「すまない、花が珍しくて夢中になってた。俺は炎の悪魔でエンドフォス、こいつは…… 実は記憶を失くしていて何者かはっきりしないんだが、名前はカド」
「こっちこそ驚かせたなら謝る。神様の気配がしたものだから」
その碧い目の悪魔はまたカドを「神様」と呼ぶと、口元に柔らかい笑みを浮かべて名乗った。
「俺はシス、水の悪魔だ。この境界域に住んでいる」
あまりに整い過ぎた繊細な顔のせいで神経質に見えるが、笑い方はとても穏やかで柔らかい。
「どうしてこいつが神様だと思った?」
シスに尋ねる。
「あ、いや、俺の知っている神様に雰囲気が似ていたんだ」
「狐を連れた神様に会ったことがあるのか?」
「ああ、ある。でもその前に、何者かはっきりしなというその子が気になる。ちょっと見てもいいか」
「いいよな? カド。何かわかったら教えてくれ」
急に無口になったカドが、小さく頷いた。
シスはカドの顔を両掌で抑えると、自分の額をカドの額にそっと寄せた。白い前腕に赤い傷跡が見える。
額から記憶を読み取るのは、悪魔共通の方法だが、顔ごと寄せるのが水の地獄のやり方なのだな。
シスの透けるような金色の髪が、カドの顔にはらりと落ちた。
カドが困った顔をして俺を見た。何が言いたいのかわからず首を傾げて見返しているとカドがやっと声を出した。
「なあ、ちょっと待ってくれ。記憶を読み取るなら額に手を当てるだけでで十分じゃないか。何でそんなに顔をくっつけてくるんだ」
カドがシスから身体を押し離す。
「シス、すまないな。こいつ人見知りなんだ」
「そういう事じゃないよ」
カドはそう言って、怒ったように地面を見ている。
シスが困惑した声で助けを求めてきた。
「この子、いつもこうなのか」
「俺が触れても平気なんだけどな。それでどうだった、何かわかったか」
カドは放っておくことにして尋ねる。
「確かに、これは何だろうな。神様、悪魔……それに確かに人間の魂を感じる。不思議だな」
「そうだろ。俺がそいつを炎の地獄で見つけたのが一年ほど前だ。未だ何者かわからない。記憶を戻してやりたいが、手がかりが少なすぎてな。神様だけが、人間の世界と地獄と極楽を行き来できるだろ。神様たちは何故か人間の世界で過ごすことが多くて、地獄に長くいることはまれだ。ところが最近、水の地獄に滞在している物好きな神様がいると聞いて、こいつのことを何か知らないかと期待して会いに行くところなんだ」
「協力するよ」
シスは少し空の方へ顔を向けながら続けた。
碧い目に太陽の光が射しキラキラと輝いている。
「狐を連れた神様とは話したことがある。『シロキさん』がどこにいるか知らないか、と声をかけられた」
カドがはっとして顔を上げる。またシロキさんか。
「一年程前に会う約束をしていたシロキさんが急に消えてしまったと教えてくれたよ。ちなみにシロキさんというのも神様だ」
カドが胸の辺りを押さえた。
「大丈夫か?」
カドの肩を後ろから支えながら尋ねる。
「うん、大丈夫。ありがとう」
シロキさんは神様か……カドに纏わりつく神様の感触。急に消えたという時期もこいつが地獄に現れた頃と重なる。それにカドのこの反応。カドがシロキさんということか。
「こいつがシロキさんってことはないかな?」
シスは驚いた様子でまじまじとカドを見た後、答えた。
「どうかな、俺は違うような気がするが。狐を連れた神様に直接聞いてみろ。この子がシロキさんなら怒られるかも知れないな、神様同士の約束を守らないなんて。その神様はこの山を越えた先の岬に良く現れる。見た目はなんというか……幼い感じだな」
「こいつよりもか」
カドを見て言う。
「俺は子供じゃないぞ」
カドの反論を気にする様子もなく、シスは続ける。
