ルシウス様の執務室は、あの日以来だった。
散らかっていた書類はすでに当然のように整えられ、整然とした雰囲気だ。
「ここなら暖かい」
暖炉の近くにある、ゆったりとした一人がけの椅子を勧めてくれる。
座ると、座面は柔らかく身体を優しく包み込んでくれる。背もたれがほどよく後方に傾き、自然とゆったりとした気持ちになる。
椅子は上質な布で覆われており、手触りも滑らかで暖かい。肘掛けは広めで、ちょうどいい高さにあるため、重みを預けると心地よい安堵感が全身に広がっていく。
「とてもいい椅子ですね」
「ああ、ここで本を読んで休憩するのが好きなんだ。……自分で選んだものだ」
「この部屋はルシウス様が選んだものばかりなのですか?」
「いや、殆どは受け継いだものだ。だが、この椅子は自分で選んだ。これに座ると気分転換になるんだ」
「そうですね、なんだかわかるような気がします」
重厚なものが多く、歴史を感じさせる部屋。重さと規律を感じるこの部屋の中で、その中で、このひとり掛けの椅子は優しい丸さだった。
ルシウス様が暖炉の光に照らされ、キラキラとして見えた。人間の姿の彼は怖いはずなのに、温かい光に照らされた彼は、同じように暖かく感じた。
ルシウス様は自分は広い執務机に座った。
こう見ると、やはり公爵だという威厳を感じる。
高級な執務室に似合う、見合う人間。
彼の為に作られた部屋だとわかる、部屋の一部であるようなほどに馴染む、高貴な人間。
「紅茶を入れさせよう。……何か飲みたいものはあるか」
「え、ええと、お気遣いいただきありがとうございます。お手を煩わせるのは申し訳ないので、大丈夫です」
「私も飲み物が必要だ。問題ない」
「それならば、ハーブティを。何でもいいので」
「じゃあ、私と同じものにしよう。はちみつはたっぷりだが。言っただろう、甘いものが好きなんだ」
冗談めかしてルシウス様が笑う。そのおかげで、ずっとあった緊張が弛緩したのを感じた。
「ふふ、私も甘いものが好きみたいです。甘いものを飲むと、とてもやさしい気持ちになります」
「ああ、こういう夜にもきっと、ぴったりだ」
……ルシウス様にも、私みたいな夜があるのだろうか。
「失礼します。……わ!」
ルシウス様の呼び出しベルに応えたのは、ルシウス様の従僕であるグライグだった。
彼は落ち着いた様子で部屋に入ってきたが、私を見つけて目を見開いた。
驚いた表情のまま、視線が私とルシウス様を何度も行き来する。
「え、く、クローディア様……え、こんな夜更けにご一緒とは、ええ……?」
「グライグ、カップは二つだ。はちみつたっぷりの、ハーブティだ」
「……かしこまりました」
目をちかちかさせて、それでも優雅にグライグは礼をした。そして、戻ってきた彼は、完璧に冷静な姿で私たちにお茶を入れてくれた。
「じゃあ、そこの本棚にある本は好きに読んでくれ。この左側の棚は執務用だが、暖炉の横は趣味のものだ。好きなものがあるといいのだが」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、微笑んだルシウス様はそのまま机にある書類を読み始めた。
私はハーブティを飲む。優しい香りに、甘いはちみつ。落ち着くような、温かさ。
暖炉からは、パチパチと、薪がはじける音がする。
ルシウス様がカリカリと、何か書類に書いている音がする。静かだけれど、温かな音だけが聞こえる空間。
背もたれに寄り掛かり、私はくつろいだ気持ちで、もう一口ハーブティを飲んだ。
ハーブティーの甘さと暖炉のぬくもりが、心をじんわりと包み込んでくれる。
暖かさは、心の温かさにもつながるのかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がり、ルシウス様の本棚を見た。
ルシウスの執務室にある本棚には、革装丁の重厚な書籍が整然と並べられている。
背表紙には金箔で刻まれたタイトルが規則正しく並び、古い歴史書や魔術に関する研究書、さらには各地の地図や植物学の図鑑など、多岐にわたる分野の本が見て取れる。
どの本も大切に扱われてきた痕跡があり、手に取られるたびに蓄積された時間の風合いが感じられる。
棚の上段には、高貴な装飾が施された分厚い書物が目立ち、長年の知識がぎっしりと詰まった様子が漂っている。
その全てが、彼の知識と教養の深さを物語っているかのようだ。
彼はきちんと職務に向き合っている。
与えられた貴族という地位ではなく。
私がドートン系にいた時は、そんな風に考えられていなかった。どうにか逃げたくて、理解できなくて、理解できないまま知識を詰め込んでいた。
「君が喜びそうな本はなかったかもしれないな」
「いえ、色々な本があって迷ってしまったんです。色々な本を読んでいるのですね」
「そうだな。君の事を、知りたいと思っている。前に植物の本を読んでいたと言っていたな。好みがあったら教えてほしい」
「ルシウス様は……そればかりですね。それに、よく覚えていましたねそんな事。私は本は、あまり持っていなかったので、好みがわかる程読んでいないのです」
あの日から、ルシウス様は知りたいという。そんな事を言われることがなくて、警戒心ばかりだったのに何故か恥ずかしくもなる。
好みがあるかどうかもわからない自分に、どうしていいかわからなくなってしまう。
頬をおさえる私に、ふっと笑ったルシウス様は一つの本を渡してくれた。
「君が教えてくれないのなら、私が教えよう。これは、私が好きな本なんだ。詩集というか、物語のかけらというか、散文ではあるのだけれど何故か好きなんだ」
「……楽しみです」