「今、体調と気分はどんな感じ?」
「何だかとても身体がポカポカしてて、心地いいわ」
翌日の午後。ラングトン侯爵邸の応接室。
ソファに並んで座るジャスティーナとルシアンは、互いに手を握り合っている。
部屋には二人きり。
もし、この光景を誰かが覗き見していれば、心を通じ合わせた婚約者同士が今まさに愛を確かめ合っている最中。そして、そのまま気持ちが盛り上がって二人の顔は徐々に近づき──という熱い展開を予想したかもしれない。
しかし、残念ながら現実は違った。
「昨日、ルシアンから癒しの力を与えてもらったおかげで、あれから髪も目も色は変わらなかったの。久しぶりに家族と食事を楽しめたし、夜もぐっすり眠れたわ」
昨日の約束通り、ルシアンは今日もジャスティーナのもとを訪れた。
そして、『入学前にルシアンと話して気持ちを落ち着けたいから』とジャスティーナは人払いした。
静かな部屋の中で心を落ち着かせて気持ちを集中させると、手と手を通じて癒しの力が身体に浸透していくのを感じる。
「今も私の中の魔王の力は抑えられていると思う。もう大丈夫よ、本当にありがとう」
ジャスティーナは微笑むと手を引いた。だがルシアンはその手を離そうとしない。
「ルシアン?」
「あ、ああ。ごめん」
小首を傾げるジャスティーナの視線に気づいたのか、我に返ったようにルシアンは慌てて手を離す。
「学院に入学しても、時々こうしてジャスティーナに俺の力を送るから安心して」
クラスが一緒の可能性はあっても、男子寮と女子寮は別だ。頻繁に会える時間は限られているかもしれない。それでもルシアンは、これからジャスティーナが安心して学院生活を送れるよう考えてくれている。そのことがジャスティーナはとても嬉しかった。
「本当にルシアンには頭が下がる思いよ。あ、待ってて。今お茶の用意をするから」
ジャスティーナは急いで応接室を出ていく。しばらくすると、ティーセットとお茶菓子をトレイに乗せたメイド二人を連れて戻ってきた。
ジャスティーナに命じられていたのだろうか、メイドたちはティーセットとお茶菓子をテーブルに置いたあと、すぐに退室した。
「いつもは誰かにお茶を淹れてもらっていたんだけど、これからは自分でしなくちゃいけないから。昔は自分でやっていたのよ。感覚を取り戻さなくちゃね」
そう言うとジャスティーナはポットからティーカップへお茶を注ぐ。上質な茶葉の良い香りが部屋に広がった。
「昔は自分で……?」
「ええ。良かったらこれも食べてみて」
ルシアンに温かいティーカップと差し出したあと、ジャスティーナは一口サイズのクッキーが数枚載った皿を勧めた。どこかの有名店の菓子ではなさそうな、見た目は至ってシンプルだ。
先ほどの質問に対する明確な答えを得られないまま、とりあえずルシアンは言われた通りクッキーに手を伸ばす。だが口に入れたあと、少し目を見開いた。
「美味い……見た目が素朴だから正直期待してなかったけど、口の中でほどけて甘さもちょうどいい」
「ありがとう。実はこれ、今朝私が作ったの」
「え……?」
ルシアンは二枚目に伸ばしかけた手を止めて不思議そうな顔をした。
貴族の令嬢が自らの手で食べ物を作ったりするのは非常に稀だ。わざわざそんなことをしなくても、家には専属の料理人がいるし、取り寄せたい物があれば店に注文して届けさせればいい。中には貴族とは名ばかりで、貧窮している家にはそのような令嬢もいるのかもしれないが、明らかにジャスティーナは違う。
「ジャスティーナが菓子作りに興味があったなんて知らなかったな……。ああ、ごめん! せっかく作ってくれたのに、見た目が素朴とか言って……!」
「いいのよ。私もそう思ったし、なるべく再現したかった気持ちもあるから」
特に気にしなかったジャスティーナは、柔らかく微笑む。
「興味というか、過去の経験よ。ちょうど、厨房にクルミとレーズンが置いてあって良かったわ。一人で出来るか不安だったけど、なんとか覚えていたみたい」
「え、これを一人で? それに過去の経験って……」
「そう。前世よ」
ジャスティーナの言葉に、ルシアンは眉根を寄せて困惑の表情を浮かべた。
きっと今、彼の頭の中ではエプロンをした魔王が一生懸命クッキーを作っているのだろう。
