彼は、私にもすぐに去るように言って、私が戻るのを見届けすらしなかった。
それを、不快だからと思っていたけれど違うのかもしれない。
……ルシウス様が、獣になっているのかもしれない。
屋敷は静まり返っている。
普段ならまだ作業をしてるものもいるはずなのに、誰も外に出ていない。物音もしていない。
……グライグが皆に知らせたのだ、その為に、私と話を切り上げ、すぐに立ち去ったのだ。
そのことに思い当り、ぞっとする。
どうして?
どうして、私を呼んでくれなかったの?
回復魔法で身体が楽になる、獣化しても意識を保てると言っていたのに……!
私はルシウス様の執務室に耳を付ける。大きな生き物の息遣いが聞こえた。
間違いない。
こんなところで立ち尽くしている場合じゃなかった。
私は、すぐにルシウス様の部屋に入ることにした。
「やめてください」
鋭い声が聞こえ、私はドアに手をかけたまま振り返った。
いなくなったと思っていたグライグが、息を乱して立っていた。急いで戻ってきたようだ。
色が見える。
私への憎しみ、焦り、先程よりも、よっぽど強く。
「ルシウス様は、クローディア様が来るのを望んでいません」
はっきりと、断言される。
それは、ずきりと私の心に刺さった。しかし、そういうことではない。
「けれど、私はルシウス様の痛みを軽減することができるかもしれないんです」
「……それは、しっています」
「それだったら、どうして? あんなに素敵な人が、ひとりで苦しんでいいはずないわ」
「そんなことは、私だって思ってる!」
グライグのいらだった声に、私は思わず固まった。
「だったら……どうして」
グライグは怒った顔のまま、私をじっと見つめた。
「ビアライド家が、それを、許さないからです」
「……ルシウス様が、当主なのに……?」
「それでも、です……。それ以上は私からは言えません。クローディア様がここから去るのはルシウス様の望みです」
目を伏せたグライグには、懇願するような響きが混ざっていた。
でも、私はそれを無視するしかない。
ルシウス様がつらいのならば、軽減するようにしたい。
本人に直接拒絶されない限りは、私は納得できない。
「あなたのいう事は聞けない。私、ルシウス様の為にここにいるの。だから、私は彼が助かるなら、それをやりたいの、どうしても。グライグにも、それはわかっていてほしいわ。私は何があっても彼を恨んだりしない。自分の意思で、自分の為に、彼の役に立ちたいの」
「……クローディア様……」
「あなたの言い分は、わかった。それでも、私は部屋に入るわ。あなたは、戻って。私は、私の判断で中に入る。ビアライト公爵夫人だもの」
私がそういうと、グライグはぎゅっと目をつむった。そして、さっと後ろを向いて去っていった。
……わかってくれた、と信じる。
グライグの姿が見えなくなって、私は止まってしまっていた息をそっと吐いた。
……ごめんなさい、グライグ。
「ルシウス様、クローディアです。入ります」
声をかけながら入ると、暗闇の中、黒い獣が私の方をじっと見ていた。息が荒い。ただ、こちらの様子を伺っている。
「……」
「ごめんなさい。回復魔法をかけさせてください」
そう言って、私はルシウス様の色を見た。
この間と同じように、赤黒い渦に覆われている。
いや、この間よりもひどい。
それにじっと耐えるように、ルシウス様は小さく床に臥せっていた。
「グルルル……」
「……!」
近寄ろうとすると、ルシウス様は威嚇するように唸り、牙を見せた。驚く程に鋭いその刃。
これだけ見たら、彼は意識を失ってしまったただの魔獣に見えるかもしれない。
でも、その目はルシウス様で、だからそうじゃない気がした。
……私が近寄ると、危険だからじゃないだろうか。
ルシウス様は、そういう人だ。
でも近づいたら、彼に負担をかけそうだ。
私は遠くから、回復魔法をかける事にした。
『回復』
色を見ながら、酷いところを重点的に。
ルシウス様が、驚いたようにこちらを見ている。この距離からかけられるとは思ってもみなかったようだ。
魔法には当然距離も影響する。……練習していてよかった。
ダルバード先生の教えが生きているのか、前回よりもゆっくりと冷静にかけていくことができている。
魔力はどんどんと減っていく。それでも、ルシウス様の周りにはまだ赤黒い渦が見えている。
ルシウス様も息は荒い。彼のつらさが伝わってくるかのようだ。
「一緒です。ルシウス様。大丈夫です」
どんどんと魔力を奪われ、その苦しさに額に汗が伝う。しかし、関係ない。
ぐらり、と魔力切れで視界が揺れたころには、ルシウス様の渦は消え、靄のようなものが残るだけとなっていた。
そのまま後ろに倒れるな、と思っていたらふわりとした柔らかさに包まれた。
「クローディア……大丈夫か」
慌てたような顔の半獣の姿のルシウス様が、私の身体を抱き寄せていた。
「大丈夫です。もちろん」
言葉とは裏腹に、使い切った魔力が身体の力を奪っていた。もたれかかるように、ルシウス様に体重を預ける事しかできない。
「無理して……」
そういうと、ルシウス様は一度私を置き、服を着た。そして、再び私を抱きかかえる。
軽々と持ち上げるのは、流石半獣、だからなのだろうか。
力持ちだ。
「俺の部屋に行く」
「ルシウス様、すっかり俺って言いますね」
「……こんな時なのに、元気じゃないか」
私の驚きに、ルシウス様は何故かおかしそうに笑った。