「ジャスティーナ、ひとまず髪をローブの中に隠そう!」
ルシアンは急いでジャスティーナのローブの首元を緩めると、その中に彼女の長い金髪を押し込んだ。
周囲では次第に起き上がれるようになった者から、たちまち悲鳴を上げて慌てて走り出していく。
「安全な所まで俺が君を運ぶから、瞳を閉じていてくれ」
「え、そんな……手を引いてくれればそれでいい──」
ジャスティーナが言い終わらないうちに、背中にルシアンの腕が回され、膝裏に手が差し込まれた。
フッと身体が地面から浮く。
「大丈夫、これでも日々鍛えてるから」
自分を軽々と抱き上げるルシアンの力に、ジャスティーナは驚いた。
そのままルシアンは走り出し、ジャスティーナは目を閉じて彼の胸元のローブをぎゅっと握り締める。
黒竜のことは気になるが、自分の身体に変化が起き始めた今、ひとまずこの場を離れて安全な場所へ身を隠す方が先決だ。
「早く、全員建物の中へ!」
聞き覚えのある声が聞こえてきて、ジャスティーナはルシアンの肩越しに薄っすらと目を開けた。
長い銀髪を後ろに束ねた男子生徒が、逃げ遅れた他の生徒を手助けしているのが見えた。
(あれは、ヒューバート殿下……!)
さらに黒竜を囲むようにして深緑のローブを身に付けた人影が複数立っている。学院の教師陣だ。
彼らは黒竜へ手をかざすと、各々の魔力で炎の塊を出現させた。そして次々と黒竜へ火球を放っていく。
グオオオオ……と黒竜は吠えながら、二、三歩後退した。
「邪悪な化け物め。もうすぐ宮廷魔術師団がやってくる。もうすぐ息の根を止めてやるからな!」
ヒューバードは笑いながら黒竜に向かって叫ぶ。
すると、怯んでいたかのように見えた黒竜が急にカッと目を見開き、地面を踏み鳴らしながらヒューバードに突進してきた。飛んでくる火球攻撃をもろともせず、ヒューバートの頭上で片足を上げる。
(危ない!)
ジャスティーナは黒竜へ向かって手を伸ばした。
(止まりなさい!)
すると、黒竜の足の動きがピタリと止まった。
「殿下、お逃げください!」
ここで攻撃を止めるわけにはいかないと思ったのか、教師の一人が叫ぶ。
だが、ヒューバートは先ほどまでの威勢はどこへやら、微動だにせず直立したままだ。おそらく恐怖で身体が動かないのだろう。
もし少しでも黒竜が動き出せば、彼はそのまま踏み潰されてしまう。
「ルシアン、下ろして!」
ジャスティーナは叫んだ。
「何言ってるんだ!」
「あの竜は私の言うことなら聞きそうなの! だから私が引きつけるわ!」
ジャスティーナはルシアンの胸をグッと押しのけた。走りながら急に無理な体勢になったことで、ルシアンの腕の力が不意に弱まる。ジャスティーナはすかさず身を捩(よじ)ると、強引にルシアンの腕から逃れ地面に着地した。
「ジャスティーナ!」
「ルシアンは安全な所に逃げて!」
振り返らずに言い放つと、黒竜の方へ向かって全速力で走り出す。
「殿下!」
ジャスティーナはいまだに動けないでいるヒューバートの横に回り込むと、彼を思いきり突き飛ばした。
その勢いのまま、彼は地面に尻もちをつく。
「私はここよ!」
ジャスティーナは黒竜を真っすぐ見上げた。黒竜も赤い目をギョロっと動かして、目の前の少女を見下ろした。
緊張感で空気が張り詰める。
しばらく間が空いて、黒竜はゆっくりと足を下げた。
「こっちよ!」
ジャスティーナは左方向へ走り出した。その先には学院を囲む広い森が広がっている。
背後ではぶわりと黒竜が翼を広げる気配がした。
息を切らしながら、森の奥へ向かって走り続ける。
「ジャスティーナ!」
後方からは追いかけてくるルシアンの声が響くが、振り返る余裕はない。
時折、上を見て黒竜が自分についてきているのを確認する。
全速力で走り続けたが、どれだけ学院から距離を取ることができただろうか。
「ハァ……ハァ……」
肩を大きく上下させながら走るジャスティーナの体力は、限界に近づいてきている。
やがてスピードが落ちたところで、ルシアンに追いつかれた。
「ルシアン、逃げてって……言ったのに……」
