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ルピスは子を孕み、それを産んだ。
女児だ。
女児はフェリシアと名付けられた。
早産だったが、母子ともに健康体である。
さてここからがルイオスの、いいや、シリカの仕掛けなのだがここで誤算が起きた。
ルイオスに親心が生まれたのだ。
早産ゆえか、常よりか弱く見える娘の姿をみて、ルイオスは陳腐な言い方だが反省をした。
とてもではないが幼い娘を殺そうなどとは思えなかった。
か弱い、そして愛すべき娘を産んでくれた妻の事もだ。
こうなると困るのがシリカである。
己の欲を充足させるためにこれまでどれだけの準備をしてきたのか。
年単位の計画だった。
シリカも財産を大分放出した。
それもこれも、未来の貴族生活の為である。
なにより、金では替えられぬモノも失ったのだ。
それは年齢である。
たかが3年。
しかし、されど3年。
シリカのように春をひさぐ女にとって、3年という年月がどれ程の価値を持つか。
シリカは、腹の底にどす黒く燃える炎の塊がうまれるのを感得した。
だが、だがなによりも耐え難い事があった。
ルイオスの変心である。
もはや娼館へ通う事もできない、だと?
あれだけ私の身体を貪っておいてそれか?
シリカの偽らざる本心であった。
ましてや、シリカの粗製ではない愛に似た何かがルイオスへ注がれ始めていた矢先の事だ。
だが、彼女はその噴飯を一片も表に出す事はなく、内に潜め、逆にルイオスに言った。
「実を言うとね、ルイオス。私もこれまで貴方と身体を重ね、言葉を重ねているうちに自分の行動が酷く醜いものだと理解してしまって…世の中、お金とか権力よりも大切な…尊いものがあると気付いた所なの。だから謝らせて。貴方にとんでもない過ちを犯させてしまうところだったわ」
ルイオスはシリカの謝罪を受け入れ、少なくとも彼の中ではシリカとの関係は愛人関係でも恋人関係でもなく、ましてや娼婦と客でもなく、一時の熱情の残滓、少し煤けた友人関係のようなものとして位置づけられた。
当然シリカは全く納得などはしていない。
暫くは大人しくしてルイオスと文などを交わしていた。
やがて、シリカは文に仕事が続けられなくなった事を書き記す。
心ない貴族により酷く痛めつけられ、心が男性を恐怖しもはや仕事を続ける事ができないのだと。
ついてはルイオスの屋敷で使用人として雇ってはくれないかと。
ルイオスはそれを受け入れてしまった。
金でも渡して済ませればよいものを、家族愛に目覚め、善性が表出した彼はかつての“友人”にすげない真似ができなかったのだ。
愚かさというのも度を越えれば悲しみを覚えるというが、ルイオスの更生擬きはまさにそれであった。
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まんまとルベラベラ子爵家へ潜りこんだシリカは、直ぐに何かをしでかすという事もなく暫くは真面目に働き、周囲からの信頼も得た。
当主であるルピスとも言葉を交わすようになり、時には幼い娘の様子をみているようにと頼まれることすらもあった。
シリカは己が暴走しかけている、いや、すでに暴走しているという事に薄々気付いている。
だが僅かに残された理性はシリカの悪意を止めようとはしなかった。
愛に似た何かを抱くようになってしまった男が妻に優しく接するのを見て、そして男とその妻、子供が3人揃って幸せそうにしているのを見て、シリカの精神は加速度的に破滅の淵へと進んでいった。
感情に限った話ではないが、万理万象は一定の閾値を超えてしまうと、それ自体が破滅なり破壊なりされてしまうまで止められなくなるものなのかも知れない。
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シリカはもはや発覚と言うものを恐れはしなかった。
というより己諸共ルイオスもルピスもその娘であるフェリシアも破滅してしまえとすら思っていた。
だから検知の事など考えずに堂々と毒を使った。
シリカは既に信頼を得ている身である。
毒物を持ち込むのも、それを使うのも容易かった。
シリカがどこから毒を得ていたのかといえば、それは亡国の者達からだ。
レグナム西域帝国の領土拡張主義を根幹とした政策が生んだのは、侵略につぐ侵略である。
帝国は急速に領土を拡張し、雪だるま式に恨みやつらみを受けるに至った。
なぜ帝国は此れ程までに領土の拡大を求めるのかといえば、それは誰にも答える事が出来ない。
