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第9話 破滅の断崖

 カドの背を追いかけて、薄い橙色が薄い紫色に変わって行く空の下、緩やかな傾斜を登り続ける。


 まだ水はないから先に行かなくてもいいのに。白い着物の裾から覗く細い足首の動きがだんだん鈍くなっているのがわかる。


「シスさんって本当に美形な悪魔だったな、緊張したよ。また会いたい。あ、でも俺が一番かっこいいと思うのはお前だけど」


 俺が嫉妬したり、落ち込んだりするわけがないのにカドは慌てて付け加える。


「ああ、いい奴だったな。ところでお前疲れてきたんだろ。そろそろ海が見えて、断崖にあたるはずだ。今夜はそこで休もう」


「俺は大丈夫だよ。でもそろそろ暗くなるし、お前が海に落ちたら困るからそうしよう」 


 カドが笑う。その踵も足の指も赤くなっていて、俺はさっさとこいつを抱えて断崖まで行って休ませてやりたい気持ちを抑える。


「俺の方が少し疲れてる。ゆっくり行ってくれ」


「うん、わかった」


 そう言ってカドがさっきよりゆっくりと歩きだす。こんな子どもっぽいやつが神様か? それとも俺が知らないだけで、神様の設計は基本的に無邪気な印象にするという決まりがあるのか。


「なあ、風が少し、重いよな。匂いも違う」


 熱風ともそよ風とも違う、初めての風の感触。


 海が見えたらそこからは水の地獄だ。


「海風だよ。かなり近い。エンドは海は初めてなんだよな。断崖で休む場所を決めたら色んな季節の海の話をしてやるよ」


「そうだな。海は話に聞くだけで見るのは初めてだし、知らないことばかりだ」


 色々な季節の海か。それはカドの中の人間の記憶なのか、人間の世界が好きな神様の記憶なのか。


 カドは自分の知っていることを、炎の地獄のことしか知らない俺に嬉しそうに教える。俺はそれをただ聞くのがとても好きだ。


「エンドは全然偉ぶったり、強がったりしないよな。自然体でそんなにかっこいいなんて、もう俺の兄さんと父さんになってよ」


 役割が増えてるな。俺は作成された時からこの姿で、仲間と信頼し合い、平和にやっているが、基本的に生活は独りだ。人間の世界のことは罪人から読み取る記憶の中でしか知らない。だからこいつの言うことはちゃんと理解できていないかもしれない。


「記憶が戻っても同じ事を思ってくれるなら、なってやるよ、何にでも」


「俺は、お前が俺の正体を知った時に幻滅しないでいてくれるかの方が心配だよ……あ、海が見えるぞ!」


 カドが俺の手を引いた。大きな岩を登り切ると、そこには広大な断崖があった。


「破滅の断崖か……」


 シスはそう呼んでいた。断崖の向こうでは、太陽が月に時間を奪われる直前の最後の叫びを響かせ、それに燃やされそうになる海が赤く揺らめきながら広がっていた。


「もう少し近寄ってみる。俺が安全か確認するまで、お前はそこにいろよ」


 そう言ってカドが海に向かって歩きだした。


「おい、気をつけろよ」


 崖の高さはどう見ても百メートル以上ある。そんな崖が海に牙をむくように見渡す限り切り出している。水がどうこうの前に、お前、落ちたら死ぬぞ。


 カドが息を切らして戻ってきて言った。


「あっちの平坦なところまでなら大丈夫だ。尖端にかけて高くなっているから、そこは登らないようにしよう」


 カドの黒い髪が風になびいて、隙間からちらちら見える目が、泣いてもいないのに濡れているように見えた。




 カドの指した方向に、六角形の筒を切りとったような岩が無数に並んでいる平地があった。


 俺は寒さと闇を払うため、そこに風に動じない炎を作る。といっても今、風はその存在を消して、空気だけが触れられそうなほど冷たく張りつめている。


 太陽はとっくに次の場所を目指して去り、薄い蒼の空に、満月まであと一筋の月が大きく浮かんでいる。


 海は月との方が相性が良いな。さっきまで太陽とは激しく競いあっていたのに、今は月と互いを称賛し合っているように見える。


 月は海に向かって優しい表情を向け、海も喜んでその姿を映し、波打っている。他の場所で見る月も美しいが、それは海に向けたものの横顔を覗いているだけなのかもしれない。


 視線を近くに戻すとカドが口元に微笑みを浮かべて海を眺めている。俺の方が背丈があるだけに、こうして見下ろしたカドの顔を一番見慣れている。前髪とまつ毛で良く目が見えないこの角度。


 カドと過ごすようになってから、目というのは真っすぐ正面から見る時よりも、わずかにしか見えない時の方が多くを語ることを知った。今もカドの見え隠れする目はたくさんのことを語るのに、意味が重なって逆に何も読み取れないのがもどかしく、変な気分になる。


