それは一瞬の出来事だった。
信じられない光景を目の前に、誰もがこれは幻だと思ったに違いない。
バシンッ!と頬を打つ衝撃音と共に、視界に赤いバラの花びらが無数に舞う。
愛しい婚約者へと贈られたはずのバラの花束は、相手に喜ばれることなく送り主を攻撃する武器と化すと、あっけなく床に放り投げられ無残な姿を晒していた。
「こんな毒々しい色の花束を贈ってくるなんてセンスの欠片もないわね。ルシアン」
ラングトン侯爵家の玄関ホールに、少女の抑揚のない声が響き渡る。
これまで聞いたことのない冷たい声音に、その少女の父親と近くに控えていた数人の使用人やメイドたちは驚き、一斉に視線を少女へ向けた。
ジャスティーナ・ラングトン、十五歳。若葉色のドレスを身に纏い、腰の辺りまで真っ直ぐ伸びる癖のない金髪に、晴れ渡った空を映したような青い瞳。名門ラングトン侯爵家の令嬢として恥じぬよう育てられ、十五歳ながらも上品な立ち振る舞いは整った目鼻立ちも相まって、貴族社会で注目を集めつつある。
その上、気立ても良く両親や兄を慕い、弟妹にも優しい。上流階級の人間でありながら奢ったところもなく、使用人にさえ労わりの心で接するため、屋敷に仕える人々にとってジャスティーナは天使のようなお嬢様なのだ。
しかし。
その天使のようなお嬢様はどこに行ってしまったのか。よりにもよって訪ねてきてくれた婚約者の頬を、贈られた花束でいきなり叩きつけるなんて──。
誰もが声を出せずにいる中、ジャスティーナの冷ややかな視線は、目の前に立つ人物に注がれている。彼もまた、呆然と佇んだままだ。
王族とも縁の深いベレスフォード公爵家の嫡男であるルシアンは、ジャスティーナの幼馴染であり、同じく十五歳。琥珀色の髪と緑色の瞳を持ち、背は彼女より頭半分ほど高い。少年から青年へ成長過程中で、日に日に体格も逞しくなり顔つきにも精悍さが加わりつつある。
だが、いつもは穏やかな緑の瞳は、今は驚きで大きく見開かれていた。
彼もまた、ジャスティーナの言動に頭がついていけていないのだ。
「ジャ、ジャスティーナ! お前は何ということを……!」
誰よりもいち早く我に返った父、ラングトン侯爵が慌てて叱責する。
「ルシアン殿に謝らんか!」
「だって、気に入らなかったんだもの。頼んでもないに持ってくるなんて、ゴミが増えて迷惑ですの」
「何を言っている! 最近部屋に引きこもって頭でもおかしくなったのか⁉ お前がルシアン殿に会いたいと言うから、わざわざご足労願って──」
「お父様は黙っていらして!」
ジャスティーナは鋭い視線で父を一瞥する。普段とはかけ離れた娘の態度に動揺したのか、侯爵は口を噤んだ。
「ああ、そうだわ。私、ルシアンに話があったの。それなのにいきなり変な色のバラを渡してくるから、気が逸れてしまったじゃない」
ジャスティーナは視線をルシアンへ戻す。
「ねえ、ルシアン。私をあなたの婚約者候補から外してもらえるかしら」
「え……?」
「まだ決定事項じゃないんだから、早めに断ったっていいでしょう?」
「ジャスティーナ! お前は何を言い出すんだ!」
これ以上黙っていられないと憤慨した侯爵が、再び口を開く。
「公爵家に対して何と非礼極まりない言い方をするのだ! 断じて私は許さんぞ!」
「あら、お父様は別に相手がベレスフォード公爵家でなくても、同格か上の家柄の人間ならよろしいのでしょう?」
「何を言うか、私はルシアン殿の人柄にも惚れ込んで是非お前の伴侶にと、心から願っているのだぞ!」
「落ち着いてください、ラングトン侯爵」
顔を真っ赤にして憤る侯爵の肩に手を置いて、ようやくルシアンが声を発した。
「こんなことを言い出すなんてジャスティーナにも何か理由があるはずです。まずはそれを聞かないと」
ルシアンは一歩前に出る。
「ジャスティーナ、何か君を怒らせるようなことをしただろうか。俺に改善すべき点があるのなら、遠慮なく言ってほしい」
少しの沈黙ののち、ジャスティーナは視線を下に向けると小さく息を吐き出す。
「ああ、もう。説明しないとわからないのね。前から思っていたの。あなたは私に相応しくないって」
「相応しく……ない……?」
「ええ。だってあなたは真面目で一緒にいてもつまらないし。お父様の言いつけで、これまで我慢してあなたと会ってはいたけど、もう嫌なのよ。顔も見たくないくらいわ。ああ、私はなんて狭い世界にいたのかしら。今後、外に出れば色々な男性と出会えるってことに気づいたのよ。自分に合う人と一緒になりたいの」
