じゃらじゃらと煩わしい拘束具の音が、やけに良く聞こえる。
錆びた鉄と腐臭と濃厚な死の匂い。
赤と橙色の絵具をぐちゃぐちゃに混ぜた様な夕暮れ。
なにが足りなかったのだろう?
どうしてこの結末になってしまったのだろう?
ぽろぽろと視界が歪んで、胸が痛かった。
この結果の特異点となったのは、おそらく──三年前。
「エルドラド帝国皇太子ヴィンセント・シグルズ・ガルシアは、アイシャ・キャベンディッシュと本日をもって婚約破棄をここに表明いたします」
魔法学院の卒業式の際、正義を振りかざす神の御使いの如く──彼はそう宣言した。
金髪の長い髪、
ステンドグラスから差し込む光すら彼の味方のようで、私にとっては絶望と同義だった。
「ヴィンセント殿下、このような場で何を──」
「黙れ! 私の妻となる者ならば、控えめで自分を主張せず、男を立てる──それこそが公爵令嬢ではないか!?」
彼が有能であればそうしただろう。皇太子としてなんら問題ないなら、口出しはしなかった。けれど眼前の男はあまりにも次期皇帝とするには未熟過ぎた。
「御冗談を。殿下に対してその様な方が婚約者、引いては次期皇妃となるのでしたら、この国は滅びるしかありませんね」
「──ッ! やはりお前などが聖女であるわけがない。お前は強大な力を持つ悪女だ」
(自分の言いなりにならないイコール悪女とは……)
「お前の悪運もここまでだ! お前の妹、リリーにも聖印がある。彼女こそがこの国の聖女、そして私の妻に相応しい!」
「ヴィンセント様」
「ああ、愛しいリリー」
呼ばれてもいないのに義理の妹リリーは、壇上に上がっておりヴィンセントの腕の中に顔を埋める。
もうそういうのは、他所でやって欲しい。この国の恥を他国に見せないで。こんな時、皇帝陛下が健在だったら……。
皇太子に賛同する者は、後を絶たなかった。教会側ですら、私が聖女として不適切だと説く。そこに私の味方は誰もいない。
私のために声を荒げてくれる人も、庇うものもいなかった。無理もない。私の味方は、既にこの世に居ないのだから。
「さよう。今ここでアイシャ殿の聖印を、本来の持ち主であるリリー殿に献上することこそ、女神ブリガンティアの望みなのです」
高らかな声を上げて賛同するのは教会の上層部の一人、ケニス大司教──いや、少し前に
「……ケニス枢機卿」
「さあ、ここで聖女の証を返却くださいませ、アイシャ殿」
「それだけでは足りん! 我がキャベンディッシュ家に泥を塗った責任として、アイシャ=キャベンディッシュを国外追放、その身分も剥奪を言い渡す」
今度はキャベンディッシュ公──私の父が壇上に姿を見せる。まるで三文芝居のように必要な
ヴィンセント皇太子の最後の慈悲というべきなのか、国外追放は免れた代わりに魔物が多い辺境の地で静かに暮らすことになった。
聖女の力を失っても、私の手元には《審赦の預言書》は残っていた。焼いても、川に沈めても手元に戻ってくる忌まわしい本。
未来を変えることを諦めても予言は書き足され、ページを埋めていく。
辺境の地での生活は静かで平穏な日々だった。亜人族の子たちとも仲良くなり、少しだけ生活が楽しく思えた。聖女として魔物討伐など、野宿や旅をしていた経験もあって、公爵令嬢よりも庶民に近い暮らしを短期間でもしていたのが良かったのかもしれない。
預言書に書かれた未来を変えようと足掻いた十代だったけれど、
未来を変えようなんて考えを捨てた。出来るだけ静かに、生きようと。
そう、誓ったのに──。
それから三年。
魔物の大軍が侵入すると、私が彼らを手引きした《裏切りの大魔女》として
預言書のことを秘密にしていた罪。
黙秘して平穏に暮らしていた罪。
後から私を悪者にする材料ばかり積み上げていく。悪役令嬢という不名誉な配役の次は《裏切りの大魔女》だというのだから笑ってしまう。
なら……どうすればよかったのよ。
じゃらじゃら、と金属音が私を現実に戻す。
逃げ出す気力も残っておらず、ふと顔を上げると──処刑台に不吉な二本の柱とその間に吊るされた刃が、鈍色に煌めく。
その傍には首を吊るされた者たちがいた。周囲の木々に吊るされた彼ら、彼女らは私と同じく罪を押し付けられた者たちなのだろうか?
それとも?
石畳に赤黒い血がこびりついていて、少し前に誰かが命を落としたことが容易に分かった。
ぬるりとした足元の感触。
ごとりと転がってきた丸い物体は、見慣れた──あの人、ヴィンセントの顔だった。