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当然の事ながら8年の間に色々な事が起こった。
そのほとんどはオリヴィエにとって不快な事だ。
政治の腐敗は甚だしく、オリヴィエが改革を断行しようとしても上級貴族達はこぞって反対し、さらにその改革というのも貴族の手を借りなければならないものである以上オリヴィエは為す術がなかった。
権力を支えるものは何か。
血筋か、法か。
それらも勿論大切な要素ではあるが、なによりも大切なものがある。
それは力である。
暴力と言い換えてもいいが、自身を軽んじるならば相応の目に遭わせてやるぞ、という隠然たる暴力がなければ権力は権力足りえない。
オリヴィエにはそれが決定的に無かった。
いや……オリヴィエにはシドがいる。
シドが只者ではない事をオリヴィエは知っていたが、万が一も彼をも失ったらどうすればいい?
オリヴィエには父も母ももういないのだ。
それにこれが一番大きな点なのだが、オリヴィエはシドを暴力装置として扱いたくはなかった。
オリヴィエがシドに対して貴族に有形力を行使し、意に従わせるよう命じれば実行はしてくれるだろう。
しかしそれをしてしまえば、オリヴィエとシドの関係はもはや何の熱も通わないものになってしまうのではないか……彼はそれを何よりも恐れていた。
この不安は彼の潔癖な一面が影響している。
この潔癖さが幼いオリヴィエをして大人達に心の扉を開かなかった理由でもあった。
幼いオリヴィエは気付いていたのだ。
セイル王国の政治の腐敗が甚だしい事を。
政治の腐敗とは何かといえば、例えば賄賂を受取ったりコネのあるものを権力を利用して要職につけたり、そういう直接的な事を言うのではない。
それを佳しと考えない者達が声をあげる事が出来ないように有形無形の圧力をかける事……それが罷り通ってしまう政治の状態を腐敗しているという。
聡明なオリヴィエはそういった概念を明文化こそ出来なかったものの、感覚として理解していたのだ。
そしてそのような政治の状態を作り出し、そして継続させようとしている周囲の大人達が、オリヴィエの眼にはまるで頭から糞尿を被って周囲に汚臭を撒き散らしているが如き存在に見えて仕方なかったのである。
権力を、立場を利用してシドの力を自身の権勢拡大に利用するというのは、あるいは自身が嫌っていた汚職貴族達を同一の存在に堕落してしまうのではないかという不安がオリヴィエにはある。
まあ仮にシドがオリヴィエの振るう断罪の剣となれといわれれば、黙って頷き躊躇の無い暴力を振るい、其れに対して特に何かを思う事もないであろうが。
ともあれ貴族の殆どはオリヴィエを傀儡にしようと目論む者ばかりであった。
当初はオリヴィエを物理的に廃そうと刺客が送り込まれる事も多かったのだが、シドがその全てを排除した。
貴族達は当然シドを懐柔しようと金や女が積まれたが、シドは何一つ受け取る事はなかった。
これは忠誠心云々の理由ではなく、理由がある、
というのも、シドはこの頃には少し考えを変えていたのだ。
つまりたまには違う嗜好も悪くはないだろう、という事だ。
シドは男でもいけるし女でもいける。
なんだったら美醜すらも問わない。
シドが相手に求める事はただ一つ。
真摯なる想いで心からシドを欲している事、ただそれだけであった。
まあ流石のシドも、オリヴィエが男でもなければ女でもなく、また、男でもあり女でもある事などは想像すらしていなかったが。
兎にも角にもそういう意味でここ最近のオリヴィエのシドへの傾倒ぶりは、シドをして及第点を出しても構わないという程度には水準を満たしていた。
何様だという話ではあるが。
だが如何にして事を進めるか?
ただ悲しませる……というのはシドの趣味ではない。
シドは現状を確認する。
・帝国からは事実上の隷属国として置かれ、毎年品質の良い鉱石を納めねばならない
・それに逆らえば帝国から懲罰軍が派遣され、そして再び血が流される
・貴族達は王に権威なしとしてオリヴィエを侮り、そして利権を貪っている
この辺りを一気に解決する方法は……ある。
最後の点……貴族達の王への侮りは、セイル王国の現状への失望が招いているという事もここ最近の調べでわかった事だ。
──都合が良い。 事がうまく運べば、この最後の点は綺麗さっぱりと解決できるだろう
シドは邪悪に嗤う!
