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38 【SIDEルシウス】抑えようのない熱

 クローディアに近づいたときに、確かに彼女から甘い香りがした。


 引き寄せられるように撫でると、彼女は甘えるように頭を寄せてきた。

 途端に体温が上がり、感じたことのない興奮が自分を襲った。その欲望のままに髪を撫で、彼女の唇に自分の唇を寄せようとした。


 しかし、甘い言葉を吐き彼女と目があったときにはっと気が付いた。

 クローディアは、ただ不思議そうな顔で自分を見ていた。


 何の愛情もない場所で育ってきた彼女は、獣人である自分に親近感を覚えているだけだ。それをまざまざと見せつけられたようで、ざっと血の気が引いた。


 俺は、なんてことを。

 彼女に気が付かれなくてよかった。


『基本的には私とは関わらないでくれ。当然白い結婚となる』


 自分の言葉が蘇る。馬鹿みたいなことを言ったものだ。


 あの時は、本当に思っていたのだ。誰とも、関わりたくないと。あんなことを言わなければ、今頃、夫婦として夜を共にする事も、できた。


 彼女を欲望のままに捕らえ、逃がさないようにする事もできた。


 すっかり無防備な笑顔を向けてくるクローディアを、どうにかして手に入れたくなってしまった。


 結婚する時は確かに、既婚という記号以外何も望んでいなかった。一定の距離で過ごそうと思っていた。

 冷たくする気はなかったし、公爵夫人として生きるための配慮はする。それだけだったのに。


 けれど彼女は、気がつけば自分の心に入ってきていた。自分の弱いところまで、いとも簡単に。


 彼女に近付きたい。触れたい。めちゃめちゃにしたい。


 そして自分のものだという事を何度でもわからせて、忘れさせないようにさせたい。


 笑わせて、泣かせて、自分に縋りついてくるところをみたい。


「……駄目だ」


 魔物寄せをかいでから、本当におかしい。

 自分の中の欲望が膨れ上がって、それがクローディアに向いている。


 彼女をこのままでは壊しかねない。


「……ああ、手に入れたい」


 口に出すと、より彼女への願望をすぐさま叶えたくなる。

 そうだ。今すぐ彼女の部屋に行けばいい。


 きっと、舞踏会に行って疲れて眠っているだろう。

 あの白い髪がベッドに広がり、無防備にも白い手が見えるはずだ。


 細くやわらかな身体に巻き付いたシーツをはぎ取れば、身体に不釣り合いなほどのふくらみと長い手足が見えるだろう。


 想像した光景はクローディアの白い肌が暗闇に浮かび上がり、とても綺麗で、煽情的だった。


 ……そう、抱きしめてそのまま。


 大丈夫だ、夫婦なのだから。

 クローディアだって、そう言っていた。


 俺は、ドートン家に対価を支払った。十分すぎる程に。


 手に入れる資格はある。


 あの、甘い身体を手に入れる……


 ルシウスはそのまま立ち上がりかけて、はっとしてぎゅっと手を握りしめる。


 理性を取り戻すために、ゆっくりと呼吸する。

 衝動に駆られる自分が恐ろしかった。

 彼女の静かな寝顔を想像するだけで、鼓動が速くなるのを感じるが、同時にそれが彼女を傷つけるのは間違いなかった。


 自分勝手な欲望は大きく、魔獣になるようなあらがいようもない無力さを感じた。


「……駄目だ。欲望のままになん、それこそ獣だ……」


 そんな風になってはいけない。

 握りこんだ手からは、血が流れ出た。


「人の姿のまま獣になる……そんなのは、あいつと同じじゃないか」


 父は、きちんとした、厳格な貴族だった。

 刻み込まれたように、今でも父の声が耳に焼き付いている。。


『お前はこの家の為に生きるのだ。歴史あるビアライド家の一員であることに誇りを持て。すべては家の為だと忘れるな』


 いつも背筋を伸ばし、一糸乱れぬ姿で執務室に座る父の姿が目に焼き付いている。


 父がくつろぐ姿は、家であろうと見たことはなかった。

 漆黒の髪に混じる白髪さえも、整然と後ろで束ねられていた。深いブルーの上着は、一皺も許さない完璧な仕立てで、厳しい父によく似合っていた。


 瞳は氷のように冷たく、相手を凍りつかせるほどの威厳を放っていた。父の前では、誰もが呼吸を潜めるような気がした。


『我が家の名誉は、何世紀もの歴史と共に築き上げられてきた』


 冷たく、狂気をはらんだような目が怖かった。


『それを汚すようなことは、決して許さない。それが誰であろうと』


 父の手元で、銀の指輪が光った。それは代々、我が家に伝わる紋章が刻まれた品だった。その輝きは、まるで家の誇りそのものを映し出しているかのようだった。


 兄は、それを見ながら誇らしそうに頷いた。


『お前は必ず家の役に立て。兄であるギルジードを、何をしても支えるのだ』


 ルシウスはその指輪を見るたびに、苦さと憧れを感じた。

 その指輪は今は、自分の指に嵌っている。


「……あの父に感謝だな。少し落ち着いた」


 自嘲気味に呟く。

 少しだけ熱が戻る。


 彼女を前にして、馬鹿みたいな欲望に支配されてしまうかもしれない自分に、嫌気がさす。


 全く、自信がない。

 今だって、何をしようとしていた?


 彼女と話したい、近づきたい。そして、傷つけたくない。……そう思うのに、獣の自分を制御できない。


 これは、魔物付きのせいなのか、それとも、もともとの人間の自分の欲望なのか。


 わからないまま、ルシウスは自己嫌悪と共に自分のベッドに向かった。

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