【SIDE ルシアン】
「……ジャスティーナ、今夜はちゃんと眠れるといいな」
帰りの馬車の中、誰もいない空間で、ルシアンは独り言ちた。
視線は車窓の外に向けられているが、その瞳には何も映してはいない。
頭に浮かぶのは、ジャスティーナのことばかりだ。
(……いろいろなことがありすぎて、大変な日だったな)
彼女からの呼び出しと、ラングトン侯爵からの『娘の様子がおかしいから助けてほしい』というような内容の知らせを同時に受け、急いで屋敷に向かった。
玄関ホールに入ると、ジャスティーナが出迎えてくれた。だが、なぜか怖い顔をして立っている。いつもと違う様子に戸惑いながらバラの花束を差し出すと、いきなりそれで頬を叩かれた。
続いて彼女の口から飛び出してきたのは、今まで聞いたことのない罵詈雑言だった。しかも婚約者候補から外せ、と要求してきた。さらに『愛人』というフレーズが出てきた時は、他の男に肩を抱かれるジャスティーナの姿を想像してしまい、息が止まるかと思った。
しかし、次第にこれはジャスティーナの本心ではないのでは、という疑念が生じた。彼女の性格上、何か気に入らないことがあったとしてもわざわざ人前で誰かを罵ったりしない。それに、もし本気婚約者候補から外れたいのであれば、父親に頼むなりして穏便に済ませようとするはずだ。
そう思い、彼女を注意深く観察していると、手の震えに気づいた。何度も唇を噛む表情は少しやつれて見えて、額の端にうっすらと汗が浮かんでいる。何より罵られているのは自分の方なのに、なぜかジャスティーナの瞳は潤んでいて、とても悲しそうだった。
何かを隠しているに違いない。
そう確信して彼女を追いかけると、重大な秘密を知った。
元魔王だと打ち明けられても信じられなかったが、変わってしまった髪と瞳の色、そして彼女を取り巻く禍々しい気を放つ黒い靄を目の当たりにし、現実を受け入れざるを得なかった。
自分の正体に怯えているジャスティーナは、まだなおルシアンを遠ざけようとしたが、それは断固として嫌だった。ここで彼女のそばを離れたら、絶対に後悔する。黒い靄に手を突っ込むことに、躊躇いはなかった。
結果として、その行動は功を奏し、ジャスティーナは元の姿に戻ることが出来た。
自分の中の癒しの力で彼女を救ったと考えるのが妥当だが、この力で本当に魔王の力を抑えられるのかは不明だ。
(とにかく、ジャスティーナを救えるのは今のところ俺だけだ。絶対に俺が守る)
ルシアンは両の掌をじっと見つめたのち、強く握りしめた。
◇ ◇ ◇
ジャスティーナと初めて会ったのは、六歳の時だ。
共通の友人を通じて二人の父親同士が親しくなり、ラングトン侯爵一家を屋敷に招くことになった。
そこに現れたのは、父親の後ろに少し隠れながら微笑むジャスティーナだった。
艶やかな金髪に、澄んだ青空のような色の瞳。見つめられただけで、ルシアンの心臓は早鐘を打った。
完全に、一目惚れだった。
それから両家の交流は続き、二人はよく遊ぶようになった。
ジャスティーナは優しく穏やかな性格で、何を見ても楽しそうで、よく笑う。活発な面もあって、庭園を走り回っては一緒にはしゃいだ。ルシアンは彼女の内面にも惹かれていった。
年齢を重ねてからはさすがに庭で遊ぶことはなくなったが、時折ジャスティーナのもとを訪れ、親交を深めてきた。
そして、そろそろ世間では婚約者を決める年頃になった頃。
『ラングトン侯爵家のジャスティーナと婚約したいのです』
ルシアンは父であるベレスフォード公爵に自ら申し出た。
しかし、父は即答しなかった。ラングトン侯爵家は名門で、妻に迎えるには申し分ない家柄だが、この国の宰相でもある父は嫡男の結婚相手選びに慎重な姿勢を崩さなかった。
『ジャスティーナはあくまで候補者の一人だ。それが不服なら、彼女を候補そのものから外す。急ぐことはない。視野を広く持て』