「そうだな。その子—―カドと比べてもずっと幼く見えた。人間の感覚なら、十代前半の少年の姿のまま存在している。華奢で、かわいい顔をして。まあ幼いとはいえ、神様だから俺ら悪魔と違って魅力的だ」
カドが俺に肩を支えられたままうんざりした表情で言った。
「悪魔と違ってって……悪魔も自虐とかするのか。それともお前ら鏡も見たことないのか。まあ、なくてもいいよ。それじゃあ、今、エンドとシスさんでお互いを見てみろよ。どうだ?」
俺とシスは困惑しつつお互い見つめ合う。
「どうと言われても……悪くはないんじゃないか、見た目も魂も。普通だよな……? 俺たち」
シスも困っているじゃないか。
「普通じゃなく、完璧じゃないか。姿も魂も。全部、完全に揃ってるだろ」
珍しくイライラしているカドをシスが心配そうに一瞥して尋ねてくる。
「何度も同じようなことを聞いて悪いが、この子、最初からこうなのか」
俺も同じく心配な口調で答える。
「少なくとも俺と会った時からずっとこうなんだ」
ふうっと溜息をつき、シスが真剣な表情でカドに顔を近づけた。
またカドがびくっと緊張する。
「お前、俺たちには欠けているものがないように見えるのか? それが足りなんだ。人間は完成の途中にいるから欠けていて当然だが、神様は完成されているのに欠けている。その欠かけてる部分にあるものが貴重なんだよ。俺たちはそれに魅了されてる。お前の欠けてる部分は何でできているんだ?」
シスも説明が下手だと思う。カドは何となく、完璧が最高ではないと主張されているのはわかったようだが、他は全然理解できていない表情をしている。当然だ。
「俺に欠けている部分……まず記憶が欠けているし、他にもきっと……まして欠けている部分にあるものって何だよ」
「まあ、いい。欠けている部分は最強だから自覚したら気をつけて使え」
「………」
しばらくの沈黙の後、カドが話を変えた。
「ところでシスさん、教えて欲しい事があるんだ。炎の悪魔は水の地獄の水に触れると消えてしまうんだろ。水の地獄ってどういう所かわからないけど、水に触らずに狐を連れた神ところまで行くことは出来るのか」
シスはカドに柔らかく笑いかけた。
「大丈夫だよ。別に水の地獄と言っても、そこら中が水没している訳じゃない。むしろ陸地の方がずっと多いから安心しろ。この山を越えると海が見える崖に出る。そうした北に向かって海岸沿いを進め。しばらく行くと、ひと際大きな岬があって、狐を連れた神様はそこに良く現れる。実は、海岸沿いは水の地獄で唯一雨が降らない。雨が降るのは山の方ばかりだ。崖から海を覗き込んだりしなければ大丈夫。不用意に水に当たらずに済む安全な道だ」
「ありがとう、シスさん」
カドの表情がほぐれ、俺に向かって言った。
「念のため水の地獄に入ったら俺が先を歩くから。お前に水溜りも踏ませないように」
「ああ、ありがとう。俺も気をつけるからそんなに頑張らなくていいぞ。さすがに水溜りぐらいじゃ消えないよ」
カドが急に頼もしいことを言うので嬉しくなる。
「お前たちは、お互いに心配し合って大変だな」
シスが美しい目を細めた後、はっとした顔で付け加えた。
「そうだ、一つだけ注意してくれ。水の地獄には間欠泉があるんだよ。本当なら場所を特定して教えてやりたいところだが、それは不定期に移動するから無理なんだ。俺たち水の悪魔には反応しないが、外から来た動くものを目指して移動するようだ。しょっちゅう現れるものでもないが、もし会ってしまったら、ただ逃げろ」
「忠告ありがとう。間欠泉か。やっかいだが、こいつが助けてくれるっていうから大丈夫だ」
俺はカドの肩をポンと叩いた。
別れ際、シスは俺たちに、静かな風が吹いた時の水面のような笑みを浮かべ「お前たちにまた会いたい」と言って見送ってくれた。