この部屋に来たのは昨日ぶりだ。昨日と同じベッドに寝かされると、嫌でも昨日の事が蘇ってきた。
ルシウス様の、息遣いや体温。
まっすぐに私を求める瞳。
甘い甘い言葉の数々。
「いやいや……何を考えているの、私」
思い出しそうになる色々なことを、頭を振って忘れようとして頭が動かない事に気が付く。
魔力切れはあまりにも無力だ。何も動かない。
「あわわ、全く動かない……。喋れるのが不思議なぐらいだわ」
「……魔力切れなんだから、大人しくしていなさい」
ルシウス様は呆れたように言って、ベッドの端に腰かけた。
広いベッドの上、座ったルシウス様とは距離があって、少し寂しい。ルシウス様が私に気遣っているのがわかるから、余計に。
私は思考がまたそちらに行きそうになるのを、別の話題で切り替えることにした。
「ルシウス様、出歩いてよかったのですか? 半獣の姿になったの、私が重かったからですよね……申し訳ないです」
半獣の姿は戦いの最中に見せているために問題がないとはいえ、ルシウス様は進んで見せたい姿ではないはずだ。
それなのに、屋敷の端の執務室から自分の部屋まで運んでくれたのだ。
「……クローディア、君が重いはずなどないだろう……。むしろどれだけ軽いのだ」
「ここにきてたくさん食べているので、どちらかと言えばかなり太ったと思うのですが」
「もっと食べなさい」
「ええと、わかりました」
ダルバード先生のようにきっぱりと言いつけられ、私は頷いた。
死ぬ気で食べた方がいいに違いない。
「ああもう、そんな事じゃない。……半獣になったのは、君が安心するだろうと思ったからだ。本当はこの姿の方が思い出してしまうのだろうが、君は人間が苦手だから」
自嘲気味に笑うルシウス様の優しさは、私の心に染み込む。
まだ完璧な貴族であるルシウス様の姿に強張る事も多いけれど。人間の姿のルシウス様も素敵に思えてきたなどとは、言えない。
「ありがとうございます」
クローディア、昨日は、本当に申し訳なかった……自分を制御できずに、君に、酷いことを」
ルシウス様は私に頭を下げた。止めたいのに体が動かない。
「ルシウス様! 大丈夫なんです、本当に。私はルシウス様の為になりたくて、気にして欲しいなんて、全く思ってません! ……もしかして、だから私の事を呼ばなかったのですか?」
ルシウス様は答えなかった。けれど、逆にそれが雄弁にそうだと語っていた。
「気にしなくていいのに」
「そんな事は、できない。……君の事を、取り返しがつかない程に傷つける所だった」
苦しそうな言葉は、本当に後悔しているという風で、私は未遂で終わったことに心からほっとした。
……次も、絶対にしっかり断らないといけない。
甘い誘惑に負けてはいけない。
ルシウス様の為に。
私は、しっかりと心に刻み込む。
そうしないと、負けてしまいそうだったから。
「ともかく、私は大丈夫です。ルシウス様の妻として、ルシウス様が苦しいときは助けになりたいんです」
「……本当に大変な時は、呼ぶ」
それは今だったのではないのか。
ルシウス様はもう私に頼る気がないような気がして、私はカッとなった。
「どうしてなんですかルシウス様。獣化が起こりそうでつらいのであれば、私のことを呼んでくれればいいだけなのに! どうしてなんですか! ……どうして、呼んでくれないんですか……」
そう言っているうちに、何故かじわりと涙が浮かんできた。
自分が無力で、情けなくて、頼ってほしくて、でも……頼れない存在だと思われている。
それだけ、私が軽い存在だからだ。
必要とされない。
役に立ちたいのに。
涙が流れるのに、魔力切れで動けない私は、涙を拭う事すらできない。
「最近、意識が遠のくことがある。心まで獣になってしまうかもしれないんだ。そうなれば君に何をするかどうかわからない。傷つけてしまうかもしれないんだ」
ルシウス様は私にそっと近づいて、遠慮がちに私の体を起こした。
まるで壊れ物を扱うように、わたしの涙をそっと拭ってくれた。
「そんな事、気にしないでください」
「気になるだろう。俺は……君の事を、失いたくはない」
「……そんなこと」
危険は関係ないと私は思う。
怪我をしても、
「傷つかなくて距離があるより、私の事を呼んでくれた方がずっといいです」
素直な気持ちでそういうと、ルシウス様は自嘲気味に笑った。
「あんな事に、なったとしてもか」
「あんな事とは?」
私が聞くと、ルシウス様は目を見開いた。
「……忘れてしまったとは、驚きだ」
「ああ! 発情期の事ですね! 大丈夫です。私、全然大丈夫ですから」
忘れていたわけではないけれど、マイナスな事でなかったのでピンとこなかったのだ。
私の事を見て、ルシウス様は呆れたような顔をした。
「そんな明るく言わないでくれ。何故か落ち込むから」
「えっ。なんて言えばよかったのでしょう。ええと、ルシウス様の寝間着姿はとても素敵で色気がありました。大丈夫です」
「その言葉の何が大丈夫だったのか、さっぱりわからない」
「気にしてないって事を言いたかったんですが」
「ちょっと伝わってこなかったな。不思議だ」
「不思議ですね」
たわいのない会話をしつつ、ルシウス様が時折手をぎゅっと掴む。
「……ルシウス様は、獣になるのが怖いのですか? 私を呼んだ方が、楽なのに。どうしてそんなに私の事を傷つけるのが、こわいのですか?」
ルシウス様を縛るものは何なのだろう。
私がまっすぐにそう問えば、ルシウス様は目を瞬かせた後に、ため息をついた。
「魔力切れで寝ている間に聞いた、戯言だと思ってくれ」
「……教えてください」
私が頷くと、ルシウス様は私の手を握り、話し出した。
その手は、ひやりとして、かすかにふるえていた。