「白石テメゴラァ!」
福岡部長の声がして、わたしはあえて後ろに首を回す。
呼ばれてるよ、そう言いたげな感じに振り返るのである。
「お前だよ」コンマ0.2秒の間を空け「なめくさっとんか!」と怒鳴る。
あぁ、わたしだったわたし。そんな風にバカな振りして、部長のデスクに歩み寄る。
「はい」
「遅れてんのになんもなしか」怒鳴り声とは打って変わって、平坦な口調。
「あ、遅延証明あるんですよ、あっちの財布に――」
「天才キタコレェ!」嫌味たっぷりに大声で言う「多少の遅延は予測して会社こいっての! あァ!?」
「えぇ……そんな、わたし預言者じゃなくて、その――」
「そうだそうだ、お前は預言者じゃない」と、部長は一旦声を落とす。そして怒鳴る「でも社会人だろがァ! 学校じゃねんぞ、ねえんだぞオゥラァ!」
はい、すいません。仰る通りです。
「なんやこいつ」
つい逆になった。
「あ?」部長は顔をしかめる。まぁ聞こえたよないまの。「おぉうんわかった。ちょいこっちで話すか」
かしこまりました。
「かしこまりました」
ちゃんと言えて、偉いわたし。今日はちゃんと服を着た、ちゃんと電車に乗った、ちゃんと起きた。健やかにのびのび育ってきた。
それだけで偉いわたし。だから二人っきりで褒められるに違いねェ。
そう必死に思い込む。
帰宅途中の電車。つり革が自殺用のロープ染みてて、それをブラックジョークだななんて思う余裕もない、ない、ない。
こんな発想みんながしてんだろうなと失望して、くっさい溜息ついこぼす。
誰も行動に移さないのは輪っかの直径が小さすぎるからで、そこで死のうとするのは猫くらい。
100万回生きた猫が死ぬのに飽きて、面白い死に方を模索した挙句やっと見つかるその方法。
だけど試しに頭を通してみようと思ってつり革を掴む。
爪先立ちして、頭の上にあてがうつり革。やっぱり通らない。
夜のガラス窓に映る自分がバカに見える。でもバカは同時に頭の輪っかで「天使っぽいな」と思いつく。
水を得たバカはとどまることを知らない。
帰りの電車を行きの電車にしよう。そう思ってそのまま会社へ引き返す――。
「もしもし、白石です」
「あぁ、なんだこんな時間に」
不機嫌そうな部長の声。
「誰も会社にいないんですが」
「はぁ?」
「ですから、誰も会社にいないんです」
「いま、会社にいんのか?」
「はい」数秒の沈黙「もしもし――」
「クソかよ」
「恐れ入りますが、今日部長が仰った通りに遅延を考慮し出勤した次第でございます」
部長の叱責をわざと真正面から受け止めて、嫌味たっぷりに行動に移したわたしだった。
「お前……っ! バカ、クソっ……! お前なぁ! イカれてんのか?」
「とおっしゃいますと」
「どこから! 言えばいい! クソっお前っ!」
効いてる効いてる。最高に気分がいい。わたしは追撃の手を緩めない。
「ですが部長に言われた通り来ました。なんです? あぁ待ってください、なんか見えます。部長のデスクでなんか男女がエッチな雰囲気になってて――あぁ、あれ部長のブスな奥さんですわぁ。不倫相手は中村課長ですねぇワオ」
しばらく無言が返ってくる。
「部長? もしもーし、部長ぉ聞こえますかー?」
「度胸だ」
「なんですか?」
なんかわけわからんこと言っとる。
「その度胸、そして従順さ、向上心。認めざるを得ない。昇進だ」
は?
「は?」
「わたしは、君のような人材を待っていたのかもしれない」
「なにいうてんすか」
「明日、書類を渡す。君さえよければ、ぜひよろしく頼む」
「まじかよ」
翌日、わたしは課長になった。
世界も社会も素晴らしいほどバカバカしい。
妙に腑に落ちたわたしは、せっかくなら社長の座を狙おうと思った。