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第10話

 ヒューバートから逃げるように近くの校舎へ入る。


 しばらく廊下を進み、誰も追ってこないことを確認すると、ルシアンは走るのをやめて、ジャスティーナの手を離した。


「ごめん、急に走ったりして」

「いきなりどうしたの?」

「いや、その……あの言い方は良くない」

 ルシアンの頬が少し赤く染まる。


「確かに、君の身体は俺の力がないと保てないのかもしれない。そこは間違ってない。でも、あの言い方は周囲に誤解を与えてしまう。別の意味で。特に、二人きりになるわけだし……」

「別の意味?」


 ジャスティーナは理解できなかったが、ルシアンはそれ以上答えてくれない。


「……何か失言をしかけたのね。止めてくれてありがとう、ルシアン。今後気をつけるわ」


 とにかく彼を困らせないようにしなければと、ジャスティーナは真顔で頷く。


 そのあまりにも素直な返答を聞いて、ルシアンは項垂れた。


「君にはその純真さを失ってほしくないけど……俺は心配だ」

「え?」


「いや、何も。それより、ヒューバート殿下には気をつけて。真っすぐな心根で優しい人ではあるんだけど、自分の感情に素直すぎて、気に入った女性に対してはそれをそのまま相手にぶつけてしまうんだ」


「あら、私なら大丈夫だと思うけど」

「いや、殿下は明らかに君に興味を持っていたよ。くそっ、心配してたことが早々に……」

「でも私、殿下のお誘いを断ってしまったし。きっと嫌われたわ」

「殿下は簡単になびかない相手ほど燃える性分なんだよ……」 


 ルシアンは盛大にため息をつく。


「……それより前から聞こうと思ってたんだけど、ジャスティーナは前世で、その……恋人とかいなかったのか?」

「急にどうしたの?」

「だってそういうことに疎い……いや、無防備というか、心配でさ。前世を思い出したってことは、その時の生活や経験を思い出したってことだろう? ……好きな人とかいたのかなって……」


 なぜルシアンの語尾が小さくなったのかはわからないが、ジャスティーナは目を閉じて考えた。


「……うーん……特にそういう人はいなかったかしら……」

「本当……⁉」


 目を開けると、表情を明るくしたルシアンが身を乗り出している。


「ええ。……たぶん、仕事に一生懸命な人生の時は、そういう機会が無かったんでしょうね。そもそも、そういう出会いすら無かった人生もあるし──」


 ジャスティーナはハッとして後ろを振り返った。


(今の感じ……!)


 だが、廊下には誰もいない。

 急いで窓に駆け寄って外を見渡すが、校舎を囲む木々が見えるだけで何もいない。


「ジャスティーナ、どうした?」

 ルシアンが慌ててジャスティーナの横に立つ。


「誰かの視線を感じたの……」

「まさか、それって、さっき話してくれた……」

「ええ。最近感じる視線と同じよ」


 実家と学院では距離がありすぎる。つまり、見えざる相手はジャスティーナを追ってここまで来たということだ。


(嫌な予感がするわ……)


 その時、遠くの方で入学式がそろそろ始まるという、教員の呼び声が聞こえてきた。


「どうする? 少し顔色が悪いけど」

 ルシアンがジャスティーナの様子を気遣う。


「……大丈夫よ。とにかく出席しましょう」

 ジャスティーナは足早に大講堂へ向かった。


(どうか、何事も起きませんように……!)


