは、行って参ります」
馬車の前で、私は見送りに来ていた家族に向かって頭を下げる。
いや、見送りというよりは監視と表現したほうが正しいかもしれない。
彼らは、基本的に私を信用していないのだ。隙あらば逃げるかもしれないとでも思っているのだろう。
「くれぐれも、粗相のないようにしなさい」
お父様が釘を刺してきたので、とりあえず「かしこまりました」と答えておく。
私は背伸びをしてお父様の耳元に口を寄せると、囁くように言う。
「ご心配なさらずとも、私は逃亡などしません。ああ、それと……ラザフォード家で代々行われていた儀式のことは、決して口外致しませんからご安心ください。あの儀式の真相が明るみに出れば、きっと大変なことになりますものね」
含みを持たせつつそう告げると、お父様の顔色が変わった。その反応を見て、私はあの本に書いてあったことが事実であることを確信した。
お父様が私に何かを言おうとしていたけれど、無視して馬車に乗り込む。扉が閉まる直前、ビクトリアがこちらに鋭い視線を向けているのが見えた。
父だけに言ったつもりだったが、恐らく近くにいた彼女にも聞こえていたのだろう。
ビクトリアが真実を知っているかどうかは定かではないけれど、きっと自分たちが何か弱みを握られたことを悟ったのだ。
私は少しだけ溜飲を下げると、座席に腰掛ける。
(……旅立つ前に、一矢報いることができたかしら?)
もちろん、決定的な証拠がない限り「ラザフォード家は倫理に反する儀式を行っている」などと触れ回ることはできない。
けれど、少なくとも彼らが後ろめたいことをしているという事実を突きつけることはできたはずだ。
そして、それは今後彼らからの嫌がらせを未然に防ぐための牽制にも繋がる。そんなことを考えながら、私は馬車に乗り込んだ。
馬車の中には、既にイザベルが乗っていた。
彼女はあくまでも付き人なので、私をウルス公爵領に送り届けたらそのままラザフォード邸に戻ることになっている。
「では、出発致します」
御者が鞭を打つと同時に、馬が甲高い鳴き声を上げた。そして、そのままゆっくりと走り出す。
しばらくすると、イザベルが口の端を吊り上げて言った。
「あら、お嬢様。靴が泥で汚れていますわよ」
そう指摘されて足元を見ると、確かに彼女の指摘どおり私の足は土で薄茶色に染まっていた。
(ああ、なるほど。確か、私にこの靴を履かせたのはイザベルだったわね。ということは……)
恐らく、イザベルは嫌がらせをするために意図的にこの靴を履かせたのだろう。
そう思いつつ、私は冷静に答えた。
「ありがとう、イザベル。わざわざ教えてくれて」
すると、イザベルは拍子抜けしたのか、キョトンとした表情を浮かべる。
しかし、すぐに気を取り直したのか嫌味っぽく笑った。
「いえ、お気になさらず。それにしても、困りましたわ。生憎、ハンカチを持ち合わせていないのです。もし、このまま公爵邸へ向かえば、旦那様に顔をしかめられてしまうかもしれません。ああ、どうしましょう……本当に困りましたわねぇ」
わざとらしくそう言うと、イザベルはちらりと横目でこちらを見てくる。
そんな彼女を見て、私は小さく嘆息する。
「向こうに着いたら、自分で拭くからいいわ。気にしないで」
「え? ああ、左様ですか……」
私の反応があまりにも淡白だったからだろうか。イザベルはつまらなそうに口を尖らせた。
馬車は公爵領に向かってひた走っていく。窓の向こう側には、見渡す限り一面の大草原が広がっていた。
それから、どれくらい時間が経っただろうか。馬車は、ようやく目的地であるウルス公爵邸に到着した。
馬車から降りる際、ふと顔を上げると真っ赤に染まった太陽が沈みかけていた。
空はすっかりオレンジ色に染め上げられており、もうじき夜の帳が下りようとしている。
その景色を眺めていた時だった。公爵邸に仕える家令と思しき茶髪の青年が私の元に駆け寄ってきた。
彼は、深々と頭を下げて言った。