「ジャスティーナ……君は」
「しつこいわね。これからは気安く呼ばないでっ」
ジャスティーナは腕組みをしてルシアンを睨む。
「納得していない顔ね。だったら条件を出すわ。私に愛人が出来ても文句言わないのなら、結婚してあげてもいいわよ」
「あ、愛人だと……!」
あまりの失礼な言い方に、侯爵が娘の腕を掴もうとする。だが、ジャスティーナはサッと身を引いて逃れた。
「私はこういう女なの。ルシアンも私の本性が分かってよかったでしょう? ……話は終わりよ。もう帰って」
ジャスティーナは踵を返すと、急いで走り出し、階段を駆け上がっていく。
「待て、ジャスティーナ! 話は終わっていないぞ! おい、何をしている、早くジャスティーナを連れ戻してルシアン殿に詫びさせろ!」
侯爵の声に我に返った使用人たちが一斉に走り出そうとした時。
「待ってください!」
ルシアンが声を上げた。
「無理矢理連れ戻したところで、彼女をさらに追い詰めるだけです。僕が一人で行って話をしてきます。どうかご許可を」
「わ、わかりました……貴殿にお任せします。……皆、誰もジャスティーナのところへ行くんじゃないぞ」
侯爵が使用人たちにそう指示を出すと同時に、ルシアンは走り出した。
(少し眩暈がする……ちょっと長く話し過ぎたわね)
勢いよく走り出したものの、ジャスティーナは自室へ戻る廊下の途中でふらつきながら歩みを進めていた。
(だめ……今はまだ出てこないで。せめて部屋までもって)
ようやく自室のドアノブに手を掛けた時。
「ジャスティーナ!」
背後からルシアンの声を聞いた。
「か、帰って! お願いだから!」
慌てて開けたドアの隙間から身体を滑り込ませ、すぐに閉じようとしたが。
廊下側からドアノブを強く押されてしまった。
「ルシアン、お願いだから離して!」
「嫌だ。俺は長年君をそばで見続けてきたんだ。その俺が君の嘘に気づけないとでも?」
「えっ……」
彼の言葉に、一瞬握力が緩む。
その隙に、ドアを開けようとするルシアンの力に押された。
(しまった!)
これ以上の攻防は諦め、ジャスティーナはドア付近から慌てて飛び退くと、壁と寝台の隙間に身を潜める。
窓のカーテンはあらかじめ全部閉めている。薄暗い部屋の中で今の自分の全貌を見られずにすむことは、ささやかな救いだ。
「ジャスティーナ……強引なことをしてごめん」
やや遠くから、申し訳なさそうなルシアンの声が耳に届く。
ドアを開けはしたが、どうやらジャスティーナの許可なく勝手に部屋に押し入る気はないらしい。彼の誠実さを感じた。
「俺以外、ここには誰も来ないよ。だから、よければ何があったか話してくれないかな」
「だめよ……いくらルシアンでも、知ったら後悔するわ」
「しないよ」
「なぜそう言い切れるの?」
「ええと、それは……俺は君にずっと、ほれ……」
あとに続く言葉は不明瞭で聞き取れない。
「……ほ? 放っておけないってこと? 幼馴染として?」
「え、あ、うん。そう、そうだよ。俺達には昔から深い絆があるだろう?」
「ええ……そうね」
ジャスティーナは深く息をした。少し落ち着いた気がする。
だが、すぐに話をする気にはなれない。
もし、自分の秘密を知られてしまったら彼は絶対にこれまで通りに接してはくれないだろう。
そう思うと怖い。
でも、ちゃんと話さないといけないのだ。そのために呼び出したのだから。
「……ルシアン、さっき私が嘘をついている、って言ったわよね」
「ああ」
「嘘じゃないわ。婚約者から外れたいのは本心よ」
「えっ……それはやっぱり俺がつまらない男だから……」
「いいえ。原因は私よ。だから、あなたのそばにはいられないの。あなたに相応しくないのは私の方なのよ。あなたにはどうか、このまま私の意思を受け入れてほしいの」
「どういうことなんだ。ちゃんと説明してくれ。納得いくまで俺は帰らない」
「……話したら納得せざるを得ないわ。でも同時にあなたは絶対に後悔する。知らない方が良かった、と」
ジャスティーナは俯く。
「……でも、その覚悟があるのなら、部屋に入ってきて」
「さっきも言っただろう? 後悔なんかしない、って」
ルシアンがドアを閉める音が聞こえる。
ジャスティーヌはゆっくりと立ち上がって、部屋の中央へ進んだ。
「ルシアン。実は私……」
意を決して口を開く。
「私……元魔王なの」