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第2話

 魔王。

 それは、約千年前この大地で魔族軍を率い、人間側と熾烈な戦いを繰り広げた厄災そのものである。

 戦闘により大地の半分は焦土と化し、劣勢に立たされた人間側は魔族軍の侵略を恐れ、絶望の中で生きる希望を失いつつあった。

 そこに、神から加護を与えられた勇者と聖女から成る魔王討伐隊が現れる。

 幾度となく死地を潜り抜けた一行は、ついに魔王と対峙。激闘の末、勇者が魔王を討ち取り魔族軍も壊滅した。

 こうして世界に平和と安寧がもたらされた。

 これが世間一般に伝わっている魔王のあらましである。


「……っていう、あの魔王のことか?」

「ええ」

「……勇者に倒されたっていう?」

「ええ」

 ジャスティーヌが頷くと、ルシアンはそのまま黙ってしまった。

 すぐには信じられないという戸惑いの表れか。

 それとも、この嘘の裏に何か意図的に隠された真実があるのでは、と話の真意を突き止めようと懸命に頭を働かせている最中なのか。

(まあ、普通はいきなりこんな話したところで、真面目に取り合ってはもらえないわね。予想通りの反応だわ)

 ジャスティーヌは小さくため息をつく。

 今を生きる人々にとって、魔族との戦いは単に遠い過去の出来事ではなく、もはや伝説になりつつある。

「ねえ、ルシアン。魔王の容姿の特徴といえば?」

「闇のように黒い髪と血のような赤い目、だろ? その他、頭の角や鋭い爪があったりとか、いろいろ伝わっているけど」

「そうね……じゃあ、そのうち角も生えてくるかもしれないわね」

「君がそんな冗談を言うなんて珍しいな」

 ジャスティーナは明るく微笑むルシアンに言葉を返すことなく、背を向けて窓へ歩き出す。そしてカーテンを勢いよく開けた。

「わ、眩し……」

 部屋に一気に流れ込んでくる陽光に対応できず、ルシアンは目を瞑る。

 だが、次の瞬間、彼は目を大きく見開いた。

「ジャスティーナ……それは」

 明るい光に照らされたジャスティーナの姿は、先刻玄関ホールで会った時と特に変りはない。

 しかし、彼女の金髪の毛先は四分の一ほど黒く染まり、青い瞳は下から三分の一が赤く変色していた。

 先ほど、ルシアンが話した魔王の特徴の色そのものだ。

「その髪と瞳は……」

「驚かせてごめんなさい。でも、直接見せた方があなたも納得すると思ったの」

 ジャスティーナは目を伏せた。

「もちろん、自分でも何とか元に戻せないか試みたわ」

 近くの棚へ向かい、引き出しからハサミを取り出す。そして、刃先を自分の髪に当てた。

「おい、ジャスティーナ、何を──」

「いいから見ていて……!」

 ルシアンの制止も聞かず、ジャスティーヌは躊躇いなく毛先にハサミを入れる。

 パサリ、と黒い毛束が床に落ちた。

「問題はここからよ」

 一体何が起こるのか。ルシアンが黙ってジャスティーヌの姿を凝視していると。

 風もないのに、たった今切った部分の毛先がゆっくり揺れ、シュルシュルと伸び始めたのだ。

 しかも黒いまま。

 信じられない光景に、ルシアンは言葉も出ない。

「何度切って誤魔化そうとしても、ずっとこの調子なの。もちろん、瞳の色はどうしようもないけれど」

「で、でも、玄関ホールでは君の容姿はいつも通りだったじゃないか」

「ええ、それは何とか気を張って私なりに抑えていただけよ。でもその状態を長時間保ち続けるのは無理なの……」

 ジャスティーナの身体が揺れ、その場に崩れる。

「ジャスティーナ!」

「近づいてはだめ! 私に触れないで!」

 駆け寄ろうとするルシアンを厳しい口調で止める。

 その瞬間、ジャスティーナの全身は黒い靄に包まれた。

「こ、これは……」

 ルシアンは手を伸ばしたまま、身体を硬直させる。

 黒く禍々しい気の塊を目の当たりにし、身の危険を感じているのだろう。

 ジャスティーナはホッとした。

 もし彼の身に何かあれば、悲しみで胸が押しつぶされていたはずだから。

「ルシアン、これで信じてもらえたかしら?」

「……魔王かどうかはまだ信じられないが、君が大変な事態に陥っていることは理解したよ」

「私、きっとこれから髪も瞳もどんどん変わっていくわ。人前に出ることも出来ない。この黒い靄も抑えられずに、やがて正気さえ保てなくなる。だから……そうなる前に一人でどこかに行こうと思うの。六日後に控えた王立学院の入学も諦める。さっきの宣言通りあなたとの婚約も解消するわ」