「ようこそ、コーデリア嬢。本日は遠路遥々、我が領地までよくぞおいでくださいました。さぞかし、お疲れになったことでございましょう」
「いえ……お心遣い痛み入りますわ」
「ああ、申し遅れました。私は、当公爵邸の家令を務めておりますアランと申します。以後お見知りおきを」
家令にしては随分と若い。恐らく、二十代後半くらいだろう。
しかし、その振る舞いにはそういった事情を微塵も感じさせない堂々としたものがあり、そこには家令としての貫禄が滲み出ていた。
「ええ、よろしくお願いしますわ」
私は軽く会釈をしてそう返す。
役目を終えたイザベルは、私が無事ウルス邸に到着したのを確認するなり「それでは、私はここで失礼いたします」と言って、そそくさと馬車に乗って立ち去ってしまった。
アランは門を開けるように合図を送る。すると、門番たちが鉄柵を開けてくれた。
「ささ、こちらへどうぞ」
彼の案内に従って敷地内に足を踏み入れる。中に入ると、手入れされた美しい庭園が広がっていた。
(素敵……)
庭師の腕が良いのか、どの花も生き生きとしていてとても美しかった。
そのまましばらく歩いているうちに、やがて大きな邸が見えてきた。
邸の中に入り長い廊下を通り抜けると、そこには豪奢な応接室があった。私は、アランに促されるままソファに腰かける。
「それでは、暫くしたら旦那様がいらっしゃいますのでこのままお待ち下さい」
そう言うと、彼は一礼して部屋を出て行った。一人きりになったところで、改めて室内を見回す。
壁に飾られた絵画、高価な調度品──恐らく、かなりの名工の作品なのだろうけれど、あまり芸術に興味のない私はそれが何という作者の作品なのかまでは分からなかった。
そんな風にぼんやりとしていると、扉をノックする音が聞こえた。
慌てて「はい」と返事をすれば、扉がゆっくり開いていく。私は、慌てて姿勢を正した。
そして──現れた人物を見た瞬間、私は思わず目を疑った。
(し、白熊っ……!?)
そう、部屋に入ってきたのは、白い毛皮に覆われた大きな熊だったのだ。
一応、貴族らしい服を身に纏ってはいるものの、どこからどう見ても人間以外の生き物にしか見えない。
「…………」
あまりに予想外すぎて、一瞬固まってしまう。しかし、すぐに我に返ると慌てて目を擦った。
しかし、何度目を凝らしてもそこにいるのはやたら毛並みが良い、二足歩行する白熊で──。
「大丈夫か……?」
その白熊は、怪訝そうに私の顔を覗き込んできた。
「あ、あの……もしかして、ウルス公爵でしょうか?」
恐る恐る尋ねると、彼は小さく頷いた。
次の瞬間、私はようやく目の前にいる方が公爵様なのだと気づいた。
「し、失礼しました! まさか、公爵様だとは思わず……」
急いで立ち上がり深く頭を下げると、彼は慌てて首を横に振った。
「ああ……いや、構わない。驚かせてすまなかった。それより、まずは楽にしてくれたまえ」
そう言われても、この場で気安く寛げるほど図太い神経の持ち主ではないので困ってしまう。
とりあえず、私は再び席に着いた。
(ど、どうしよう……)
内心冷や汗をかきつつ様子を窺うと、彼は私の向かい側に座った。
私は、食い入るようにまじまじと彼を見つめる。
(それにしても、毛並みがいいわね。この間、図鑑で見た通りだわ……)
公爵様に対してこう表現するのは失礼かもしれないけれど、正直言って可愛い。
本物は北国にしか生息していないらしいので実物は見たことがないけれど、想像以上の愛らしさだった。
それにしても……事前にウルス公爵は猛獣のような姿をしているとは聞いていたが、まさか白熊だったとは。
(可愛い……抱きついて、もふもふしたい……)
実のところ、私は大きくてもふもふしている可愛い生き物が大好きなのだが、当然のことながら両親にペットなど買い与えてもらえなかった。
だから、ビクトリアが大型犬を──レオンをペットにしているのを見て、いつも羨ましいと思っていたのだ。