フラフラと庭園を歩き、どこを歩いているのかわからなかった。
私はどこへ向かってるんだろう。
会場へは戻りたくない。
けれど、お兄様と来た馬車にも戻れない。
1人だけで帰るわけにはいかない。
どうしよう……帰る時どんな顔すればいいの。
歩き疲れて、私は座り込んだ。
今見てしまったことが、夢ならいいのにと思っても、引き裂かれそうな胸の痛みがこれは現実だと知らせてくる。
そして地面に手をつき、涙をながしていると、
――お酒の匂いがした。
「ご令嬢、どうしました? 足でもくじきましたか?」
その声に顔を上げると、襟元が緩んだ知らない令息が立っていた。
こんな時なのに、トラウマスイッチが入り、私は震えた。
涙で喋れない私は、首を横に振った。
「……腰が抜けてませんか? ふふ。どうやら今夜は運がいい。こんな可愛らしい令嬢との出会いがあるなんて」
「……っ!?」
そういうと、令息は私を抱き上げた。
……お酒臭い……!
先ほどからのショックと、トラウマで喋れない私は叫ぶこともできず、令息に連れ去られる。
ギイ、とドアが開く音がして、どこだかわからない部屋へと連れ込まれ、そこにあったソファに押し倒された。
「――美しいレディ。良ければお名前をお伺いしたいですが……それよりも――」
「ひ……」
男性は手袋を捨てると、その手で私の頬を撫でてきた。
部屋は薄暗く、男性の顔が分かりづらいせいか、あの幼い頃遭遇した貧民街の男性の顔が重なる。
「震えているのですか? ひょっとしてデビューしたてのご令嬢ですか? 大丈夫ですよ、一緒に楽しみましょう」
その頬を撫でた手が、移動し、首筋に触れ、ゾクリとし――私は叫んだ。
「ジョエル……っ!!」
叫びながら、喋れないと思っていたのに、ジョエルという言葉だけは発声することができるのだ、とぼんやり思った。
――そして、すぐに傍でジョエルの声がした。
「――はい」
「ぐぅっ……!?」
淡々とした返事と、ボコッと何か殴打されるような音がしたかと思うと、私の上に覆いかぶさっていた男性が、床へと転げ落ちた。
「え……」
「え、じゃありません。なにやってるんですか? デビュー早々、酒飲み令息に襲われるとか馬鹿なんですか? 今まで何を勉強してきたんですか。パートナーなしに、夜会の庭に出るなんて、なんて危険なことを。ついでにいうと呼べばすぐに駆けつけられる護衛の私を忘れたんですか? 押し倒される前に呼んでくださいよ」
手をパンパン、と払うジョエルが、直ぐ側に立っていた。
「ジョエル……」
ジョエルが傍にいる、と思うと安心して普通に声が出た。
「だから、はい。ってさっきも言いましたよ」
「……私、今日デビュタントなの」
ジョエル相手だと、喋れた。
「知ってますよ。だからこの会場へ来たんでしょう。……そういえば、レイブン様はどちらに。まったくレイブン様にも迷惑がかかりますよ。この男が目を覚ます前に早くここをでま……」
私を心配する言葉は一つもなく、相変わらず辛辣なのに、悲しいことに彼がいると、私は安堵してしまう。
けれど、それと優しい言葉をかけてもらいたい気持ちは別だった。
いつも言いたくて、でもどうせ突っぱねられるだろうと思っていた言葉を口にした。
「特別な日なの。お願いだから……今日は優しい言葉をかけて、欲しい……」
「……どうしたんですか」
私の様子がおかしいと気がついたのか、ジョエルは私の傍で膝を折った。
「この男に、先ほど以上のことを、されましたか?」
私は首を横に振った。
「頬と首筋に触れられただけ」
「そうですか」
ジョエルはそう言うと、ノビている令息の股間を無表情で蹴った。
「うがぁえああ!?」
……。
気を失っていた令息が床の上で前かがみになるのと同時に、ジョエルは私を抱えあげて、闇属性テレポートで、どこか違う部屋へと転移した。
「――適当に転移しましたが、この控室は空いているようですね」
そういうと、ジョエルは私をソファへ降ろした。
控室の中は、先程の部屋と違って十分な明るさがあった。
