「若葉ちゃん……どこ行っちゃったんだ……」
俺は小さな胸に左の拳を当て、不安げに曇天の空を見上げて呟いた。
若葉ちゃんは俺の幼馴染みで、名前の通り若葉色の長い髪を左右の低い位置で結って体の前側に垂らしている、丸眼鏡をかけた少女だ。
下がり眉でいつもおどおどして、俺の後ろに隠れている様なタイプ。
決して家出なんてする様な子じゃない。それがもう、一晩家に帰っていなかった。
「夢ちゃん! 若葉ちゃんだけじゃにゃいにゃ! この街に住む十歳から十三歳の少女がにゃん人も行方不明だにゃ」
「夢ちゃんって呼ぶなよ!」
夢、というのは俺の名前だ。俺を呼んだのはケット・シーを自称する二足歩行で宙にも浮かんじゃう茶トラの猫。個体名はダヒと云うそうだ。
彼は善い妖精の代表格で、悪い行いをする妖精達を正す為に人間の世界へ魔法を携えやって来たと云う。
その魔法を人間の少女に貸し与え、少女は魔法の力で変身し、魔法少女として悪い妖精をやっつけるのだ。少女……それも十歳から十三歳の少女に限るらしい。なんでも、幼ければ幼い程人間は妖精界や魔法との親和性が高く、大人になると共に失われていくのだそうだ。しかしあまりに幼ければ戦えない。親和性と子供の情緒などを考えると、十歳から十三歳がぎりぎりのところなんだとダヒは云った。
そして少年ではなく少女である理由は、「大抵の場合少女の方が魔法との親和性が高い」為と云う。
「うるせえ。俺が守るのは俺の手の届く範囲だけだ。名前も知らない他のクラスや他校の子供なんざ知るか」
吐き捨てる様に云って俺は再び歩き出す。早く若葉ちゃんを探さねば。どこかで怪我をして動けず心細さに泣いているかもしれない。六月とは云え北海道だ、今朝はかなり冷え込んでいた。水も食料も無いなら、小さい子にとっては限界が近い筈。
「夢ちゃん! 女の子が、それも正義の魔法少女がそんにゃ言葉遣いしちゃ駄目だにゃ! もっと十歳の少女だって云う自覚を持つにゃ!」
ダヒが喚く。そう、俺は十歳の少女だ。それも魔法少女なのだ。それが何だってこんな言葉遣いをしているかと云うと……。
「黙れ! 俺は……俺は……三十歳のおっさんなんだぞ!!」
思わず立ち止まって叫んでからはっとして口を覆う。きょろきょろと辺りを見回すが、幸い人気は無く、ほっと息を吐いた。再び歩き出す。
「それは前世の話だにゃ。今は夢ちゃんって云う十歳の少女にゃんだから、ちゃんとそれらしくするにゃ」
「だから人前ではそうしてるだろ。今はお前と二人なんだから、素で居させろよな」
「そんなんじゃいつかボロが出るにゃ。普段から気を付けておく方が良いにゃよ。俺だって君を夢ちゃんと呼ぶには抵抗あるけど、これからにゃかまが増えた時に彼女達の前でまで君を君と呼んでいたら、訝しまれるかもしれにゃいんにゃから」
ご尤も。でも癪なので、ダヒの言葉を無視して歩を進める事にした。
そう、俺には前世の記憶がある。三十歳まで無難に生きた男の記憶。
三十歳の誕生日、仕事を終え、こんな歳まで童貞である自分に乾杯、と自宅で缶ビールを傾けていたら……死んだ。心臓発作だった。持病は特に無かったが、そう云う人間の心臓発作は意外とある事らしい。締め付けられる様な胸の痛みと酷い冷や汗、のちに痙攣が出て、気付いたら死んでいた。
自分の肉体から遠退いていくのが分かって、ああ、あの世に行くのか、先ずは裁判だっけ、めちゃくちゃ長いんだよなあ……そうぼんやり思っていた。俺の肉体から光のコードが俺の胸に繋がっていて、これが霊体と肉体を繋ぐと云うシルバーコードか、なんてスピリチュアルな事を思い、それが段々細く長くなっていき、やがて切れる……そう思った瞬間、コードを巨大な光の手が掴んだ。
えっ、と思う間も無く引っ張られ、何か薄い膜の様な物を通過し、通過し、また通過して、段々と意識が遠退き――気付いたら小学生女児になっていた。
何を云っているか(ry
顔には酸素マスク、胸には心電図のパッド、腕には点滴のチューブが繋がっていて、俺は殆ど体も顔も動かせなかった。辛うじて動かせる眼球が見せる視界も酷く滲んでいて、天井が真っ白なのと自分の体の状況から、先ずここは病院なんだと思った。最後の記憶がビールを飲んでいるところだったから、多分倒れて、誰かが発見してくれて、救急車を呼んでくれたんだろうと思った。
次第に聴覚が戻って来て、女性のすすり泣く声が聞こえて来た。大丈夫、絶対に大丈夫だからと励ます男性の声も聞こえた。一瞬実家の両親かと思ったが、それにしては声が若い気がした。殆ど動かない首を僅かに傾け、あとは必死に眼球を動かす。そこには三十代の男女が居た。徐々に視界も戻ってはっきりと見える様になる。見知らぬ人達だった。
「夢!」
女性が叫んで俺に縋って来る。当然だが俺は夢なんて可愛い名前じゃない。混乱している俺に、男性の方が
「漸く起きたな、寝坊助さん」
と、涙を堪えた笑顔で云った。
俺が呆然としていると、女性の方がハッとして「な、ナースコールしなきゃ」と俺の枕元に手を伸ばした。その手が妙に大きく見えて、女性の手なのに変なの、と思った。
その内に医者と看護師達が駆け込んで来て、俺の体を調べ、
「奇跡だ……」
と呟いた。
俺も同じ事を思っていた。奇跡が起きたのだ。
その頃には俺は自分が死んで、肉体から離れ、そして巨大な光の手にどこかへ連れて行かれた事を思い出していた。
俺は理解していた。死んだ俺の魂を、この肉体に押し込めた何者かが居るのだ。この……死にかけた、少女の肉体に。
だから女性の手が妙に大きく感じられたのだ。俺が……この体が、小さいから。
暫くして両親は医師に連れられて病室を出て行った。説明とか手続きとか色々あるんだろう。看護師が暫く残っていたが、俺が大丈夫そうだと分かるとまたね、と手を振って出て行った。
俺はベッドに上体を起こして、ぼんやりしていた。
どうしてよりによって女児なんだろうとか、俺がここに居る事で本来の少女はどこへ行ったのかとか、色々考えたが何も分からなかった。
ただ一つ分かるのは。
「……俺、生きてる」
安堵と、絶望を感じている事だった。