一軒家城に到着し、わしは玄関の扉を開く。
居間に行ってみるとすでに帰城していた康高がリビングのソファーでお昼寝をしておった。
その隣でよくわからんダイエットエクササイズをしておる母上に帰城の挨拶をおくる。
「ただいま」
「お、おかえりなさい。冷蔵庫の中にエクレア入ってるから、うがいと手洗いしてから食べなさい」
エク……レアちゃん……じゃと?
エクレアちゃんとは――たしか、デパ地下という桃源郷にて、シュークリームと並ぶ大人気高級食品じゃ。
最近身長が伸びてきたので商品棚の上の方まで見えるようになり、それによって近所のコンビニさんでも売られておることを知ったばかりだけど、そのコンビニさんで売っておられたエクレアちゃんはたった1つで200円近くにまで達する超高級おやつじゃった。
わしの月の予算は500円だから、エクレアちゃんはわしのエンゲル係数を弄ぶ悪魔の価格設定となっておる。
それが……その高級食品が冷蔵庫の中に眠っておるじゃと?
「おし!」
小さくこぶしを握り、勝利を確信するわし。
何に対して勝利したのかわからんけど、間違いなく勝利じゃろうて。
でもその前に帰城の儀式じゃな。
“うがい”と“手洗い”じゃ。
わしは洗面所に向かい、慣れた動きで手を洗う。
さらに“くちゅくちゅぺー”の別バージョンである“がらがらペー”なるうがいをこなし、さぁ、おやつの時間じゃ。
康高が寝ておるゆえ、いつもより忍ぶ足どりで城内を歩き、わしは冷蔵庫へと近づいた。
途中居間のソファーの方を見てみると、康高は座面から首が落ちそうになりながらも爆睡しておった。
ならば仕方なし。
父上の書斎で仕事をせねばならぬし、この可愛いエクレアちゃんは書斎で独り堪能しようぞ。
「お母さん? 僕、お父さんのお仕事、やってくるね?」
「ん? あぁ……そう言えば、朝そんなこと言ってたわね。じゃあお願いね。でもお父さんの机の周り汚さないように気をつけるのよ!」
「わかったぁ」
母上の下知に対し、わしはエクレアを高々と掲げながら答える。
母上が懸念しておるのは、わしがエクレアのかすを父上のパソコン周りに散らかすことじゃろう。
でもな。
そんなわけあるか!
そもそもわしは黒物家電に多大なる敬意を持っておるし、このエクレアちゃんもこぼさず食いきってやるつもりじゃ。
父上のパソコンはわしにとってもちろん黒もの家電の範疇に入るし、それをエクレアちゃんで汚すなどあり得るわけがない!
あと父上はおそらくわしが学校に出陣した後、プログラムの内容を紙に印刷して机の上に置いておるだろうから、それを床に並べて修正点を探し出すつもりじゃ。
父上の書斎の机と椅子はわしにとって大き過ぎるから、“ゆったりと椅子に座りながらパソコンタイム”みたいなことはできんのじゃ。
そんな状況でわしの食すエクレアちゃんの亡骸の破片が机の上まで届くことがあろうか! いや、ない!
「母上……わしをあなどり過ぎじゃ……」
エクレアちゃんの袋の角をしっかりと握り、わしは階段で小さくつぶやきながら2階へと上がる。
途中自室に寄り、ランドセルをわしの机の脇に置いておいた。
すぐさま反転し、いよいよ父上の書斎じゃ。
「久しぶりじゃな。我が友よ!」
扉を開け、わしは父上のパソコンに再会の喜びを伝える。
24インチのモニターが2つ並ぶパソコン机。それが部屋の奥に威風堂々と構えておる8畳の洋室じゃ。
でも父上の仕事は主にパソコンを操る仕事だから、この部屋には他に目立った作業道具などはない。
パソコンと、それに関する書物が並ぶ本棚。
昔望遠鏡が躍り出てきたことのあるクローゼットの中には、他にも父上が衝動買いした数々のからくり道具が眠っておるけど、クローゼットの扉はきっちりと閉まっておる。
なのでここから見た感じ、部屋にあるのはそれぐらいじゃ。
唯一パソコンの横にある本棚に注目せねばなるまい。
幅1メートル。高さは床から天井まで。
そのような大きさの本棚の半分ぐらいはパソコン関係の書物が納められており、残り半分は小説とか雑誌とか、そういうものが雑多に置かれておる。
パソコン関係の書物はわしがIT戦士になるための勉学をする時に、参考に借り出したりもしておるのじゃ。
んで問題は本棚の“残り半分”の方じゃ。
最近――いや、細かく言うと5年前のあの夜からじゃな。このエリアに歴史関係の書物が並ぶようになったのじゃ。
完全に……父上は完全にわしの前世を調べようとしておる。わしに直接探りを入れることはせんけど、こんなもんバレバレじゃ。
でもまぁ、父上だったらわしの素性をばらしてもいいような気もするのは確かじゃ。
だけど最近はそうもいかん事情が生まれた。康高の存在じゃ。
もちろん父上もつい口を滑らすようなへまをするような人間ではない。
でももし万が一父上がわしの正体を康高にばらしてしまった場合、その瞬間から家族の垣根を越えた殺し合いが始まる可能性があるのじゃ。
特にわしのいないところで父上から康高に情報が漏れると、わしがものすっごい不利な状況から戦が始まってしまう。
怖すぎじゃ。
あとこのことを話すと、父上には常日頃から余計な気遣いをさせてしまうことにもなるし、やっぱ言わんでよかろう。
それよりじゃ。
父上から頼まれたお仕事じゃ。
「ふむふむ」