 そう何度も願いながら。



 それから約一時間後。

 入学式を終えた新入生達が続々と会場をあとにし、とある場所へ向かう。

 大講堂の前の大広場で、クラス分けの掲示板が張り出されるのだ。


 外に出たジャスティーナは、フウと一息つく。


「例の視線はまだ感じる?」

 並んで歩くルシアンが声をかけた。


「それが、途中でよくわからなくなってしまって」


 式典の間、ジャスティーナは視線の主を探ろうとずっと周囲に気を張り巡らせていた。だが最後まで見つけられず、式典は粛々と進んだ。


 新入生代表の挨拶で、壇上に上がったヒューバードが何か話していたが、よく覚えていない。他の生徒達が憧れと羨望の眼差しを第二王子に向ける中、ジャスティーナの意識は彼から完全に逸れていた。


 そんなふうにずっと気を張っていたせいか、感覚が徐々に鈍くなり、結局よくわからなくなってしまったのだ。


「でも、何事もなく式典が終わって良かったわ」

 きっと自分の気のせいだったのだ。そう気持ちを落ち着かせようとした時。


 急に太陽の光が弱まり、地面が暗くなった。


 朝から晴天だったのに、一気に雨雲が立ち込めたのか。

 その場にいた全員が空を見上げた。


 何やら黒い塊が近づいてくる。

 徐々に形がはっきり見え始めた。


(あれは……!)


 ジャスティーナは目を見張った。


 翼を広げた異形の姿。


 全身は光沢のある硬い鱗に覆われ、四本の足の爪は鋭く、後頭部からは大きな角が二本伸びている。

 ぎょろりとした目は血のように赤く、大きな口に禍々しい牙。


「ひいいいいっ、り、竜だーっ‼」


 誰かが叫んだのを皮切りに、地上は大混乱に陥った。

 竜とはかつての魔王の眷属。


 そう教えられてきた平和な世に暮らす人間にとって、竜は本や文献でしか見たことのない幻の怪物だ。

 それが、まさに目の前にいる。

 正気を失い、恐怖に支配されるのは一瞬だった。


「きゃあー‼」

「うわあっ‼」

「た、助けてー‼」


 皆が悲鳴を上げながら、四方八方散り散りに逃げていく。


 ジャスティーナがその場から動けずにいると、ルシアンに手を引かれた。

「早く! 逃げるんだ!」


 だが次の瞬間。


 地響きのような凄まじい振動とともに強い風圧が起こり、皆が地面に叩きつけられた。


 黒い巨竜が広場に降り立ったのだ。

 その口がゆっくりと開き、咆哮が響き渡る。


「きゃっ……‼」

「な、なんだ、これ……⁉」


 頭が割れそうな竜の声に、皆が倒れ込んだまま咄嗟に耳を塞いだ。


 ジャスティーナも地面に伏せたまま思わず耳を塞ぎかけ──。


(え……?)


 ハッと顔を上げる。


 ここ数日、感じていた視線と同じ気配がしたのだ。

 目の前の黒竜の赤い目が、こちらを見下ろしている。


【ほう……まさかと思ったが私の声に耐えられるとは】


 何者かの声がジャスティーナの頭に響いた。


(誰の声……⁉)


 慌てて辺りを見渡すが、ルシアンを含めその場にいた全員が、いまだに地面に伏せたまま耳を塞いでいる。黒竜の咆哮の余韻から、まだ抜け出せていないのだ。


(じゃあ、この声の主は……)


【貴様……人間の姿をしているが、何者だ?】


 再び声が聞こえ、ジャスティーナは黒竜に視線を戻す。

 頭が理解し始めている。 


 この声の主はこの黒竜だ。


(最近私を見ていたのは……この竜なの?)


 じっと竜の目を見る。


 恐ろしい姿なのに──どこか懐かしい感じがするのはなぜなのか。


「あ、あなたは……」


 ジャスティーナが恐る恐る口を開きかけた時、突然誰かが背後から覆いかぶさってきた。


 驚いて横を向くと、琥珀色の髪が視界に入る。

「ルシアン⁉ ちょっと何を──」

「ジャスティーナ、髪の毛先が黒くなってる……!」

「え⁉」


 ルシアンは自分の身体を盾に、周囲の目からジャスティーナを守ってくれているのだ。


「このまま瞳を閉じるんだ。きっと瞳の色も変わってる。君の変化した姿を周囲に見せちゃダメだ……!」


 竜が襲来するという危機的状況の中、別の窮地に陥ったジャスティーナは絶句して、その場に固まった。


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