ルシアンもホッとした表情を見せると、ジャスティーナを膝から降ろした。
「ジャスティーナ、そろそろ学舎の方に戻ろう。黒竜騒ぎからだいぶ時間も経ってる。そろそろ落ち着きを取り戻した者達が動き出してくる頃だ。教師達が生徒の確認をしているかもしれない」
「ええ、そうね」
ルシアンは先に立つと手を差し伸べる。
彼に手を引かれ、ジャスティーナもゆっくりと立ち上がった。
再度、毛先を確認してみる。
(髪の色は大丈夫。それに今後、もしもの時のために小さな手鏡でも常に持っておこう)
自分では見ることのできない瞳を確認するために。
ジャスティーナは自分の服も見下ろした。ところどころ制服と靴が土で汚れている。全速力で森の中を走ったり姿勢を低くして這いつくばったり、さらに言えば魔族の森では岩の上に横たわっていたので当然だ。
「こんな汚れた姿でルシアンの膝の上に乗っていたのね。本当に申し訳ないわ」
ジャスティーナはルシアンの制服に汚れをつけてしまっていないか確認しようとしたが、すでに彼は何でもないように自分の服の土埃を手で払っている。
「これぐらい何ともないよ。さあ、戻ろう」
ルシアンに促されたジャスティーナは、急いで自分の服の土埃を払うと、彼と一緒に学舎の方へ歩き出した。
◇
二人が学舎に戻ると、講堂や近くの廊下にも大勢の生徒が集まっていた。ジャスティーナは汚れた制服姿の自分が浮いていないか気になったが、逃げる途中で転んでしまった生徒も多くいたので、さほど周囲の注目を集めなかった。
「ジャスティーナ! ルシアン!」
遠くで名前を呼ばれ、振り返るとヒューバート王子が駆け寄ってくるのが見えた。
「君達、無事だったんだな。良かった」
「はい、殿下もご無事で何よりです」
ジャスティーナはヒューバートの元気な様子を見て安堵した。
「ずっと探していたんだぞ。森に消えていったきり姿が見えなくて。どこに行っていたんだ?」
「ええと……」
「あの黒竜は君のあとを追っていったように見えたんだが。遭遇しなかったのか?」
「は、はい……」
ヒューバートはその見目麗しい容姿で良くも悪くも周囲の目を惹きつけてしまう。そのため、彼が話しかけているジャスティーナにも、自然と大勢の生徒からの視線が集まった。
「黒竜が恐ろしくてずっと森の中に隠れていたんです。そのうち、黒竜はどこかに飛んで行ってしまって。私は腰が抜けてしまって、立ち上がれずにいました。そこにルシアンが来て、助けてくれたんです」
ジャスティーナは神妙な面持ちで語った。これは、学舎に戻りながらルシアンと考えた言い訳だ。
「そうか、それは怖い思いをしたのだな。しばらく休むがいい」
「はい、お気遣いありがとうございます」
「ああ、今すぐにでも私が慰めてやりたいのだが……それは今度、番犬がいない時まで取っておこう」
(番犬?)
ジャスティーナは首を傾げると、ヒューバートは片手を胸に当て、上体を前に少し傾けた。
「ジャスティーナ・ラングトン嬢。この度は助かった。礼を言う」
「あ、あのっ……」
周囲がシンと静まる。
ジャスティーナは慌てた。まさか王族に頭を下げられる日が来ようとは思ってもいなかった。
「で、殿下、どうか頭を上げてください」
でないと、ずっと注目されたままだ。
「いや、君は私の危機を救ってくれた恩人だ」
「大袈裟です。あの時は咄嗟に身体が動いただけですので。殿下も逃げ遅れた人たちを助けようとなさっていたではありませんか」
ヒューバートはようやく上を向く。
「王族として当たり前のことをしたまでだ。とにかく君は私の救世主だ」
そう言いながらジャスティーナの手を握ろうとしたが、それは叶わなかった。すかさず彼女の腰をルシアンが引いたからだ。
「フ、まあいい。これから君のことは私の女神と呼ぼう」
「……め、めが……?」
ジャスティーナの口から間の抜けた声が出る。するとヒューバートが周囲に向かって声を張り上げた。
「君の雄姿を見た者も大勢いる。なあ、皆もそう思うだろう?」
「え、なっ⁉」
ジャスティーナが狼狽えていると、ヒューバートの声に応じるように生徒たちが集まってきた。
「すごい、あんな状況で殿下をお助けするなんて」
「私は遠くから見ていることしかできませんでしたもの」
「恥ずかしながら僕もです……!」
(こんな変な目立ち方したくないのに……!)
戸惑うジャスティーナの気持ちをよそに、どんどん人が集まってくる。
すると、その時ガランガランと大きな鐘の音が響いた。
「今から皆さんの安全確認を行います。講堂へ行って名前を言うように」
教師と思われる女性の声が聞こえる。
皆が講堂の方へ足を向け始めたので、ジャスティーナはやっと群衆から解放された。
◇
今日はひとまず各自部屋で待機となった。
まだ授業が安全に行えるという確証がないからだろう。昼食と夕食の時間はあとから随時通達があるそうだ。
ルシアンは自室に戻るなり、ベッドに突っ伏した。
(ジャスティーナが無事で良かった。でも、まさかあんなに髪と瞳の色が変化しているとは)
癒しの力を最大限に引き出し、全てを彼女に注いだ。そんなことをしたのは初めての経験だったので、今までにない疲れが一気に押し寄せてくる。それをジャスティーナに悟られないように、ほぼ気力だけで身体を支えていたのだ。
(これからも、こんなことが起こるかもしれない)
彼女の身体の変化は、闇の力を使った影響だろう。
(不本意だが……あの人に頼むしかないか)
ルシアンは重い身体を起こすと机に向かう。引き出しから便箋を取り出して、ペンを走らせた。
◇
その頃、自室に戻ったジャスティーナもルシアンの身を案じていた。
(今日は今まで以上に無理をさせてしまったわ)
本当は立っているだけでも辛かったのではないだろうか。だが、彼にそれを尋ねたところで、いつもの穏やかな顔で『大丈夫』と言われるに違いない。
ジャスティーナに心配をかけないように。
(今後のためにも、ルシアンに負担をかけないためにも、私が自分自身の力を制御できるようにならなくちゃいけない)
いつまでも甘えてばかりはいられない。ジャスティーナは固く決心した。