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第3話

 やっと週末がやってきた。


 今週も取引先や社内での調整に追われ、気づけばあっという間に一週間が過ぎていた。商談は無事に成功し、少しの満足感とともに、週末の静けさが心地よい。


 だが、何かが足りない。今の私は、現実の仕事だけでは満たされなくなっている。


 いつものデスクに書類を片付け、家に戻ると、自然と次の行動に移っていた。


 VRヘッドセットを手に取り、ゲームの世界へと飛び込む準備をする。体をソファに沈め、心が静かに高鳴る。


「クラフテッドワールド」の世界が、私を待っている。


 電源を入れ、ヘッドセットを装着すると、現実がゆっくりと遠のいていく。


 心地よい感覚が体を包み込み、視界が仮想世界へと切り替わる。


 光が消え、次に目を開けると、そこには広大なフィールドが広がっていた。


 青い空、豊かな大地、そしてその先に広がる町並みが見える。現実とは違う、どこか鮮やかで息を呑むような景色が広がっている。


「やっぱり、この世界だな」


 私が現実で感じる緊張やストレスは、ここでは消えてしまう。


 この世界では、私はただの営業マンではなく、交渉人という重要な役割を担う。


 力はないが、言葉ひとつで魔王や勇者といった強大な存在を動かせる、特別な存在だ。


 現実では、どんなに頑張っても自分一人で世界を変えることなんてできない。


 営業の成績が上がろうが、会社の一部にしか影響を与えられない。けれど、この「クラフテッドワールズ」では、私の行動ひとつで未来が変わる。


 ここでは、私が誰かの人生を左右することができるんだ。


 この仮想世界では、NPCたちも生きているかのように振る舞う。


 彼らの感情がリアルに反応し、私の選択によって彼らの未来が決まる。それが許される世界だからこそ、私はこのゲームに夢中になってしまう。


 現実は、ルーティンで満たされた日常だ。


 お客様のために動くことが当たり前で、その枠を超えることはない。だが、ここでは違う。私は交渉の名手として、誰とでも話をし、誰にでも影響を与えられる。


 そして、この世界では結果が目に見えて現れる。


 私が交渉をうまくまとめれば、NPCたちは私を称賛し、町や国の運命が変わる。


 現実の「やりがい」とは比べものにならない。このスリル、この影響力……それが私を夢中にさせる理由だ。


 今日も新たな交渉を待つ依頼が山積みだ。現実では疲れ果てても、ここでは心が軽くなる。週末が来るたびに、私はこの仮想世界でリセットされるのだ。


「さて、始めるか」


 私は深呼吸を一つし、仮想世界での一日を始めた。


 ♢


 少し話は遡る。


 私の運命を変えた出来事。


 取引先から勧められた「クラフテッドワールズ」というVRMMOのヘッドセットを手にしていた。


「佐倉さんも、ちょっと気分転換にどうですか?」


 取引先の担当者が勧めてきたゲーム。彼も最近ハマっているらしく、ストレス解消になると話していた。


 どうやらこのゲームは支援職しか選べないという、少し変わった設定が特徴らしい。若者がハマる戦闘系とは違う第二のセカンドライフを楽しむようなゲームだと説明された。


 あの時は「そうですね、気が向いたら」と軽く返事をしただけだったが、なんとなく興味が湧いて、週末の暇つぶしにでも始めてみることにしたのだ。


 ただ、取引先からもらったヘッドセットが家にあったので、ダウンロードしてやってみることにした。


 こういう機械にはあまり慣れていないので、説明書を読みながらも、思わず緊張してしまう。操作が分かるかどうか、不安になってきた。


「さて、これで……起動、と」


 ヘッドセットを装着し、ゲームの起動ボタンを押すと、現実がゆっくりと遠のき、視界が仮想の空間に切り替わる。


 目を開けると、白く輝く光の中に立っていた。


 ここが「クラフテッドワールズ」のスタート地点らしい。すると、ふわりと現れた案内役のキャラクターが目の前に立ち、優しく微笑んだ。


 彼女は仮想空間の案内人らしく、淡い色合いのローブをまとっている。


「ようこそ、クラフテッドワールズへ! はじめまして、私はガイドのアリシアです。この世界での最初の一歩をお手伝いしますね」


 少し安堵して、私は軽く頷いた。慣れないVRに戸惑いもあったが、彼女がいるなら何とかなりそうだ。


「まずは、目の前に浮かんでいるパネルをタッチして、キャラクターの設定をしましょう。名前や見た目を決めてください。手を伸ばして指先でタッチするだけで、キャラクターの髪型や服装などが選べますよ」


 私が手を伸ばすと、指先が反応してメニューが開く。髪型や服装を変えるのも、画面上のアイコンに触れるだけで直感的に操作できた。


「お、簡単だな……こうやって選べばいいんだな」


 まるで現実のような手ごたえに驚きつつも、何とか自分の分身を作り上げる。


 少しだけ若返った顔をしてみるか、とも考えたが、結局は年相応のおじさんに落ち着いた。


「ジョブ?」

「この世界では戦闘を行うことができません。この世界で生きる人々のお手伝いをしていただくために職業についてもらいます。職業は様々ありますが、どれを選んでもその後の成長のさせ方で、様々な未来が待っています」


 アリシアの説明は漠然としていたが、言葉を聞きながらスクロールをしていくと、交渉人というジョブに目が留まった。


「交渉人?」

「交渉人は、様々な取引に対して弁舌ベンゼツをもって、人々の暮らしを豊かにして、導いていく職業です」


 詳細を確認すれば、交渉時のスキルを取ることができるジョブだとしか書いてしない。あとは体験しながら学べということか? 映像などは綺麗だが、こういうところの説明は雑に感じられる。


「キャラクター設定が終わったら、こちらのゲートをくぐってください。いよいよ冒険の始まりです」


 アリシアに導かれながら、私はゲートを通り抜けた。


 周りの景色が一瞬で変わり、次の瞬間には広大な大地と空が目の前に広がっていた。風が肌を撫で、まるで本当にそこに立っているかのような感覚に包まれる。


「これが、仮想世界か……思っていた以上にリアルだな」


 アリシアが傍に付き添い、基本的な操作や移動の仕方を説明してくれる。足元の感覚や、手を動かして物を掴む仕草も、自然な流れで習得できた。


「テツさん、この世界では、あなたの言葉や行動が直接世界に影響を与えます。支援職の交渉人として、様々な人物と関わりながら、この世界を存分に楽しんでください」


 彼女が微笑むと、私も自然に微笑み返した。


 仮想空間とはいえ、これほどまでに没入感があるとは思わなかった。心が弾むような感覚とともに、私は新たな冒険へと歩み出した。


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