美しい黒い魔獣は、ふと笑ったように思えた。
「この姿でいることがもう、気分が悪い。自分が自分じゃないようだ」
「そうだったのですね……」
苦しそうなのは、そもそも魔獣でいること自体らしい。とんだ勘違いだった。
「なんだ」
「いえ、少し気になる事があって」
「……聞こう」
許可が下りてしまった。
……普段から感情の色が見えることは、言わない方がいいだろう。半分ぐらい隠して伝えることにした。
「先ほどから、何故かルシウス様に渦のようなものが見えます。……私が回復魔法をかけた時、その渦が少し弱まったように思えたのです」
ルシウス様は私の言葉に、ぐるると唸った。たまに魔獣だ、と呑気な事を考えていると、ルシウス様は私の身体に手を置いた。
ふわりとした毛が、私の肌をくすぐる。
肉球は硬い。クリームを塗りたい。
家の屋敷に住み着いていた野良猫を思い出す。彼女はとても要領がいいようで、丸く太って毛艶も良かった。けれど、肉球だけはかさかさとしていて、たまにクリームを塗っていた。
思い出して、懐かしい気持ちになる。
彼女は私が居なくても、何も変わらないだろう。
けれど、彼女は私の気持ちを癒してくれていた。
「……何を考えてる」
「家に住んでいた猫の事を」
突然の質問にそのままを返せば、機嫌が良さそうに喉が鳴った。
「ドートン家の娘は度胸があるな。……魔獣を前にして、別の考え事など」
「も、申し訳ありません」
「いや、いい。普通の令嬢なら魔獣など怖くて動けなくなると思っただけだ」
「……私は、人間じゃないならその方がむしろ……」
「なんだと?」
「なんでもありません。回復魔法をかけさせてもらえませんか? 健康な人に回復魔法をかけると問題はあるでしょうか」
「私の状態が健康だとはわからないが、大丈夫だ。……いいだろう」
「ありがとうございます」
私は先ほどと同じように回復魔法をかけた。
私の魔力は多くないらしいので、渦が酷い所を中心にかける。
三回ほどかけたところで、全体的な量がかなり減った気がする。
続けて強めに魔法を使ったからか、徐々に身体から力が抜けていくのを感じる。
身体の芯から温かな何かが抜け落ちたように、指先から冷たく痺れるようになってきた。頭の奥がぼんやりとし、視界が少し霞む。
もし立っていたら、きっと倒れていただろう。床に座っていて本当に良かった。
息を吐いて、ルシウス様を見る。相変わらず感情の色は見えない。
「……何か、変化はありそうですか?」
「……自我を保つのがこんなに楽だったのは初めてだ」
「やっぱり、何か悪影響のあるものだったのですね、良かった」
少しは役に立てたようだ。
「お前も無理をしたのではないか?」
静かな言葉は、私の事を心配してくれているのかもしれないと思わせる。
黒に金色は、とても綺麗だと思う。
その瞳が細められるのは、なんだか心が落ち着かないのにすんなりと受け止められた。
しかし、私が勝手にしたことだ。
「いえ、大丈夫です」
「……寄り掛かっていい」
「えっ」
「大丈夫だ。……兆候があったから、ここには人は来ないようにしてある」
私が気になったのはそこではなかったけれど、ルシウス様の太い手が私の肩を押し私はお腹のあたりに倒れ込んだ。
「わっ」
もふもふの毛に埋もれ、その柔らかさと温かさが気持ちいい。
「……ゆっくりしていい。クローディア、私達は夫婦なのだから、見られても問題ないだろう?」
「もう、ルシウス様……!」
先程私が夫だとからかった仕返しだというように、いたずらっぽい声で楽しげに言われてしまう。
「この姿でこんなに寛いだ気持ちになるのは、初めてだ」
ルシウス様のお腹がゆっくりと動いていて、私もくっついていると安心感がある。信じられないように呟いた言葉は、私にも当てはまる気がした。
こんな風に誰かといてゆっくりとした気持ちになるのは、初めてだ。
「……クローディアは、この姿の方が安心するのだな」
その声には咎めたり責めたりする色がなかった。だから、私はそのまま頷いた。
ルシウス様は、何も言わなかった。
外は薄暗く、黒い大きな魔獣は現実感が薄くてまるでここだけ切り取られたかのようだ。
静寂が、心地いい。
どれぐらいそうしていただろうか。
「クローディア……」
優しく名前を呼ばれ、ルシウス様を見る。こんな風にのんびりと過ごしてしまった事に驚いた。
「すいません。もう大丈夫です」
「いや、いいんだ。……もう、戻れそうだ」
ルシウス様は私を器用に起こすと、息を吐くようにゆっくりと姿を元に戻していった。毛むくじゃらだった手が人間の形に戻り、荒々しい爪も消えていく。
「あっ」
私は慌てて目を押さえて後ろを向いた。衣擦れの音がして、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「ああ、もう大丈夫だ」
ルシウス様の呼びかけに、私は振りかえった。
そこには黒髪で金色の髪をした、人間のルシウス様の姿があった。
……元に戻ったのね。
ほっとしたと同時に、警戒心のようなものが自分の中に浮かんでくるのを感じた。
夢から覚め、急に冷たい現実に引き戻されたような感覚だ。
ルシウス様はやはり人間だなのだ、という思いが頭をよぎる。
先程までの静寂と温かな空気はあっという間に霧散した。
ルシウス様は筋肉質の体を、マントを腰に巻いて隠している。
それでも、鍛え上げられた上半身はそのままだ。
「……着替えのお手伝いをさせていただきます」
このままというわけにはいかないだろう。
幸い私はメイドとして暮らしてきた為、着付けには問題ないはずだ。
一礼して後ろにある服をとりに行くと、ルシウス様は無造作にそれを受け取った。
「問題ない。私は騎士だ、ひとりで準備ぐらいはできる」
「えっ、で、でも……」
仮にも公爵様なのだ。私が居て一人で着替えをしていただく事など許されない気がする。
戸惑う私に、ルシウス様はにやりと口角をあげた。
「私の身体をみたいというのなら別だが」
「わっ、ま、まさかそんな!」
「じゃあ、大丈夫だ。……まずは部屋に戻れ。夕食は一緒に取ろう」
優しい口調のルシウス様は先ほどの魔獣と同じ空気をまとっていた。少しだけ、緊張が解ける。
「……わかりました」
「じゃあ、また後で。……どうした?」
「……部屋の場所がわかりません」
迷子だったと正直に告白すれば、ルシウス様は可笑しそうに笑い従僕を呼んでくれた。
すっかり忘れていたけれど、従僕はお水も用意してくれた。