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第8話【曇らせ剣士と半月の王子③】

 ◆


 その日の夕暮れ、オリヴィエの前に満身創痍となったシドが連れてこられた。


 シドが連れていった文官達の顔色は蒼白だが、全身から血を流すシドをしっかりと支えている。


 文官達の高級な衣や手はシドの血で濡れ、汚れていた。


 しかし、文官達にはそれを厭う様子は見られない。


 貴族達はその光景に困惑の念を禁じえなかった。


 なぜならばシドが連れて行った文官達は確かに文官としての能力には優れるが、気位も高く…分かりやすく言えば高飛車で嫌な野郎共、であったのだ。


 それが自身の衣や手が血で汚れるのを厭わずに、とは。


 シドが帝国軍と一戦を交えるまえに、彼は文官達に事の真実を告げた。


 現実主義者である文官達からすればそんなものは夢物語でしかない。


 長年帝国の飼い犬としてその尻を舐めてきたセイル王国が解き放たれる?


 たった一人で懲罰軍へ立ち向かい、これを半壊させ、冒険者ギルドまで動かして帝国にセイル王国への不干渉を約束させる?


 そんな事を信じる者がいたとしたら、文官達は例外なく唾棄し、あざ笑うであろう。


 しかしシドはやり遂げた。


 しかも命を賭けてだ。


 もはやセイル王国には忠誠を捧げる意味もなければ価値もないと思っていた彼等だが、シドが示した忠義の輝きはハンマーの衝撃力でもって彼等の蒙を啓き砕いた。


 ――此れ程の男が命をかけて忠節を尽くす王であるならば、あるいはセイル王国もやりなおす機会があるのかもしれない。


 文官達はそのように思っていた。


 勿論そんなものはただの勘違いだが。


 ◆


「シ、シド!!!」


 もはやオリヴィエには周囲の目を気にする余裕は無かった。


 王としては不適当である事は分かってはいても玉座を降り、シドの元へと駆け寄り、力を失ったその身体を抱きとめる。


「なぜ、なぜ、このような……」


 オリヴィエは余りのショックで一時的に言語能力が失調したかのように、壊れたオルゴールのようにただなぜ、なぜ、とくりかえしていた。


 シドの口元には赤いものが見える。


 内臓もやられたに違いない。


 オリヴィエはそれを見てあわてて医者を呼ぼうとしたが、シドがそれをおしとどめた。


「……陛下、良いのです。全身を剣で貫かれ、もはやこの身は死に体も同然…。しかし我が策が成るまでは死ねぬと冥府の川の橋渡しには暫し待ってもらっておりますれば…」


「しゃ、喋るんじゃない!ふざけるなよ、余は…私は…私は君が死ぬ事なんて絶対認めない!誰か!誰か医者を!」


 オリヴィエの声色には恐慌の色が混じっている。


 その声色はシドに僅かな法悦を齎した。


 とはいえその余韻をいつまでも味わっているわけにはいかない、とシドは自身を鼓舞する。


 死にかけているのは事実だからだ。


「し、仔細は私の部屋の、文机に…て、がみをしたためておりま、す…」


 手紙にはこの先の展開、そして対応が書いてある。


シドからすれば正直いって茶番以上のなにものでもなかったが、その茶番でセイル王国の未来は大きく変わるだろう。


 ◆


 シドが描いた絵図はこうだ。


 懲罰軍の撃退後、冒険者ギルドが帝国へ接触をする。


帝国は内政干渉だとしてギルドからの接触を拒むかもしれないが、シドが最上位冒険者である以上、ギルドとしてはこれが失われる事を決して軽くは見ない。


 ましてやその原因となったのは帝国による不当な搾取だ。


帝国とセイル王国が争い、セイル王国が敗北し、領土を安堵するかわりに資源を提供…というのがそもそもの話だったのだが、これは通常の国家間の争いの帰結としては一般的ではない。


 通常、このようなケースの場合は賠償金の支払いが提案されるものだ。


 しかし帝国はこの賠償金の支払いという国際常識を資源の提供に置き換えた。


 しかもその提供量に上限を設けずに。


 これは国際常識に照らして不当と言わざるを得ない。


 もっとも、帝国からセイル王国への搾取を不当だと糾弾する権利はギルドにはない。


 ないのだが、糾弾は出来なくとも評価は出来る。


 傍目からみてどう見ても不当な事に冒険者ギルドの最上位に位置する重要構成員が関わり、そして帝国に殺されたとあっては、これは帝国が冒険者ギルドの保有する戦力を削ろうと画策したと疑念を抱かざるを得ない。