それを想像して、ジャスティーナはフフッと吹き出した。
「違うわよ。前世といっても人間だった時よ」
ジャスティーナは自分もクッキーを口に運ぶ。
「うん、美味しい。我ながら上出来ね」
「ちょっと待って。人間って……?」
「ええ。ルシアンに今日来てもらったのは、癒しの力を貸してもらうのはもちろんだったんだけど」
ジャスティーナは口をつけたティーカップをソーサーにそっと戻すと、ルシアンを真っすぐに見つめた。
「大事な話があるからなの」
ジャスティーナの真剣な眼差しを受けて、ルシアンも居住まいを正す。
「私、魔王として死んだあと、これまで何人もの人間として生まれ変わっているの。生まれた場所も、育った環境もどれも全く違う。そして、いろんな職に就いていたわ。舞台女優の見習いだったこともあったし、お針子としてドレスを仕立てていたこともあった。どこかの町の食堂で料理人をしていたこともあったし、孤児院の手伝いをしながら子供たちの面倒を見ていたこともあった。今日のクッキーはその当時、子供たちが好きだったお菓子をよく焼いていたことを思い出しながら作ったの。もっとも、その時の方が材料には乏しかったから、こんなに甘味は出せなかった」
これだけ美味しかったら子供たちにももっと喜んでもらえただろうに、とジャスティーナは思わずにはいられない。
「もしかしたら、まだ全部の人生を思い出せていないのかもしれないけど。そして、どの人生も十五歳前後で自分が魔王だったと思い出すの。どの〝私〟も、思い出す前までは人間として過ごしてきたから、思い出したあとも根本的な自我は人間そのものなのよ。人間を憎むとか、そういう感情は一切無かった。だからこそ内に潜む魔王の力を感じながら過ごす日々は不安だったわ」
少しだけ視線を落としたあと、再びルシアンの顔を見る。
「そして……どの人生も二十歳までは生きられなかったの」
「えっ……」
かすかに漏れたルシアンの声が上ずった。
「どれも、まともな死に方ではなかったわ。舞台仲間同士の痴情のもつれを止めに入ったら、激高した片方の人物に刃物で刺されたり、お針子の時は仕上がったドレスを依頼者宅に届ける最中で、馬車の暴走に巻き込まれて死んだり。とにかく、殺害されるか事故死ばかりなの。……でも当然と言えば当然よね。私は元魔王なんだから、ろくな死に方以外、許されていないのよ」
「そんな……」
「きっと私は今回も二十歳を前に死ぬんだわ」
自嘲気味に言うと、ジャスティーナはソファの背もたれに身を預けた。そっと瞳を閉じる。
「そして、ろくな死に方以外は用意されていないはずよ」
「ジャスティーナ!」
切羽詰まったような悲痛な声に、ジャスティーナはハッと目を開けた。
ルシアンが険しい表情でこちらを見ている。
「君の口から死ぬだとか、ろくな死に方しないとか、そんな言葉は聞きたくない……!」
彼の瞳がとても悲しそうに揺れている気がした。
「大事な話ってこのとこだったのか? 俺に、今から君を失う覚悟をしておけと……?」
「覚悟とか、そんなつもりでは……。でも、それが事実なのよ……。私はいつ死を迎えるかわからない。元魔王だからという理由もだけど、あなたの婚約者候補から外れたかったもう一つの理由は、このことなの」
「何だよ、それ……!」
ルシアンは膝上の両の拳を握りしめた。
「これまではそうだとしても! 今の人生でもそうなるとは決まってないだろ!」
感情が高まった彼に対し、ジャスティーナは冷静を保つ。
「ねえ、聞いて。……たとえばジャスティーナ・ラングトンとしての人生を何度も繰り返しているなら、いつどこで身に迫る危険が起きるかわかっていて、それを回避する方法も考えられるかもしれない。でも、どの人生も違う人間だった。だから、ジャスティーナとしてのこれから先の人生、何が起きるか全く予想できないのよ……!」
もしかしたら、今世は長生きできるかもしれない。そんな希望を持ちたいという願望はある。だが、さまざまな前世の悲惨な記憶が簡単にはそれを許してくれない。
ジャスティーナは泣き出したい感情を抑えて、唇をきゅっと引き結んだ。
すると、次の瞬間、ルシアンに力強く抱き寄せられていた。