◆
その日の夜、シドはオリヴィエの寝室を訪れ、とある話を持ち掛けた。
「なっ……それは、それは無謀すぎる! 認められるわけがないだろう!」
案の定オリヴィエはシドの提案を拒んだが、シドはここが正念場とばかりに両の眼に力を込めた。
シドの凄烈な視線がオリヴィエを貫くと、オリヴィエは下腹部に妙な熱を覚える。
そしてオリヴィエの心の態勢を崩したと感じたシドは、一気にその距離を詰め、オリヴィエのまるで白魚のような手を両手で握りしめた。
──体温の上昇を確認
だが勝負とは"押さば押せ、ひたすら押せ"という様に、有利な時こそ更に勢いという炎に薪をくべねばならないのだ。
シドはグイグイとオリヴィエに顔を近づけ、一気に言葉の奔流を浴びせた。
「サーキュラ公爵家が裏で動いています。既にレグナム西域帝国の有力な貴族を複数取り込んでおりますれば。セイル王国からの見返りは通常帝国に納める3年分の魔鉱石。それはそれで財政に打撃とはなりますが、それ以上はありません」
無口を常としていたシドがこの時ばかりは饒舌であった。
雄弁は銀、沈黙は金。
ただしこれには裏の意味がある。
普段は沈黙しているからこそここぞと言う時の雄弁が金以上の価値を持つ、という事だ。
シドの言葉の奔流は不可視の鎖となり、オリヴィエの精神を渾身の力で束縛した。
オリヴィエはシドの爛々と輝く瞳から眼を逸らすことが出来ない。
「帝国はセイル王国から搾取した財をそのまま軍事力に転用しており、帝国貴族への分け前はないも同然です。彼等からすれば、ここでセイル王国からの搾取に対し掣肘すれば一時とはいえど多大な財を得る事になるのですから、協力を取り付ける事は簡単でした」
「大義名分も御座います。セイル王国は敗戦における一般的な賠償金を既に支払っております。それを理由に、これ以上の搾取は適当ではない……そういう筋道を立てます。帝国側としても大義名分があればそれを理由に方針変更が出来るでしょう。名分がなければ面子が邪魔をしますからね」
「だが口約束では意味がない。だからそれらの約を冒険者ギルドを通して守らせます。私はこれでも冒険者ギルドではそれなりに名が通っておりますし、ギルドとしても半端な仕事はしないでしょう。ご存じの通り、冒険者ギルドはレグナム西域帝国の権勢に屈さぬ数少ない組織です。セイル王国が再び翼を得るには、もはやここで決断をする以外にございません」
結局オリヴィエは喘ぐような呼吸と共に、か細い声でシドの提案を受け入れた。
この時シドは多分の嘘に僅かな真実を混ぜ込んだ。
嘘とは有力な貴族云々の下りで、真実は冒険者ギルド云々のくだりだ。
嘘が発覚した時にはもはや取返しがつかないことになっているはずなので何の問題もなかった。
大体シドがやろうとしている事を真にオリヴィエが察知していたなら、兵を動かしてでもシドを食い止めようとしていただろう。
──オリヴィエはうまく説得できた。あとはギルドへ話を通しておくか。そして……
オリヴィエの部屋を辞したシドは、自室で一通の文をしたためた。
これは“全て”が済んだ後、オリヴィエに読んでもらう為に書いたものだ。
◆
数日後。
シドは眼前に展開するレグナム西域帝国セイル王国懲罰軍の軍勢を色の無い視線で見渡していた。
シドが見る所、五千はいる。
──問題はどの程度までやるか、だが
そう、シドの提案によりオリヴィエ、ひいてはセイル王国はこの年の上納を取りやめると帝国へ通達したのだ。
この通達案に対してセイル王国の貴族達は顔を真っ赤にして反対したが、シドが"説得"をする事で理解を得た。
なお、この説得とは先立ってオリヴィエへ語った条理と、暴力をちらつかせる事による不条理の、双方からなる説得だ。
セイル王国の貴族としても帝国の頚城(くびき)から解き放たれるのならば、とシドの話を受け入れた。
もしシドが本当に帝国貴族の協力を取り付けられていたのならば話はここで終わったのだが、あいにくそういうわけにもいかず、シドは僅かな手勢を連れて共に帝国軍と最終的な交渉をする為に、と出向いていったのだ。
オリヴィエもセイル王国の貴族も、まさかシドが帝国軍と一戦交えるなどとは、ましてやただの一人で挑むとは思ってもいなかったに違いない。
勿論シドが連れてきた手勢の者達もだ。
「シ、シド殿!? あれは、あれはどういうことなのですか!? 帝国は我々と交渉をしにきたはずでは……あれではまるで、セイル王国への懲罰軍の様ではないですか!」
文官の一人がそうつげると、シドは真実を告げた。
衝撃という名のこん棒が文官の膝を叩き砕いたかのように、その文官は地面へ座り込んでしまう。