 セイル王国から恒久的に資源を搾取する為に冒険者ギルドに敵対行動を取るのであれば、ギルドとしてはこれに有形力の行使をもって抗する事となる…


 しかしこれが一種の不幸な偶然であるならば、つまり、帝国がギルドへ敵対的行動を取る積もりがないのなら相応の行動を以ってこれを示してほしい…と、ここまで話が進めば後はこのような具合になるはずだ。


 黒金等級冒険者の喪失に対する賠償などはいかに帝国といえど出来ない。


 冒険者ギルドは思い切り吹っかけるはずだから。


 ここから導き出される着地点は、セイル王国からの賠償金の支払いはこれまでの資源の提供により一般的な賠償金額を支払いきったとして以後の提供を停止。


 帝国はそれを認める事。


 これである。


 というよりこれしかない。


 帝国が欲得ずくでセイル王国を搾取しようとし、それを咎めようとしたギルド最上位の冒険者を殺害したわけではなく、あくまでも不幸な偶然、そして当時の戦後処理の解釈の誤解により今回の仕儀に至ってしまった…と言う事にしたいのであれば。


 果たして事の次第はシドが描いた絵図の通りとなる。


 セイル王国側の犠牲は0だ。


 王国の一般国民も兵士も貴族も、誰一人として命を落としていない。


 これは奇跡的な数字である。


 もっとも、その数字は間もなく0から1になるだろうが。


 ◆


 オリヴィエは侍従にその手紙を持ってこさせ、その場で開いて驚愕した。


「王国は…帝国から解き放たれたのです…我、われは、ようやく自らの翼を得ました…」


 そんな事はどうでもいい、とはオリヴィエには言えない。セイル王国が長年にわたって帝国から搾取されてきた事には違いがないからだ。


 鉱山の採掘は過酷であり、セイル王国の民は毎年少なくない犠牲を出しながら資源を掘り出している。


 鉱山採掘技術の向上だけではどうにもならない問題もあるのだ。


 獣は魔を宿し魔獣となるのだが、地脈が集中する地域ではその数が爆発的に増える。


 この撃退は一般国民には困難を極める。


 戦闘訓練を積んだものとて大なり小なり犠牲は伴うのだから採掘は過酷極まり無いものであった。


 それから解放されたのだからそれはめでたい事だ。


 めでたい事のはずなのだ。


 ・

 ・ 


 シドは一際激しく吐血をする。


 血がオリヴィエの豪華な衣服にかかるも、オリヴィエはそれに構うことなくその顔色を青褪めた白に染め、シドの手を握りながら医者はまだかと周囲を怒鳴りつけた。


 シドは自身の肉体が限界点を迎えた事を理解した。意識はこの後急速に暗転するだろう。


 そして気付けば再びこの世界に生まれ出でているのだ。


──“次”へ行く前に……


 シドがオリヴィエの手を握った。


 死に逝く者とは思えない程の力がその手には込められていた。


 それに気付いたオリヴィエがシドの顔を見ると、二人の視線が比翼連理の番の如く絡み合う。


 シドの血に塗れた震える手がオリヴィエの頬を撫で…オリヴィエは頬にあてられたシドの手に、己のそれを重ね合わせた。


 ――お慕いしておりました


 思ってもいなかった言葉が、そして内心強く希求していた言葉がシドの唇から漏れると、オリヴィエの表情は瞬く間に二転、三転とした。


 彼は男でもなければ女でもない自身は決して人から愛される事はないと思っていた。


 ある意味で人生の一部を早期に諦めていたのだ。


 まして、自身が心憎からず想っていた相手からほしかった言葉をかけられる…その喜び。


 しかし、喜びの後には絶望が訪れる。


 なぜならどうみてもシドはもうじき死ぬからである。


 これは残酷な仕儀だ。


 少しでも精神が健常ならば、いくらなんでもこのタイミングで睦言などを囁けるはずはない。


 だがシドの精神は健常ではないし、彼はオリヴィエの、喜びから悲哀へと代わる表情の転換が見たかったので特に問題はない。


 オリヴィエの絶望の波動がシドに叩きつけられ、シドは瀕死にも拘らず内心で雄たけびをあげていた。