「たいして触れられてないのに蹴らなくても良かったんじゃ……」
「――本気でそれ言ってますか?」
ジョエルの声には苛立ちがにじんでいた。
「わかってますか? あなたはヤリ部(べ)……いや、空き室に連れ込まれて、男に覆いかぶさられてたんですよ? テレポートしてすぐに目に入った光景で、自分の主がそんなことになっていたオレは相当に不快なわけですが」
「……ごめん」
言い返す言葉が見つからなかった。
「護衛に謝る必要ないですよ。いつもみたいに言い返したらどうなんですか……お嬢様?」
結局は優しくしてくれないけど、いつもと変わらないジョエルに日常を感じ、私は力なく笑ってそのまま黙った。
何か言い返したいのは山々だが、そんな気力はいまなかった。
しばらく、無言が続いたあと、ジョエルは私の手を取った。
私の手はガクガクと震えていた。
「……すみません。さすがに……オレがあなたを責めて良い場面ではなかった」
いや、あなたが私を責めることがデフォルトになってるのがおかしいんですけどね、といつもなら言い返すんだろうなぁ、と思いながらぼんやりジョエルの顔を見るにとどまった。
ジョエルが珍しくあせった顔になった。
「――駄目です、お嬢様。何でも良いから無理矢理喋ってください。いまここで、気持ちに負けたら言葉を失いますよ」
私の頬をペチペチする。痛い。
ああ、そうだね。
ジョエルの言う通りだ。
だからってちょっと、強く叩きすぎよ。
「何でも良いから気分を変えましょう。……何か飲み物を貰ってきます」
私はジョエルの服の裾を引っ張った。
「いらない、傍にいて」
そう言ったけど、ジョエルはテレポートを使ってどこからか水の入ったコップを持ってきた。
気が利いてるけど、つくづく私の言う事を聞いてくれない護衛だ。
「飲んでください。声がかすれてます。……それで、何があったんです。レイブン様といらっしゃらなかったんです。はぐれたんですか? てか、喋れます?」
私は水を一口飲んだあと、口を開いた。
「……ジョエルは、前に何度か、私がレイブンお兄様と婚約するのは、やめたほうがいいって言ったよね」
「そんなこともありましたね」
「その通りだったわ」
私はまた溢れた涙を拭った。
「お嬢様、まさか」
「テレジアお姉様と、レイブンお兄様が、庭園で思いのたけを伝え合っていらっしゃったのを見てしまったの。お兄様はお姉様に結婚を申し込んでいたわ」
「――すみません。もっと婚約に関して強く止めていれば、良かったですね。二人が思い合っているのは気がついてましたが、なにぶん人の心のことですので不確かなことを明言するのは控えてました。お嬢様とレイブン様がうまくいくなら、言う必要もありませんしね」
ジョエルが珍しく心配そうな顔をしてくれた。
「ううん、きっと私も耳を貸さなかったと思う……。そうだね、うまくいけば、ね。でも……なんか、当て馬になっちゃったね。ふふ」
「……お嬢様」
ジョエルが、私の横に座り、肩に手を回したかと思うと、抱きしめてくれた。
え……。
「なんですか、その意外そうな顔は……。まあいいですけど。男で護衛のオレがこんな事するのはどうかとも思いますので、とりあえず今はオレのことは侍女だと思っててください」
私はちょっと吹き出した。
「やあね、そんなの無理に決まってるじゃない」
「その調子です」
そう言って、ジョエルは頭を撫でてくれた。
今宵は嘘のようなことがたくさん起きるな……と思った。
私は思い切って言った。
「ジョエル……抱きついて、良い?」
こんな甘えたことを言ったら、やっぱり怒られるかも……と思ったけれど、今日のジョエルは優しかった。
「オレはあなたの護衛……じゃなかった、侍女ですので、ご自由に」
「へんなの……。ほんとにあなた、おかしな人よ」
私はジョエルに抱きつくと、しばらく嗚咽を上げて泣いた。
こんなに泣いたのは子供の時以来だった。
大丈夫、ジョエルが傍にいてくれれば、私は大丈夫……だ。