王立学院に集まる貴族令嬢の中にはジャスティーナの家柄、容姿、能力を上回る者がいるかもしれない。さらに、王族ではないものの宰相という立場上、繋がる家によっては国の根幹に少なからず影響を及ぼすこともある。そういう意図もあり、ベレスフォード公爵は息子の婚約者決定を先延ばしにしていた。
その言いつけを表面上、素直に受け入れたルシアンだが、父の言う視野を広く持つ気などさらさらない。
(ジャスティーナを超える令嬢がいるだと? あり得ない)
ルシアンの中で、将来の伴侶はジャスティーナだけだ。
だから、縁談に繋がりそうな他家の令嬢からの茶会などは一切断り、ラングトン侯爵家にのみ足を運んだ。自分はジャスティーナ以外は眼中にないという、父に対する固い意思の表れだ。
これから何があっても、ジャスティーナ以外に心を囚われることはない。
◇ ◇ ◇
(だが、ジャスティーナは俺の気持ちに気づいてはいないだろうな)
ルシアンは小さくため息をついた。
ジャスティーナが自分の婚約者候補であることを受け入れているのは、ただ単にその決定に不服がないからだ。
貴族の結婚は、本人たちの意思より家同士の繋がりに重きを置かれる。貴族令嬢として教育を受けてきたジャスティーナも、それをちゃんと理解しているのだろう。それに、幼馴染として相手を良く知っているという、安心感もあるのかもしれない。
しかし、ルシアンがジャスティーナの手に触れても、彼女は顔を赤らめるわけでもなく慌てて手を引っ込めることもなく、普段と態度は変わらない。
先ほど、学院に行く、と前向きな発言が嬉しくてついジャスティーナを抱きしめた時も、ドキドキしていたのはルシアンだけで、彼女の方は何も感じていないようだった。
むしろ笑顔で、心配してくれてありがとう、と礼を言われたのだ。
そう、異性として意識されていないのは明白だ。
思えば、幼い頃から遊ぶ時は必ず手を繋いで走り回っていたし、疲れれば横に並んで昼寝をすることもあった。
ジャスティーナにとってルシアンはあまりにも近すぎるため、今更手に触れられたり抱しめられたところで、特に何も思わないのだろう。
(幼馴染という立場は有利だと思っていたが……これほど障壁になるとは……)
ルシアンは肩を落とした。
(でも、素直に気持ちは伝えてくれるんだよなぁ……)
馬車に乗り込む前のジャスティーナの言葉を思い出す。
『ルシアンと一緒にいると楽しいし、いつも安心できるの。ルシアンは誠実で真面目で、とても素敵な人よ!』
わかっている。彼女は玄関ホールでの自分の発言を悔いて、ただ励まそうとしてくれただけだということくらい。
(だけど上目遣いで見つめられて、素敵な人とか言われたら、やばいよな……)
思わず抱きしめたくなった。だが、周りには使用人たちもいたので、思いとどまった。
さらに、その上目遣いも彼女は無意識にやっているのだから、余計にタチが悪い。
(はあ……でも抱きしめた時、一瞬だったけどジャスティーナは柔らかかったな……)
ルシアンはハッとして、煩悩を追い払うように首を横に振る。
(だめだ、何を考えているんだ。それより、ジャスティーナが穏やかに学院生活を送れるように支えないと)
ジャスティーナは優しく穏やかな性格だから、誰かとトラブルになることはまずないだろう。友人をたくさん作りたいと、数か月前、本人も楽しそうに語っていた。
(ジャスティーナはすぐに人気者になるだろうな。人を惹きつける魅力が……待てよ)
ルシアンは顔を上げた。
(それって、男も近づいてくるってことじゃないか……!)
これまで、家族以外でジャスティーナに一番近い男は、ルシアンだけだった。だがこれからは決してそうではなくなる。まだジャスティーナとは正式に婚約していないのだから、実際のところ彼女は誰のものでもない。
ルシアンは勢いよく立ち上がった。
「……くっ!」
思いきり馬車の天井にぶつけた頭を両手で抱えながら、ルシアンは力なく座席に座り込んだ。
彼の苦悩はまだまだ尽きない。