ただ、権力を持ったものが老境に至り、そして狂えばこうなる確率は決して低くは無い。
それは歴史が証明している事である。
自身が生きた証を残したいという老醜の極致。
本人からすれば何がしかの筋は通っているのかもしれないが、周辺諸国からすれば厄介な事は甚だしいといえよう。
そうした亡国の徒は帝国の各地に散り、あるものは小国へもぐりこみ、あるものは大陸最大勢力を誇る宗教組織へ潜りこみ…と混乱と戦乱の火種は広がっていくのだが、それはまた別の話である。
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「う…ぐ……っ…!?」
ある日、ルイオスが倒れた。
間の悪い事に、ルベラベラ子爵家のお抱えの医師は薬の材料を仕入れに数日の間留守としていた。
そんなものは使いなりを送ればいい話かもしれないが、医術に使う薬の材料というのは磨きぬいた知見をもってしなければその良し悪しが分からないものであり、特にこの医師は自身で足を動かして仕事道具を仕入れるというマメさを持っていた。
通常そういったマメさは良い方向へ作用するものだが、今回ばかりは運が悪い。
医師のマメさがルイオスを殺す事になる。
ルイオスは急速に衰弱し、そして死んだ。
シリカは朽ちていくルイオスを見て、一粒の涙を零した。
それが愛の残滓であったかどうかはシリカに聞かなければ分からないだろう。
そして直ぐにルピスの体調が崩れた。
ルイオスと同じ症状だ。
彼女は自身の衰弱具合から、残された時間は余り多くは無い事を知った。
――でも、一体何者が
ルピスが思い至ったのはシリカだ。
だが、彼女は使用人の公募に応募してきた女性であり、その背景は当然洗ってある。
極々普通の農村出身の、極々普通の娘であった。
その経歴に一切の瑕疵はなく、不審な点も見当たらなかったはずだ。
まあその経歴とやらも、実はルイオスが手を加えていたのだが。
過不足なくシリカを雇う為の配慮とでもルイオスは言いたいのだろうか。
だが彼は既に死んでしまったので、その真意は分からない。
当然ルピスにだって真相は分からない。
――シリカが私達を害する理由はない
そう思っていたのは文字通り束の間に過ぎなかった。
ある日、病床にあるルピスは水を求めると、シリカが水差しを持ってきた。
ルピスはシリカの眼を見る。
それは暗い冥い、まるで底無しの穴の様な目であった。
理由は分からない。
だがシリカが下手人だ。
ルピスはそう考えた。
しかし、だからどうしたというのだろうか。
シリカが下手人だとして、だから何がどう変わるのだろうか?
根拠、証拠。そんなものは無いのだ。
そしてそれを探るだけの時間も残されてはいないだろう。
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「こ、これは…もはや……」
戻ってきたルベラベラお抱えの医師は押っ取り刀でルピスを診察するも、早々に匙を投げた。
シリカが使った毒物と言うのは貴族が貴族を殺す為の毒物だ。
そういった毒物に侵されたならば、初動の治療が遅れれば大体死ぬ。
ルピスは医師の激しい狼狽をみて、自身の死を確信し、同時に1つの覚悟を決めた。
娘に業を背負わせる覚悟を決めたのである。
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ルピスは娘を連れてこさせ、呪いをかけた。
呪いであり加護でもあるその術は、あらゆる毒物を無毒なものとする代わりに、その身を毒の源泉とするものであった。
呼気、体液、皮膚の一片、あらゆるものが致命的な猛毒となる。
例えば彼女が何かに恐怖を感じ怯えれば、その肉体より滴る汗はたちまちに空気中に拡散する毒霧と変じ、周辺の者共を毒殺せしめるであろう。
この術を解くためには陳腐な言い方だが愛を証明しなければならない。
愛とは何か。
そんなものは人それぞれでしかないのだが、ルピスが定めた愛の形とは、自身の命よりもその者の命を上位に置く事だ。
命に勝る財はなく、唯一無二の財を捨てさってでもフェリシアを選べる者でなければ術は解けない。
すなわち、死毒充ちる彼女の身を抱き締め、彼女の毒を全て自身の身の内へと満たす事である。
なんらかの手段をもって毒を防いではならない。
愛に保険をかけるなどもってのほかだ。
常軌を逸した強い肉体と、狂気的なほどに強い心、なによりフェリシアへの愛なくしては出来ない事だが、フェリシアを愛し、その身を護り支えるというのであれば、生半可な者では勤まらないとみた母の気配り…とみていいのかどうか。