「あっちに見えるのがシスさんの言っていた神様が現れる岬かな? 面白い形の岩があるよ。門みたいだ」


 カドが指差した方角に、海にひと際せり出し、研ぎ澄まされた形状の岬が小さく見えた。更にそこには、真ん中に穴のあいた大きな岩が乗っている。確かに岩の門のようだ。ここからみ見えるくらいだから、近づけば相当な大さだろう。


「あっちにはは塔みたいな形の岩がある。波に削られてできたんだろうか。岩はみんな幸せだろうな」


「幸せ? 何でだ?」


「海に形を作ってもらえてさ」


 カドは顔を海の方に向けたまま真剣な表情で言う。


「ここから見るお前の顔が一番好きだ」


 心が無意識に声に出た。


「斜め上から見下ろすのがか? 実は俺もなんだ」


 カドが俺を真っすぐ見上げた。


「は? どういう意味だ? ……お前、何か思い出したか」


 ふと、心がざわついた。


 カドが首を横に振る。


「うんう、でも焦らないよ。それよりお願いがあるんだ」


 いつもの無邪気な顔に戻り、立ち上がりながらカドが言う。


「炎を出して。海の上に丸いやつを、十個くらい」


「突然だな。いいぞ。でもなんで急にそんなこと?」


 海全体が見渡しやすい位置を探して移動しながら尋ねた。


 あまり前に出るとカドに「危ない」と怒られてしまうので慎重に。


 月はさっきより少し遠のいたところで金色から銀色に姿を変え、海と話をしている。


 月は神様そのものだな。完成されているのに欠けている。太陽は遠くにあっても近くにあっても激しく燃え続け、人間がその機嫌に一喜一憂する悪魔。月は不安を抱えながら、姿さえまるで違う星に変えて海の中で震える愛しい神様。


 月に捉えられている俺の横でカドが言う。


「同じような風景を見たことがある気がするんだ。炎の大きさはそうだな、お前が両手を広げたくらい。海面に近い場所に不規則に浮かべて」


 意外と注文が多いな。


 俺は海に視線を移し、ほんの一瞬目を閉じた。


 ぼっと炎が胸の辺りに現れ、次に目を開くと、重低音の爆発音が一度だけ熱く響き、光りが海の方へ散る。


 残響が静まると、海上に二十の丸い炎の塊が浮き、月の子どものように揺らめいていた。


「どうだ? こんな感じでいいか」


 初めて俺が炎を出した時、カドは不満そうだった。「……炎を飛ばすって、なんか、手をこう恰好良く使ったりするものだと思ってたけど、視線だけで簡単に作ったり、動かしたり出来るものなんだね。決め台詞もないんだ」そう言ってがっかりする顔を見て、なんだかとても悪いことをした気分になった。


 地味過ぎて期待に沿えなかったようだ。「すまない。手の使い方なんて考えたこともなかった。胸の中にあるものを出すだけだから。お前も自分の気持ちを手で飛ばしたり、呪文で表現したりしないだろ?」言い訳をするとカドは「いいよ、どうせエンドは格好つけなくても格好いいんだし」と笑った。


 未だにどういうのがカドの理想の炎の出し方なのかわからないが、教えてくれればその通りやってやろうと思っている。


「遠くから見ていた記憶しかないんだけどこんな感じだった、あ、ほら、空」


 カドが空を指さした。


 天空から透明の光の柱が何本も降りている。空が支えられているようだ。


 ぼんやりしている俺に向かってカドが微笑みかける。


「あれが光柱だよ。お前が海面に浮かせた炎の光が、冷たい空の空気に反射して、ああやって柱のように見えるんだ」


「夜の空は光に支えられるなんて幸せだな」


 カドのような感想を言ってしまう。海に形を作られる岩、光の柱に支えられる空。 幸せな物は案外受け身だ。


 カドの目元が、海面に浮かぶ静かな炎を映して微かに濡れている。お前はどこでこれを見たんだ?


「あと、五分だけ炎を消さないでくれるか」


「五分だけでいいのか?」


「お前も、儚いものが好きだろ。俺もなんだ。それで、光柱が消えたら、波の音聞いて寝よう。あ、お前は寝ないか」


 儚いものが好きだ、なんて言ってことがあるだろか。ただ、時間に負けることは永遠より遥かに貴重だとは思っている。


「わかった、じゃあ後五分だ」


 名残惜しさに浸りながら、岩場に当たる不規則な波の音を聞く。その時ふと、カドの声が心地いいのは、波に似ているせいか、と思った。


 瞼を閉じた闇の中、全てを海に戻してくれる、神様みたいなカドの声と同じ音だけが、ずっと聞こえていた。

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