 ――ウォオオオオォアアア!!! やはりこれだ、心が潤っていくのが分かる。悲しめ!もっと悲しめ!いや、泣け!フゥゥ…もう少し味わっていたい、が


 最期にふっと笑ったシドは全身を脱力させ、オリヴィエの胸元に倒れこむ。


「シド…?」


 オリヴィエの声は幼い響きを伴っていた。


 人は自身に処理しえない悲劇にまみえたとき、肉体に積み重ねてきた精神年齢という名の塔が傾くのかもしれない。


 その時、医者が駆け寄ってきてシドの様子を診て…そして首を横に振った。


 医者や周囲の者達はオリヴィエを気遣わしげにみるが、その表情は完全なる忘我だ。


 優れた拳闘士がこれ以上ないというほど的確に顎部を打ち抜けば人は垂直に倒れこむというが、精神にも同じ事が言える。


 シドの喪失はオリヴィエの精神をこれ以上無く強かに打ち据え、彼は自我を失調したのだ。


「陛下…お気持ちは分かりますが…」


 貴族の1人が軽々しい言葉を発した。


「余の気持ちの、一体何が分かるというのだッ!!」


 良く言えば穏やかで、悪く言えば陰に籠りがちというのが常であったオリヴィエの両眼から怒気の奔流が噴出した。


 暗い怒りがオリヴィエの全身の毛穴から立ち昇るやいなや、オリヴィエは携えていた護身用の短刀の柄を握り締める。


 ――何の、誰の気持ちが分かるというのか


 ――今更誰の気持ちがわかったつもりでいるのだ


 ――今も昔も、私の気持ちを分かってくれていた者はもういない


 負の感情に任せた凶刃が振るわれようとしたその瞬間、その手を止めたのは周囲の者達のいずれでもなかった。


 ――お慕いしておりました


 耳朶に残ったシドの最期の言葉であった。


 シドが誰の為に、何の為に死んだのか。


 それを思えばこの短刀は決して振るってはならない。


 これを振るい、狂してしまえるならばどれだけ楽な事か。


「シド……君は」


 オリヴィエはそれから先を言葉にする事が出来なかった。現存するいかなる言語であっても、今の彼の言葉を明文化する事は出来ないだろう。


 それだけ繊細で、それだけ複雑で、それだけ深いものだったからだ。


 代わりにオリヴィエはシドの遺体を抱き起こし、血に濡れた唇へ自身のそれを落とした。


 死者に接吻をするなど


 ましてや同性で


 その光景を批判しようと思えば、いくらでも言葉を見つける事が出来るだろう。


 しかしその光景を周囲の者達はただ沈黙を以って見つめていた。


 ◆


 オリヴィエ・マルティエラ・フォン・セイルはこの日、真の意味で国王となった。


 男でもなければ女でもない、男でもあるし女でもある半陰陽の若き国王は、男だとか女だとかそういう区分を超越し、“王”という存在へ変容したのである。


 この変容は生物学的な変容ではなく、精神的な変容だ。


 彼は元々自身の肉体的特徴に強いコンプレックスを抱いていたが、シドが死んだこの日、オリヴィエは自身への絶対的な自信を手に入れる。


 想い人からあのような言葉をかけられれば、それにまさる自己承認というものはなく、オリヴィエは自身の肉体についての引け目というものを完全に払拭したのだ。


 元より聡明で才に溢れる若き国王は以後政戦両略において類稀な才を示し、セイル王国はそれから国政の建て直しに成功する。


 これはオリヴィエの才にのみ頼ったからというわけではなく、シドの輝かしい忠義に蒙を啓かられた貴族達、官僚達の力も大きい。


 ・

 ・


 ある日。


 深夜、寝室の壁に立てかけられた一振りの大剣を見ながら、オリヴィエは1人呟いた。


「私を蝕んでいた心の影は取り払われた。国はまだ十全とは言わないまでも健全さを取り戻してきている。冒険者ギルドの掣肘で帝国がセイル王国へ干渉してくることは無いし、王国の未来を覆っていた暗雲は大部分が晴れた」


 でもね、とそこでオリヴィエはグラスに満たした葡萄酒を一息に飲み干した。


 ――君が居ないことが、とても寂しい


 そうですか、と無感情に答えるシドの声が聞こえたような気がした。

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