何重にも美しい紋様と術式が付与された硝子の部屋、温室庭園。植物館ほどの広さを持つこの場所は私にとって大切な場所であり、そして公爵令嬢──次期王妃としての役割を果たすための職場でもあったのに。
「王城の一角にある温室を無断で占拠していたのは、本当のようだな。ユティア・メイフィールド嬢」
「で、殿下? こちらにお越しになるとは、珍しいですわね」
「なにを白々しい!」
漆黒の長い髪に緋色の瞳、長身で整った顔立ちの偉丈夫は、この国で一番の魔力を持つアドルフ・セイデル・ハバート王太子殿下だ。そして私の婚約者でもある。
そんな殿下の傍には漆黒の髪の美女が並んでいた。オレンジ色の瞳、綺麗美人さんだけれど、少しキツメな雰囲気。ピリピリした空気を纏っているのに、修道服姿というのはなんだか違和感がすごい。
聖女エリー。噂以上に腹黒かつ性格が悪そうなのが雰囲気でわかる。清楚という感じがないのだもの。いつから教会は即物的になったのかしら?
そんな取り止めのないことを考えている場合ではなかったわ。
今は大事な商談中!
「アドルフ殿下、大変申し訳ありませんが今は──」
「また商人を勝手に呼びつけて、ガラクタを買うつもりか? 財務から聞いたが、ここに温室の維持費及び予算の額はなんだ! すでに王妃気取りだったのなら本性を表すのが早かったな。ユティア・メイフィールド公爵令嬢、貴様との婚約を破棄する!」
「ぷぐっ」と、慌てて口を押さえたのは商人のリーさんだ。細目で肌が蛇の鱗のようなちょっと変わった──いや外見は胡散臭いし、常に黒くて袖の長い東の民族衣装を着こなしているけれど、商人としての腕は超一流。
そんなリーさんは袖で口を覆って笑いを堪えている。
うん、そうね。事実を知っていたら、そうなるわ。王太子なのに財務大臣の話を鵜呑みにして……次期国王として不安しかない。そんなんだから、私のような者が王妃に選ばれるのだろうけれど……。
とにかくいつものように、ここは私が折れて──。
「始めろ」
「え?」
ドドド、ドォン、ドドォン!
唐突に温室が爆破され、窓硝子が粉々に砕け散る。
なっ! なああああああああああああああああ!
「殿下!? ──っ、我が声に応えよ、
「おお!」
硝子の破片が飛び散り、私たちに降り注ぎつつあったが、聖女エリーの結界によって事なきを得る。いや無事じゃなかったら殺人未遂だわ。それになんてことを!!
温室の価値を知らないにも程があるわ!
沸々と怒りがこみ上げてきたが、リーさんが片手に持っていた魔導具──というか呪物を見て怒りが引っ込んだ。ひぇ、私よりもリーさんがガチでブチ切れているじゃないですか!
そっと袖を掴んで全力で首を横に振ったことで、彼は袖の中に呪物をしまってくれた。よかったわ。
「殿下、お怪我はありませんか?」
「ああ。さすがエリーだ。神々しい光魔法を使って守ってくれるとは!」
「聖女として当然ですわ。それにせっかく殿下が王宮魔導師に命じて温室を粉砕するのですから、私だって役に立つところをお見せしたかったんです」
「素晴らしい! ただの金食い虫とは大違いだよ!」
「ありがとうございます。ねえ、殿下。この温室だった場所は社交場にしましょう。そうすれば今まで以上に国に貢献できますわ」
「そんなことまで考えてくれていたんだね。エリー、君は本当に素晴らしいよ」
「そんなことありませんわ。だって本来なら王妃となられるユティア様の仕事ですもの……。アドルフ様は今までご苦労なさっていたのですね」
ブツン。
ずっと何かに耐えて張り詰めていた分厚い紐が、千切れたような音だった。自分の中で聞こえたそれは今までの──ユティア・メイフィールド公爵令嬢としての全てを否定して、踏みにじる行為に他ならない。
大事にしてきた温室のありさまは、私の心を具現化したよう。
美しかった窓硝子、四季折々の花々に育成が難しい薬草、温度調節に苦労した噴水、端に作って貰った調理場、珍しい調味料に、食材。
ああ……全部、壊れてしまった。
悲しくて、酷く惨めだったけれど、公爵令嬢として人前で涙を流すこともできず、俯くことしかできないなんて……。
アドルフ様から婚約破棄の書類を手渡されて、サインをした後のことはよく覚えていない。
それからは糸が切れた人形のように、ただ黙って時が過ぎていく。怒りよりも失った物のショックのほうが大きかった。
あれだけの空間を整えるのに何年もかかったし、あの場所でアドルフ様は「自分と婚約してほしい」と言ってくださったのを忘れてしまったのね。
お互いに子供だったけれど、すごく嬉しかったのに……。いつの間にかアドルフ様は温室に現れなくなった。
それにしても温室でお茶をしているだけだなんて、誰がいったのかしら?
ううん、今となってはもう……どうでもいい。