ルピスもまた瀕死である以上、娘を護るという一念だけに支配され、正常な判断ができなかったというのが妥当なところであろうか。
容易に解術できたら意味がないとはいえ、ルピスに今一つ余裕があったなら決してこのような条件を設定する事は無かっただろうに。
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ルピスは死んだ。
それも苦しみぬいて死んだ。
死後、彼女の病床を片付けた者はその悍ましさに吐き気を抑えきれなかった程だという。
だが彼女の残した術はフェリシアに宿った。
娘を護らんとする母の愛とはお世辞にも言えないだろう。
この毒の護りは彼女を長きに渡って苦しめる事になるであろう事は明々白々だったからだ。
ともあれフェリシアに宿った毒の護りは早々に"仕事"をする事になった。
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「ィギャァアアアアアアァァアッッ!!!!!」
ルベラベラ子爵邸に響く絶叫。
それはシリカのものだった。
屋敷の者が慌てて駆けつけると、そこには美しい相貌を持つ妙齢の侍女の姿はなく、全身を焼け爛れさせた屍人の如きモノが床でイモムシの様に蠢いていた。
そう、イモムシの様に、だ。
彼女の四肢は千切れてしまっている。
それを色を失った瞳で見つめる幼女がいた。
フェリシアだ。
シリカにとって憎しみと愛の対象であるルイオスと、嫉妬と憎しみの対象であるルピスの子供。
それを直接手に掛けようとした末路が"これ"であった。
フェリシアの細く白い首に手をかけたシリカは、両手に力を籠める前に死毒に侵され、まるで化物のような姿となって呻き苦しむ事となったのだ。
使用人達の前で見る見る内に肉を蕩けさせ、骨をむき出しにそのかつては美しかった肢体をグロテスクに崩壊させ、シリカは床の染みとなった。
爾来、フェリシアは誰一人として触れられぬ"紫毒姫"として生きる事になる。
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周囲の人々から恐れられ、忌避され、隔離され。
そんな生活に子供の精神がどれほど耐えうるだろうか?
まもなくフェリシアの精神の均衡が崩れたのは当然の帰結であった。
とはいえ彼女はルベラベラ子爵家の当主である。
彼女を護る者や世話をする者は必要だ。
そこで抜擢されたのがシド・デインだ。
黒金級冒険者…当代『禍剣』、シド。
当代の、というのは先述した通りだ。
世間一般では『禍剣』は一子相伝の剣術を継承した者が~、だとか勝手な事を言われている。
これは世間への説明のためにでっちあげられた口実で、実際は昔の『禍剣』も現在の『禍剣』も同一のシドだ。
肉体は度々替えられているが、人間が人間たる所以はその精神にある為、肉体が変わったとしても精神の継承が過不足なく行われているならばそれは同一人物なのだ。
子爵家の財産の大半を放出して、シドは暫くの間フェリシアの生活の手助けや、その護衛をする事となった。
彼に口を利いてくれたのは、何をかくそうフォード男爵家である。
ルイオスの薄暗いたくらみは結局明るみにはでなかったが、それはそれだ。
フォード男爵家としては息子どころか当代のルベラベラ子爵までもが死亡し、爵位を継いだ娘が毒気で近寄る事もできないという地獄のような状況を流石に見過ごす事はできなかった。
一応フェリシアは当代のフォード男爵の義理の孫にあたるのだから。
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「近寄らないで、ください。私からは毒が…」
言いかけた幼いフェリシアの肩を武骨な手が優しくつかむ。
その手には何か星にも似た白い光が宿っており、フェリシアから立ち上る毒気をうけてもその肌が爛れる事はなかった。
当然だ。
シドほどの戦士ともなれば燃え盛る炎に手をかざしても、全身を流動する魔力が肉体を保護するだろう。
彼を傷つけるには互する魔力を込めて防護を貫くしかない。
「お嬢様、君が俺を殺すには2000年程早い。さあ、立って。食事の時間だろう?」
シドが手を差し伸べると、幼いフェリシアはおそるおそるその手を取った。
毒が、シドの手を傷つける事は無かった。
破滅的なまでの勢いで均衡を崩し崩壊も間近であったフェリシアの精神は、その日から安定を取り戻す事と相なったのである。