「この状況で俺が君を置いて、一人だけ安全な場所に行くわけがないだろっ!」
次の瞬間、黒竜が低空飛行をし、ジャスティーナに迫ってきた。
ルシアンが咄嗟にジャスティーナの身体に飛びつき、共に地面に転がったことで、強靭な黒竜の爪を回避した。
二人同時に慌てて身を起こすが、再び黒竜が目の前に迫ってくる。
ジャスティーナはルシアンを背に、黒竜に向かって両手を広げた。
「だめ、この人には傷一つ負わせないで!」
力強い眼差しで、黒竜を見据える。黒竜はバサバサと羽ばたきしたまま、空中に留っている。
「ここ数日、私を見張っていたのもあなたなのでしょう? 私が狙いなら、私だけでいいはずよ」
「ジャスティーナ!」
咎めるような鋭い声が背後から聞こえるが、ジャスティーナはそれに応じない。
黒竜は低空飛行でゆっくりジャスティーナに近づくと、前足で彼女の身体をさっと掴んだ。
ルシアンが伸ばした手は空を切る。
黒竜はそのまま急上昇して、空へ舞い上がった。
「ジャスティーナ!」
「ルシアン……!」
ジャスティーナが呼んだ時には、すでにルシアンの姿は森の木々に覆われていて、見えなくなっていた。
◇
灰色の空の下、黒い竜が大きな翼を広げて飛んでいた。
よく見ると、その背には誰かが乗っている。
若い女だ。
整った顔立ちにはどことなく気品が漂い、涼し気な目元は凛としていながら、ほのかに成熟した女の色香を醸し出している。
それだけを見れば間違いなく美人の部類に入り、決して男たちに放っておかれるような存在ではないだろう。だだし、人間であるならば。
その女は明らかに魔族の者だった。艶やかな闇より深い漆黒の長い髪、血のように赤い目。そして、その頭部の左右からは黒くねじれた角が生えている。
空を自由に楽しんだ後、魔族の女は竜にとある場所を指し示した。
断崖絶壁の丘に降り立ち、髪色と同じ黒い長衣を風になびかせ、眼下に広がる光景をしばし眺める。
真下には黒々とした森が果てしなく続き、その先は草木の生えていない荒野。さらに奥は白い靄に包まれていてよく見えない。
「あの先に人間が住む世界があるのだな」
女は呟いた。その傍らで黒竜は翼をたたみ、大人しく座っている。
「人間とはどのような生き物なのだろうか」
黒竜が首を伸ばして女の横顔を覗き見る。
「おかしいか。魔王と呼ばれる立場にある私が、このようなことを思うのは」
「……メイザネラ様」
黒竜が控えめに女の名を呼ぶ。その声にはやや憂いの音が含まれていた。
「フフッ、案ずるな。奴らが我らの敵であることは変わらぬ。ただ……立場が違えば考え方も違うのかと思ってな」
女──魔王メイザネラは薄く笑って、黒竜の方を向いた。
黒竜が頭を垂れると、メイザネラはその額を優しく撫でる。
「ヴィム。そろそろ戻るとしよう。側近達には黙って城を抜けてきたゆえ」
メイザネラは再び黒竜の背に乗ると、空へ飛んで行った。
◇
ひんやりとした固い感触を身体に受け、ジャスティーナは重い瞼を開けた。
(……今のは……前世の記憶……)
あの黒髪の女は、かつて魔王だった頃の自分だ。
(そうだわ、魔王だった時、私は〝メイザネラ〟と呼ばれていた……)
わざとなのか、歴史には忌まわしきその名は残されていないので、人間は魔王に名前があったことすら知らないのだ。
(だけど、あのシーンは初めて見たわ……)
意識が朦朧とする中、ゆっくりと上体を起こす。
薄暗い視界の中、大きく平らな岩の上にいることがわかった。いつの間にか気を失っていたらしい。
身体には特に傷などは見当たらず、痛みもない。
(ええと……黒い竜に攫われて……そうだ、あの竜は⁉)
ジャスティーナは慌てて周囲を見渡した。
鬱蒼とした木々が辺りを覆っている。だが、学院周辺の森ではないことは明らかだ。
漂う空気が違う。
(とにかく、ここから抜け出さないと……!)
その時、グルルルル……と何かの唸り声が聞こえて、ジャスティーナはハッと上を見た。
「……っ‼」
喉の奥で声にならない悲鳴を上げる。
そこには鋭い牙をむき出しながら、自分を見下ろす黒竜の赤い目があった。