他の者達も似たり寄ったりの反応だった。
しかしシドはそんな彼等に一瞥をくれるなり、これからの"手順"に思いを馳せる。
──命を触媒とし、"デカいの"を数発も打ち込んでやれば皆殺しには出来るだろう。だがそれでは意味がない。帝国は威信にかけて復讐の誓いをかたくするはずだ。星術を使えば俺は死に、そうなればセイル王国自体が消滅してしまう。それでは意味が無い。深刻な損害を与えるには与えるが、帝国が損得計算をしてくれる範疇内に納めねばならない
シドは一見真っ当な事を考えているように見えるが、『“獲物”の前で死んで滅茶苦茶に悲しませて、その悲しみを味わうのがサイコーなんだから、戦場でくたばったら何の意味もないだろ』というのがシドの本音である。
かといって、手心を加えて損害軽微とするにもいかなかった。
セイル王国侮りがたしと帝国軍に知らしめねばならないのだから。
ならば、とシドの両手がまるで狼がその顎を開いているかの様に構えられた。
──糾える縛鎖、打たれし封杭
──我が瞋恚の剣にて此れを絶つ
──―吼えろ氷狼、
シドが使おうとしているのは大気中及び地中の水分を凝固させて氷の槍と化し、それらを上方、下方の両方から突き出す氷結術式だ。
巨大な氷の狼が噛みついたかのように広い範囲を鋭利な"牙"で咬み貫く。
協会式魔術でも大魔術に分類されるこの術は、かつて西域を荒らしまわっていた月魔狼フェンリークにちなんで開発された。
その名も
──
牙に見立てたシドの上掌が下方に、下掌が上方へ勢いよく"咬み"合わされ、瞬間、何百何千もの氷の槍が懲罰軍へと襲い掛かった。
氷片が乱舞し、太陽の光が反射する。
虹色に輝く雪がひらひらと戦場を舞うような、そんな幻想的な光景を帝国兵達はその目に焼き付けて、千を超える命が一時に失われた。
シドの鎧の中心部にはめこんであった触媒が砕け散る。これはセイル王国産の特別な触媒だ。
シドをして先ほどの大魔術は素のままで使用するには厳しい。
闘争の嚆矢としては十分すぎるほどの一撃を見届けたシドは、大剣を構えつつ雄叫びを上げながら帝国軍へと躍りかかった。
◆
氷の大魔術は懲罰軍の態勢を盛大に崩し、また死傷者も夥しい。
そこへ躍りかかってきたシドはたちまちのうちに1人斬り2人斬り、10人斬り20人を斬り、斬殺数が100に至ってなお帝国兵達はシドを止める事が出来ない。
だが帝国兵もただやられるだけではなく、取り囲んで槍を突き出したり、術撃を浴びせかけたりとシドも無傷ではいられない。
やがて左手の肘から先が斬り飛ばされた時、シドは大音声で自身の正体を告げた。
帝国軍にどよめきが走る。
シドが正体を伝えたかった相手は指揮官階級以上の者だ。
およそ戦を生業とする者で『禍剣』の名を知らない者はいない。
一子相伝の剣術を累々と継承し続けている、大陸でも3名しかいない黒金等級の冒険者は広く畏怖されている。
『禍剣』の何が恐ろしいかといえば、本人の戦闘能力は勿論の事、例え殺してもすぐに次の『禍剣』が現れるという点である。
この種はといえばシドの輪廻の呪いであるのだが、多くの者はそれを知らないため、『禍剣』とはその存在自体ギルドがつくりだしたもので、ギルドにとって都合の悪い存在を葬るための実働部隊だと思っている者も少なくない。
勿論それは間違いだ。
冒険者ギルドの実働部隊は別にちゃんといる。
ともかく帝国側の認識としても、下手に手を出せば容易には排除できない者に延々とつき纏われるという具合であって、懲罰軍の指揮官は多大な損害を出しながらも退却を選択せざるを得なかった。
ところで組織に属さずともどうとでもなるシドではあるが、それでも冒険者ギルドに登録しているのは理由がある。
それは自身の陰湿な欲望を満たすためには、時には直接的な暴力以外の力も必要であるというものだ。
例えば今回のように。
シドにとって暴力を以ってレグナム西域帝国の懲罰軍を屈服させる事は容易い事だが、暴力を以ってその後の帝国軍の復讐心などを抑制させるのはシドをして困難だ。
だからシドはギルドの影響力を利用した。
帝国と冒険者ギルドの間で約を結ばせる事は、かがり火の燃料となる薪に水をかけることに等しい。
薪という復讐心の源があったとしても、薪に多分に水分が含まれていたならば火はつきにくいだろう。
勿論ギルドとてただただシドに利用されるばかりではなく、ギルドに不利益を齎す者……例えば裏切り者だとかそういう者を始末させたり、あるいはギルドの要人を護衛させたりと便利使いしている事も少なくないため、両者の関係は持ちつ持たれつといえる。