その日の夜。
「数日ぶりにこうしてお嬢様の髪をとかすことが出来て、私は幸せですわ」
「いつもありがとう、サラ」
鏡台の前に座ったジャスティーナ、鏡に映る背後のメイドへ声をかける。サラと呼ばれた、赤茶色の髪を丁寧にまとめたメイド服姿の女性は、にっこりと微笑んだ。ジャスティーナより十歳上で、いつも身の回りを世話してくれている。
髪の色も元に戻り、久しぶりに手入れされる感触に、ジャスティーナも癒されていく。
「でも、昼間の出来事がすべて演技だということがわかって、安心しました」
「え、ええ、そうね……驚かせてしまってごめんなさい」
ジャスティーナは言葉を濁しながら謝った。
書斎でルシアンから話を聞いたラングトン侯爵に、「早く使用人たちにこの事実を伝えて、安心させてください。ジャスティーナが悪女のような振る舞いをしたとの噂はすぐに広まります。誰かが外に持ち出して話してしまう前に」と、ぬかりなくアドバイスしたのもルシアンだ。それを聞いた侯爵は「おお、そうですな」と慌てて部屋を飛び出していった。
幸い、外に出る者はいなかったため、〝ジャスティーナの醜聞〟は漏れることなく、〝ルシアンの語った真相〟が使用人たちの記憶に上書きされた。
普段のジャスティーナの振る舞いに、彼らがいかに好感を持っていたかが分かる。
「私もその場にいましたけど、まさに迫真の演技でしたわ」
「そんな迫真の演技だなんて……いいえ、そうかも」
ジャスティーナは自分の行いを振り返る。あの時は本気で彼に嫌われようとしたのだ。
君を見損なった、とルシアンには呆れられるだろうと思っていた。でも彼には自分の演技も嘘も通用しなかった。
それどころか、幼馴染の強い絆で優しく手を差し伸べてくれたのだ。
(私だったら、あんなことを言われたら心が折れるわ。そうよ、だからこそ思いつく限りの言葉で罵ったのに……ルシアンは優しいだけじゃなく精神面も強いのね。さすが宰相の息子、名門ベレスフォード公爵家の次期当主だわ)
改めて彼のすごさに感心してしまう。
「ルシアン様の演技もお見事でしたわ。まるで主人に捨てられた子犬のようで、見ている方も辛かったのですけれど、演技だとわかってホッとしましたわ」
サラは幼少期から自分に仕えてくれているからか、ルシアンに対する率直すぎる感想を耳にしても、ジャスティーヌは気にならない。
「捨てられた子犬……想像しただけで胸が痛いわ」
果たしてルシアンはそんな顔をしていただろうか。思い出せない。
「ルシアンは犬じゃないし、それにどんな動物でも私は可愛がるわ」
「……お嬢様にはこの手の例え話は難しゅうございましたね」
サラは苦笑する。
「学院にメイドを連れて行くことは許可されていますのに、お嬢様は本当にお一人で行かれるおつもりなのですか?」
「ええ。お父様もお母様も私の好きにしたらいいと仰ってくれてるの。ルシアンも誰も連れて行かないって言っていたし、学院の制服は難しくないし一人でも着られるわ。もし正装のドレスを着用しないといけない時は、着付けてくれる人たちを学院側が呼ぶそうよ」
前々から一人で行くことを決断しておいて良かったと、ジャスティーナは思った。いつ髪と瞳の色が変化するか分からない。誰かに見られたら面倒だ。
「大丈夫、一人でもいろいろ出来るのよ」
ジャスティーナは微笑む。
「そうでございますか……。でも、もし何かあればすぐにお知らせくださいね。このサラ、いつでもお嬢様のおそばに参りますので」
「ありがとう。お父様とお母様、弟妹のこと、お願いね。お兄様はあまり帰ってこないからいいけど……でも、たまに顔を見せたら、お好きなお菓子を出して差し上げてね」
ジャスティーナの二十三歳の兄は、王太子の執務書記官だ。根っからの仕事人間で、王城に泊まり込むことの方が多い。
「はい、かしこまりました」
サラも口角を上げると、再びジャスティーナの髪をとかし始めた。
「そうそう、使用人たちの間で噂しておりますのよ。お嬢様は女優の素質がおありだ、と」
「女優?」
「先ほどの演技に皆、圧倒されたのですわ。どの劇団でも瞬く間に人気が出るに違いないですわ。でも、こんなこと旦那様に聞かれたら怒られますけど。」
「ふふ、もうその話はよして。それにしてもサラは本当に観劇が好きね」
「それはもう! 昔から私の楽しみですから」
サラはたまの休みの日には、必ずどこかで観劇をするのが決まりだ。その話を聞くのが、ジャスティーナも楽しみだった。
「髪はもういいわ。明日はルシアンも来るし、早めに休むわね」
「はい、お休みなさいませ」
サラは丁寧に一礼して、退室する。
ジャスティーナは窓辺へ進むと、そっと開けた。
夜風が心地よくて、目を閉じる。
「女優、か……」
目の裏には、くすんだ木目の舞台が浮かぶ。
観客を前に、煌びやかに舞う踊り子たち。舞台裏に引っ込むと、一転、そこは舞台備品や役者や裏方の人間で溢れる、慌ただしい喧噪の中。場面転換のため、手動の装置が回る。そして、次の衣装に着替えた役者たちが表へ飛び出していく。
(あの時は、まだ下っ端で役名なんかなかったけど……)
名もなき見習い役者だったこともあった。
料理店で働いていたこともあった。
針子として、一日中生地と向き合っていたことも。
孤児院を手伝って、子供たちの面倒を見ていたことも。
(そう……私は魔王として生を終えた後、いろいろな人間として、さまざまな生を送ってきた)
いわゆる、転生という現象だ。
同一人物ではなく。
違う場所、違う環境で、違う容姿を持って生を受け、やがて終わる。
もちろん、ジャスティーナ・ラングトンとしての生もこれが初めてだ。
(まだ思い出せていない人生も、あるのかもしれないけれど)
明日、ルシアンに話そう。
学院で突然過去の習性に伴って、おかしな行動をしても驚かれないために。
(それに、私がルシアンの婚約者候補から外れたいと願ったのは、魔王だったこともあるけれど……もう一つ、理由がある)
それを伝えた時、ルシアンはどんな顔をするだろうか。
優しい彼だから、きっと悲しむだろう。
でも、伝えなくてはならない。
(私は……残酷な人間だわ……)
ジャスティーナは窓を閉めると、胸に重みを抱きかかえたまま寝台に潜り込んだ。