僕もファミドに負けないくらい息を切らしながら問いただしました。その人が僕の方を見た時、直ぐに悪魔だとわかりました。纏う空気が完璧でしたから。ただ、その美しい目にはっきりと怒りの色が射していて僕は怖くなりました。
ですが、そんなことを思ったのも一時で、次の瞬間、僕はにファミドに駆け寄っていました。
悪魔はあっさりと僕に場所を譲ります。ファミドは僕から顔を背けて、声も上げません。
使いというのはそういう子なのです。神様が動揺して無茶をしないよう耐えてしまう。神様は使いの事となると取り乱して、とんでもないことをしかねません。自分が消えることさえどうでも良くなります。本体が消えたら元も子もないのですが、神様は矛盾が多いのです。
ファミドを近くで良く見ると、眼球は無事でしたが、瞼からまだ血がダラダラと流れていました。
「どうして修復しないの……」
ファミドがこれくらいの傷を負ったことは以前もありましたが、自分で簡単に修復していました。ファミドは僕の顔を「大丈夫」というように舐めました。健気な姿に僕はもうどうしようもない気持ちになりながら、ファミドの傷にそっと触りました。早く僕が治してあげないと。
「何で……」
僕には戸惑うことばかりでした。僕が手を当て、血は止まったのに、傷口は生々しいままなのです。 完全に破壊されているわけではないはずなのに、僕に治せない傷があるの?
「その傷は治らないぞ」
僕を直ぐ後ろで見ていた例の悪魔が、小さいけれど良く通る声で言いました。
後ろを振り向いた時、悪魔の手に信じられないものを見て僕は身構えました。
そもそも悪魔が人間の世界にいること自体がおかしかったのですが、ファミドの怪我に動揺して気にとめていませんでした。門を持たない悪魔がどうやって地獄から移動してきたのか。そしてその左手に何故ガジエアを握っているのか。
ガジエアと言うのは神様を殺す剣のことです。さっき話した通り神様は設計図の一部すら残らないほど破壊されない限り、再成できます。
ただ、一つだけ、設計図ごと断ち切れる物質があって、それがガジエアの刃です。ガジエアで傷つけられた部位の設計図は元には戻らず、傷は癒えません。ガジエアの成分がもっと深く、全身を巡る血液に大量に入ると身体中の設計図が壊れていって、いずれ僕たちは魂ごと消えます。
「あなたは……どうして……?」
僕は悪魔に近づきました。闇の中で青白く光るガジエアを握る悪魔の左腕に古い傷跡があるのが気になりました。
悪魔は後ずさりもせずに僕を見つめるだけです。細身に見えますが、その胸も、ガジエアを握る腕も逞しく見えました。悪魔に手を伸ばしたその時です。
「君は動かないで」
別の声が聞こえ、誰かが僕の腕を掴みました。
温かい手でした。耳のそばで揺れるような声。神様? どこから来たの?
突然現れた神様は僕の代わりにゆっくり悪魔の前に立ちました。
僕は悪魔がガジエアをその神様に振り下ろすのではないか、と不安になりました。でも悪魔は神様の顔を凝視し、動く様子もありません。
その神様と悪魔は暗闇の中、お互いの耳元で何か言い合いをしていましたが、何を話しているのかはわかりませんでした。その後、悪魔はガジエアをしまい込んだのですが、その時、悪魔の目に一瞬怒りの色が燃えたような気がしました。
悪魔は最後にもう一度、神様に何かつぶやき、ファミドに目をやると、ゆっくりと後ろを向いて、悠然と闇に消えました。
悪魔と向かい合っていた神様がこちらを振り返った時、一瞬顔が鏡に見えて、僕は納得しました。
――やっぱり、鏡の神様だ。
第一、この近さで会話がまるで聞き取れないなんてことがあるわけがないのです。この神様と悪魔はまるで鏡の中で話しているようでした。鏡の神様は目が合った相手の心の奥底を自分の顔に映して、それを相手に跳ね返すこともできると聞いたことがあります。
相手の心にある怒りや悲しみが強ければ強いほど、同じ熱量の負の力が跳ね返り、弱い人間だと死んでしまうこともあるそうです。
今回は対象が悪魔だったから耐えられたのか、どうしてカジエアを取り上げなかったのか、疑問を抱えたまま、僕は鏡の神様に近づきました。
「君、大丈夫?」
僕を見て鏡の神様が言いました。心地よい声を発した、なめらかな白い喉。月灯りに揺れるさらさらした黒髪も、あの日から何度も空想していた通りだ。会いたかった、ずっと憧れていた奇跡の神様――。
「僕のお兄さんになってください」
そう言って、鏡の神様の細い腰に抱きました。
これがシロキさんとの出会いです。