「え、ちょっと待って……!」

「どうか承諾してほしいの。こんな私では、あなたの生涯の伴侶にはなれないし、結婚してもあなたの家名に泥を塗ることになるわ。あなたには他にも素晴らしい相手が──」

「待ってくれ!」

 ジャスティーナの言葉を遮るように、ルシアンが大きな声を出す。その声に少し焦りを感じたが、黒い靄のせいでジャスティーナから彼の表情はよく見えなかった。

「勝手に話を進めないでくれ」

 上からではなく、すぐそばでルシアンの声が聞こえる。目線を合わせるため彼も床に腰を下ろしたのだろう。

「ルシアン、だめよ、すぐに離れて」

「君がそばに来るなと言うなら、これ以上は近づかないよ。それに、この黒い靄自体は俺に何か攻撃を仕掛けてくるわけではなさそうだし」

「……それはそうかもしれないけど」

「一旦落ち着こう。君も俺も。ゆっくり話をしよう」

「え……」

 ジャスティーナは驚いた。こんな普通ではない自分を見せたら、彼は絶対に気味悪がってすぐに帰ってしまうと思ったのに。

 そうなればもちろん寂しくなると分かっていたが、むしろそれで良かったと納得する心構えでいたのに。

「俺がここに来たのは君に呼ばれたからだけど、君の父上に頼まれたからでもあったんだ」

 ジャスティーナの戸惑いをよそに、ルシアンはいつもと変わらない口調で話しかけてくる。

「ジャスティーナが数日前から部屋に引きこもって出てこない。何度声を掛けても無駄だった。だから、何とか説得して部屋から出してほしいってね。王立学院に入学する直前だから、父上もとても心配なさったんだろう」

 王立学院──正式名称ダリウス王立魔法学院。この国の貴族の子女は能力に差はあれど、「土」「風」「水」「火」の四大元素魔法のうち一つは持って生まれ、十五歳から十八歳まで王立学院で学ぶことが慣例となっている。また、特別な魔力を有する平民出身者にも門は開かれており、身分に関係なく教養と魔法を学ぶ。基本的に親元を離れ、休暇以外の時間を学院と寮で過ごす。

 ジャスティーナは風、ルシアンは水の魔力を有し、六日後に学院の新入生になる予定だ。

「君が部屋から出てこなくなったのは、その容姿が理由だったんだね」

「ええ。……ただ記憶が戻っただけなら、私が口外しなければいいだけだから、何とでもなったわ。でも、さすがにこの姿を見られるわけにはいかなくて」

「一日のうち、どのくらいその姿になってしまうんだ?」

「何もしなければ大半がこのままよ。でもこの五日間、気を張り巡らせて自分の中の魔を抑える練習をして、なんとか数分だけなら元の姿を保てるようになったわ。でもそれも長くは続かない。少しでも気を緩めると、ご覧の有様よ。もう限界だと思った」

 ジャスティーナは小さく息を吐いた。

「家族と一緒に過ごすことはできないし、このままあなたとの婚約を続けることもできない。でもきっとあなたは私がどんな理由を並べても、すぐには納得しないでしょう? 本当のことを言ってしまえば良かったんでしょうけれど、真実を知ったあなたに迷惑をかけたくなかった。だから」

「わざと皆の前で恥をかかせて、俺に嫌われるように仕向けたってことだろう?」

「……その通りよ。ルシアンにはお見通しだったのね」

 黒い靄の向こうで、ルシアンの笑う声が聞こえる。

「さっきも言ったけど、俺は長年君と一緒に居たんだ。君が何か無理をしているのはわかったよ」

「……そう……なのね」

「それと、少し手も震えてた。俺に対する怒りで、とかじゃなくて、他の何かを必死に抑え込んでいるような気がしたんだ。今考えると、自分の中の〝魔王〟が出てこないか、怯えていたんだな」

「……あなたには敵わないわね」

 ジャスティーナは観念したように少し微笑む。

「ジャスティーナ。もし良かったら、君が魔王だと思い出した時のことを聞いてもいいかな?」

「え……」

 ジャスティーナは躊躇った。

「でも、ルシアンを巻き込むわけには」

「演技とはいえ、俺は皆の前で君にフラれたんだ。哀れな男の願いを叶えてくれてもいいと思うんだけど」

「それは……本当にごめんなさい」

「いいんだ。君の本心じゃないことがわかったから、もう謝らないで。それに、一人で抱えるより、誰かに話した方が気が楽になるだろう? 大丈夫、俺は後悔しないよ」

「……ふふ、さっきも後悔しないって言ってくれてたわね」

 ルシアンは昔から優しくて、自分の気持ちに真っすぐで芯がぶれない。

ジャスティーナの心が少し軽くなった。

「……五日前のことよ。突然目の前が暗くなって」

 自室で本を読んでいた時だった。頭も痛くなり、寝台に倒れ込んだあと、前世の記憶が蘇ったのだった。

「でも、全て思い出したわけじゃくて、断片的なの。私は薄暗い城のような場所で玉座らしき椅子に座っていて、たくさんの配下の魔族が頭を垂れていた。私は魔族軍を率いて、戦場に出た。そして、幾度かの戦いの末に、人間の勇者に剣で胸を刺され……た……」

 急に気持ち悪くなり、ジャスティーナは胸を押さえる。

「大丈夫か⁉」

 その気配を感じたのか、ルシアンが慌てたように声を掛けた。

「ええ、ありがとう。何でもないわ」

 ジャスティーナは彼を安心させるように、明るく答える。

「あなたに信じてもらえたところで、もう一度言うわ。私との婚約はなかったことにして。私に関わるとロクなことにならないわ。一人でここを去るつもりよ」

「ジャスティーナ!」

「いつか姿だけじゃなくて心も蝕まれていくと思うと、とても怖いの。周りの人たちに危害が及ぶかもしれない。当然あなたにも──」

「だったら、俺が止める!」

 力強い口調と共に、靄の向こうからルシアンの手が勢いよく飛び出してきて、ジャスティーナの腕を掴んだ。


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