「これは黒フェンリルですね。強さは十分でしょう」
ルシウスの気持ちなどお構いなしに、男は、満足げに頷いた。
「はい。それにギルジードです。ルシウスとは血が繋がっている」
「それは、いい」
男が手に持った杖のようなものを床に突き立てると、その先端から奇妙な光が漏れ出した。
床に刻まれていたらしい魔法陣がその光に反応し、ゆっくりと赤黒い輝きを放つ。
「見たこともない、魔法陣だ」
ルシウスは魔術に傾倒していた。古の魔術だとは思うが、見たことがない。
驚きに、思わず魔法陣をまじまじと見る。
これは、なんだ……?
ルシウスの足元に広がるその模様は、不吉なまでに複雑で、まるで生きているかのように揺らめいていた。
「兄上の……死体を使うのですか? 父上、何のために……?」
震える声で問いかけると、父は僅かに口元を歪めた。
それは肯定とも否定とも取れる曖昧な表情だったが、ルシウスには確信があった。
兄の死体がこの場で使われる。なにか、不吉な魔術の代償として。
父は、兄をただの死者として眠らせるつもりなどないのだ。
「お前がビアライド家を守るために必要なことだ。お前は力が足りなかった。だから、ギルジードは死んだ。お前は責任をとるのだ」
その言葉は冷たく、無慈悲だった。父にとって、ルシウスは家を存続させるための駒に過ぎないことが、痛いほど伝わった。
そして、今のままでは兄の代わりには、到底なり得ないと思われているという事が。
「それが……家門のためだと?」
「そうだ。家門の繁栄、それだけが目的だ。お前がこの儀式を拒むなら、ビアライド家は断絶する」
ルシウスは震えながら目を閉じた。
兄が果たせなかった役目。
父の執念に取り憑かれた狂気。
残されてしまった自分。
みじめにも、何も成しえないくせに。
その事実に押し潰されそうになりながら、もう、逆らう力は残されていなかった。
「さあ、受け入れろ。苦痛は力になる。ああ、そうだ。全てお前のものになる」
熱に浮かされたように父が呟くと、男は杖を振り上げた。
突然、空気が変わった。
地下室全体が冷たい風に包まれ、魔法陣の光がさらに強まったのを感じる。どこからともなく、耳鳴りのような不気味な音が響き始めた。
次の瞬間、男の呪文が低く響き渡り、床の中心に兄の亡骸が現れた。
「兄上……!?」
兄の体は既に生気を失っていたが、その表情は苦痛に歪んだまま固まっていた。
隣には、同じように大きなフェンリルの死体が現れていた。
信じられない光景が、目の前に広がっている。
これは、禁術だ。
やめさせなくてはならない。
しかし、その感情は儀式の開始と共にすぐに引き裂かれた。
ギルジードとフェンリルの死体はゆっくりと浮き上がり、赤黒い光に包まれる。そして、その光は次第に細い糸のようになり、ルシウスの体へと侵入し始めた。
「う、あああ!」
ルシウスの全身に激痛が走る。
闇が体を貫き、内側から何かが変わっていく感覚。兄の意識なのか、それとも魔物のものなのか、無数の声が頭の中で叫び続ける。
ルシウスはどうしていいかわからずに、ただ、叫び続けた。
「ルシウス! 耐えろ!」
突然、父の声が鋭く響いた。
ルシウスは痛みにもがきながらも目を開けた。父が儀式の中心に歩み寄り、フードの男を制止していた。
「契約には足りないようだ。このままでは、ルシウスは飲み込まれてしまうだろう。こいつはやっぱり出来損ないだ。……私の力が必要だ」
「何をするおつもりですか?」
フードの男が、父の言葉に戸惑いの声を上げる。
「私自身を捧げる。家門を繁栄させるためならば、この命など惜しくない」
そう言い放つと、父はナイフを取り出し、自らの胸に深々と突き刺した。
血が床に滴り落ち、魔法陣の輝きが一層激しさを増した。
「家門を守るんだルシウス。必ずだ。お前は、それ以外の道はないのだから。ギルジードとこの父は、お前が殺したのだ」
父の言葉は、ルシウスを呪った。
牢屋の鍵が閉ざされる音が最後に響き、地下室は再び静寂に包まれた。