静かな執務室。
ルシウスは身体の中に広がる不穏な熱を感じ、従僕であるグライグに指示を出した。
メイドや部下たちは出入り禁止になり、最後にグライグが出て行った。持てるだけの重要書類を何も言わずに持って行ってくれる。
自分の魔物付きの症状を理解してくれている、有り難い存在だ。
グレイグが出て行くと、静かな空間が広がった。周りの部屋にも、誰も居なくなっただろう。
安心と共に自分の意識が少しずつ、朦朧としていく。そして、その隙間に獣としての本能や衝動というものが入り込んでくる。
じわじわと、自分がなくなっていくような感覚は慣れるものではない。
「……ぐ……っ」
自分の喉から、獣のような声が漏れる。
身体の中で何かが蠢いて、皮膚の下で膨れ上がっていくのを感じる。骨が軋み、体が無理やり形を変えようとしている。
気持ち悪くて止めたくて、苦しい。
鋭い爪と毛が生えた大きな手が見え、思わず机を叩く。
書類がバサバサと散らばって、先程グライグが重要書類を持って行ってくれてよかったと思う。
……まだ、ちゃんと考えられる。大丈夫だ。
自分の力では、この変化を抑え込むことはできない。
こんな風に、自分の意思とは関係なく魔獣になるのは嫌だ。絶望感が襲う。
絶望の隙間に、獣がさらに入り込んでくる。
目の前にあるのは、無限に続く黒い闇だ。その奥に潜むのは理性のかけらもない、本能に支配された魔物。
手を伸ばそうとしても、闇の中に自分の身体が沈んでいく。
「ぐぅぅ……た……」
助けてくれ、と言いそうになって飲み込む。
助けを求めては殴られた記憶が、ぐっとルシウスを押しとどめた。恐れを口に出すこと、人に弱みを見せる事、それをすれば容赦なく叩かれ、捨てられる。
わかっている。
変化が終わりかかっている。
結局また制御は出来なかった。
大きな爪を、逆の手に刺す。皮膚に穴が開き、血が流れ出る。痛みで、感情がはっきりと輪郭を取り戻す。
「……俺は、大丈夫……大丈夫だ……」
はぁはぁと聞こえる自分の息遣いが獣のそれだ。
戦場は今のむしろ自分にとって楽園だ。
戦場に今すぐ飛び込みたい。大きな爪で抉り取り、噛みついて、何もかもを、壊してしまいたい。
「……」
駄目だ。ここは執務室だ。
以前よりも、制御が効かなくなってきている気がする。
理性を失い、魔物になり周囲を壊してしまうのは時間の問題かもしれない。
その時が来たら、自分はいったいどうすればいいのだろう。
魔物になってしまう前に、いっそ……。
『魔物になったからなんだというのだ。ルシウス、必ず家の為に尽くせ。それだけがお前の役割だ。絶望などという無駄な事は、馬鹿がすることだ』
自分が本当に人間なのか、魔物なのか、その境界がどんどん薄れていく。
魔物になって、暴れてしまえればどんなにいいだろう。
甘い魅力的な考えに、負けそうになる。
思った以上に限界は近づいているのかもしれない。
「失礼します! クローディアです。何か問題がありますか、大丈夫ですか」
「……!」
どうしてここに、彼女が。
一瞬飛び掛かりたい衝動にかられたが、何とかこらえる。
返事をしようと思うけれど、上手く言葉が出てくるかわからない。獣のような声が出たら、終わりだ。
この婚姻を続けることはできないかもしれない。しかし、無理に王族と結婚させられこの体質が知られれば、色々不利になる可能性が高い。
クローディア。家の為に売られてきた女。
いくら人外公爵だと言われて来たとしても。ましてや彼女の結婚は義母によるものだろう、どこまで納得しているかわからない。
逃げられないのと、精神的に無理なのとは、関係があるようでない。
心が追いつかないなんて事は、ままあることだ。最悪、心が壊れてしまうかもしれない。
母のように。
そんな風に考えているうちに、あっという間に彼女は中に入ってきてしまった。
驚きの表情の後に、何故か彼女は近づいてきた。
「もしかして……ルシウス様……?」
驚きに目を見開き、嫌なものを見るように目を眇めた。
慣れたことだ。
「魔物付きとは、こういうことだったのね……」
彼女の心に浮かんだのは、自分と似たような絶望なのだろうか。