何の音だ?
不審に思って窓の方を振り返る。そこには猫が居た。茶トラの、猫。
無類の猫好きである俺は思わず目を丸くした。いや、この場合無類の猫好きはあんまり関係無い。猫が見られて嬉しいと云うのは確かにあったが、それ以前の問題だ。だって、その猫は二足歩行の姿勢で、宙に浮かんで、窓をノックしていたのだから。
流石の俺も動きが固まる。三十年生きて来て、多少不思議な出来事はあったし、何より今こうして少女の体で異世界で生きている事がもう不思議でしかないのだが、猫が人間の様な姿勢で宙に浮かんで窓をノックしている、と云う目の前の事実が、俺にはショックだった。
猫は俺が振り向いたのを見ると嬉しそうに笑って、窓を開ける様にジェスチャーして訴えて来た。微かに、開けて開けて、と人間の様な声まで聞こえて来る。
俺はまず室内を見回した。ドッキリか? ならカメラがある筈……しかしぱっと見ただけでは見付からなかった。その上猫が「早く早くー!」と急かしてくるものだから、俺は意を決して恐る恐る窓に近付いて――クレセント錠を回し、窓を開けた。
「君が夢ちゃんだね! 俺はケット・シーのダヒ! ケット・シーってのはね、猫の貴族とも呼ばれる妖精さんだよ。君達みたいに二本足で歩いて、喋って、その上魔法も使えるんだから!」
「アイルランドの妖精が何で日本に居るんだよ」
思わず素が出た。
自称ケット・シーは目をぱちくりさせて、それから笑った。
「何だか子供らしからぬ喋り方だね。でも……うんうん、確かに夢ちゃんから魔法少女の素質を感じるよ。夢ちゃん、お願いだ。僕と契約して魔法少女に」
「だが断るッ」
「早っ!!」
ショックを受けた様な仕草をするケット・シー。いやだってやばいだろ。版権的にも。
「どうしてだよ夢ちゃん。女の子の憧れでしょ? 魔法少女って。ふりふりで可愛い衣装、つよーい魔法。悪い奴をやっつける! ね?」
「いや、ね?じゃないから。普通に危険だしやりたくない。可愛子ぶられても」
「……にゃんだか冷めてるね? おかしいにゃあ。確かに夢ちゃんからは強い魔法少女の素質を感じるのに」
自称ケット・シーは左前脚を顎に当て、うーんと首を傾げて見せた。それから何か思い付いた様な仕草をすると、目を閉じて両前足を俺に翳し、何やら呪文めいた言葉をぶつぶつと呟き始めた。
「……魂が、別人?」
ぎくりとした。思わず目を見開く。
「じゃあこの素質は……いや、夢ちゃんの魂も肉体に残ってるにゃ。じゃあ、今俺と喋っているのは……」
呟いていた猫が目を見開いて俺を見る。
「君は、誰?」
俺は夢ちゃんの魂が残っている事に安堵しながら、観念して事情を話して聞かせた。すると猫はうんうんと頷いて、納得した様子を見せる。
「にゃるほどにゃー。それってつまり……」
「つまり?」
「こっちの世界の神様が、丁度夢ちゃんが死んじゃうタイミングで死んだ君の魂を見付けて、夢ちゃんが回復するまで仮の魂として肉体に君の魂を押し込んだって訳だにゃ!」
「いやどう云う訳だよ」
意味が分からない。
「詳しく話してあげるから、お部屋に入れて欲しいにゃ」
浮かぶ猫と話しているところをご近所さんに見られたら俺と云うか夢ちゃんの立場が危うい。自称ケット・シーに云われて気付いた俺は、彼を室内へと招き入れ窓を閉めた。
「まま、座るにゃ」
夢ちゃんの部屋なのに何故か猫に促され俺は部屋の中央に置かれた折り畳み式のローテーブルを前にして座った。自称ケット・シーはテーブルの上にぷかぷかと浮かぶ。
「夢ちゃんは車に轢かれて、肉体的にも精神的にも強いショックを受けたのにゃ。肉体的にゃショックは怪我だから病院で治療出来るけど、精神的ショックはそうもいかにゃい。仮死状態みたいにゃ感じだにゃ」
分かる?と云われ、俺は曖昧に頷いた。
こんな小さな子があんな強烈な衝撃に、肉体的に何とか耐えられたとしても、心が付いていかないと云うのは何となく分かる。酷く痛かっただろうし、すぐに意識が飛ばなかったとしたら、それはかなりの恐怖だろう。俺だって死ぬ瞬間を思い出した時、肉体も無いのに冷や汗をかく思いだった。
「でも、魔法少女の強い素質を持つ夢ちゃんには、死にゃれたら困る。にゃんとか夢ちゃんをこの世に留めたいと思った神様は、夢ちゃんの精神がショックから立ちにゃおれるまで肉体を維持する為の仮の魂として、同じタイミングで死んだ君を夢ちゃんの体に押し込んだのにゃ」
「そこが分からないな。そもそもどうして魔法少女が必要なんだ? 強い素質って、他に同程度の素質を持つ子は居ないのか?」
俺が根本的な事を問うと、そいつは猫のくせに酷く深刻な顔をして語り出した。