カドが一人フラフラと、炎の地獄の赤茶けた岩の間をさまよっているのを見つけたのは、一年程前だった。
声をかけようと近寄った俺の目の前で、カドは急にぐったりと両膝を地面に落とした。
「おい、大丈夫か」
俺を見上げた濃い茶色の瞳が、虚ろながら何かを訴えているように見えた。
俺は無意識にカドの額に手を当て、完全に混乱した。
「お前、何なんだ?」
驚いて、思わず手を離してしまった。
『判定』出来なかったのはその時が初めてだった。
『判定』とは地獄に送られた汚れた魂を浄化するために、どれだけの罰が必要かを判断するものだ。魂の記憶を読み、炎の地獄であれば、何度焼かれ続ける必要があるのかを決める。
だが、こいつに関しては、そもそも人間なのか神様なのか、悪魔なのかすらわからなかったのだ。
ふと我に返ったように、虚ろな目に光が射して、カドが最初に発した言葉は「……かっこいい」だった。
「は?」
俺に言っているのか? 訳がわからないが、こいつも混乱しているんだろう。かわいそうに思い、腰を下ろし、肩に手をまわして立たせてやった……のは良いが次にどうすべきか困った。
取りあえずアドバンドに見せてみるか。
アドバンドは炎の地獄に最も古くから存在する悪魔で、俺たちの指導者的な存在だ。
「お前歩けるか」
肩をかしたまま数歩進んだところで、そいつに全く歩く気がないことが分かった。ずるずると俺に引きずられるがままだ。仕方ないので背負ってアドバンドがいるはずの場所へ向かった。
「迷惑かけてごめん……あの、俺、カド」
途中、背中で小さな声がした。
「お前の名前か? それ以外、何か覚えていないのか」
「ごめん……思い出せない」
「そうか、無理するな。俺はエンドフォスだ」
「エンド……ありがとう」
背中が温かくて気持ちがいいな、と歩きながら思っていた。
静かな緑玉の水を湛えた大穴のほとりに、大勢の炎の悪魔が集まっていた。
「湖? ここ、火山口か……?」
カドが微かに震えているのを背中越しに感じたが、火山が怖いのか、悪魔の集団に怯えているのかはわからなかった。
「火山口ではないな」
後で説明してやったが、あれは浄化が済んだ魂を人間の世界に返すための出口だ。
緑玉の湖に堕とされた魂は、全く新しい身体を得て、人間の世界に再生する。
その日も大勢の悪魔が、浄化を終えた、赤く儚く灯る魂を大切そうに両掌で包み、一つ一つ静かに水に沈めていた。
「次はあまり汚れてくるなよ」
魂に向かって囁く声が聞こえていた。
アドバンドは悪魔の輪の中心にいたが、俺の足音に振り返ると、驚いた表情で背中のカドを凝視し、そのまま真っすぐこちらに向かってきた。
「エンドフォス、一体何を連れてきたんだ」
そして俺の目の前で足を止め、カドに向かってこう言った。
「お前なんでここにいる」
俺はカドを地面に降ろし自分の後ろに立たせた。
カドが緊張した声で答える。
「……俺も、わからないんだ」
「そうか……ちょっと触らせてもらえるか」
アドバンドが深い溜息をついて、カドを覗いた。身体を横にずらし、躊躇するカドをアドバンドと対面させる。
すかさずアドバンドがカドの額に手を置いた。
俺より長い時間そうしていたと思う。その間、カドは自分に向かって伸ばされた、がっしりとしたアドバンドの前腕に残る、赤い傷跡をじっと見つめていた。
「神様と悪魔と人間か……」
やっと額から手を離したアドバンドがそう言って、今度は俺の方を見た。
「こいつをどこで見つけた?」
「浄化の跡を見廻っていたら、罪人の魂が運ばれてくる方角から、フラフラ歩いて来るのを見かけたんだ」
アドバンドは自分の骨格のしっかりした顎を触りながら言う。
「面倒なものを拾ってきたな」
しかしその声に俺を責めるような響きはなく、むしろ興味を引かれているように聞こえた。そしてこう提案した。
「お前、責任を取ってしばらくこいつの面倒をみろ。俺も色々調べてみる。こいつが何者か分かったら、あるべき場所に返してやろう」
そう言うと俺の返事も聞かず、屈みこんでカドの顔を覗き、大きな手で頭を撫でた。
「それでいいよな」
カドは何と答えて良いのかわからない、といった表情で俺を見上げた。
「そんな目で見るな。お前の正体がわかるまで、俺が一緒にいる」
カドは安心したのか初めて笑顔を見せ、強く頷いた。