案の定、書斎の机の上には父上がわしの出陣後にプリントアウトしたであろう書類が束ねて置いてあった。
それらを床に広げながら、また、手に持ったエクレアちゃんを堪能しながら、わしは小さくうなづく。
ひと昔前のわしには到底理解できなかったであろう呪文の数々。所々に日本語でメモ書きが添えられており、それを見た感じでは弁護士業務を円滑化するアプリケーションのようじゃ。
ジャバスクリプトって言うぐらいだから、Web上で機能させるつもりなんだろうけど、そういうプログラムじゃな。
さすれば発注元はおそらく三原じゃろう。
いや、三原と共同開発し、今後それを全国の弁護士業界に売り込みをかける算段もあろうな。
弁護士業界は顧客情報の管理に厳しいというし、それらに関する情報のやりとりをWeb上で行うなどと正気の沙汰とは思えん。
だけどセキュリティに極限の注意を払えるとすれば、その危険を冒す価値はもちろんある。
弁護士も意外と外回りの多い仕事だから、かなりの需要が生まれよう。
父上の会社もこの5年で大きく成長し、3人だった父上の部下も今は15人になっておる。
利益の半分とまではいかないけど左近に知行の半分を与えたわしの考えを遠回りに仕込むことで、父上は有能な部下のスカウティングにも熱心に取り組んでおるのじゃ。
結果人材が充実し、商人組織も確実な成長を見せてきた。
ならばこのプログラムも決して無茶な商品とは言えないし、この商品をステップにして商人組織は今後も成長し続けることであろう。
でも……
1個だけ問題あったわ。
商人組織の長たる父上じゃ。
あぁ、父上……
見れば半角英数字だけしか認められないプログラム本文の中に、全角スペースが入っておる。
今はプリントアウトされた紙を見ておるから確認出来ないけど、この文字と文字との開き具合、完全に全角スペースじゃ。
「父上……」
おいおい。こんなもん、初歩中の初歩じゃろう。
具体的にはプログラム習い始めたばかりの頃のわしが、数時間後につまづくぐらいの初歩的なミスじゃ。
父上――昨夜どんだけ疲れておったんじゃ?
いや、疲れておったなら入力ミスの1つや2つ仕方なかろう。
でもじゃ! プログラムの間違いをリアルタイムで色分け表示する誤字抽出ツールなど、インターネットの世界には腐るほどある!
それを使えよ! と。
父上が疲れていようが、ツールが勝手に誤りを見つけてくれるわ!
社長ともあろう立場の人間がこんな体たらくで、ほんと大丈夫か!?
ふーう。ふーう。
いや、単純な入力間違い。
これはインターネットの闇の世界で働く猛者どもに、一生付き纏う呪いじゃ。
国営放送のおにいさんが言っておられたのじゃ。
猛者中の猛者と評され、年収数億にもなる一流プログラマーでも、こういうのでつまづいてしまうことが結構あるらしい。
挙句そのような達人が数時間悩んだ後に隣に座る新人の同僚に助けを求めたところ、ほんの数分で間違いを見つけ出したちゃったり。
“どつぼにはまる”と表現すればしっくりくるんだけど、ベテランプログラマーでもそういうミスがたまにあるらしいのじゃ。
さすればこれも仕方なし。
うーん。
まぁ、今はこれが間違いの原因とも言い切れないし、ここは1つ父上に電話をして確認しておこう。
「おいしょっと」
わしは立ち上がり、2階の廊下に設置されておる電話の子機を取りに行く。
子機の小さな液晶画面に示されておるエネルギーメーターが満タンになっておるのを確認し、それを手にとって書斎に戻った。
んで父上に電話じゃ。
わしはもしもの時に備え、父上と母上の携帯電話の番号も暗記しておるから、すぐさま父上に電話を掛けた。
ぷるるるるる……ぷるるるるる……
「はい、もしもし」
「お父さん? ハロー!」
「おう、ハロー」
「朝の件なんだけど、今大丈夫?」
「おう、大丈夫だ。どうだ? わかったか?」
声を聞く限り、朝の時点で半分死んでおった父上もいくらか体調が戻したっぽいな。
なら気兼ねなく聞いてみよう。
「えーとねぇ。2048行目の関数のとこなんだけど――これ、フラグいじる関数なのかな……? そこの関数の宣言の“イコール”なんだけど、その“イコール”の後の空白が全角になってるっぽいんだけど……」
がたん!
「社長! 大丈夫ですか?」
電話の向こうから大きな落下音と、父上の部下っぽい人の声が聞こえた。
父上、もしかして倒れたのか?
「ん? お父さん? 大丈夫?」
「……あ、あぁ……大丈夫だ……いや、まさか……そんなことで……」
「うん。でもこっちじゃ確認できないし、トレースもできないから、そっちで直して。今できる?」
「あぁ……出来るけど……つーか今ファイル開いてるけど……。えーと……2048行目の……うお、まじだ……! じゃあ、これを直して……。……うおぉぉぉぉおぉぉぉぉぉおおっぉおぉぉ! よっしゃー! いったぁーーーー!!」
かっかっか。どうやら上手くいったようじゃの。
電話の向こうから父上の雄叫びが聞こえてきおったわ。
さすればこの件はしまいじゃな。
いやはや――結構時間かかることを覚悟しておったけど、まさか数分で片付けられようとはな。
あとは……そうじゃな。
「お父さん? いけた?」
「おう! いったいった! ありがとうな!」
「うん。それならよかった! それで……例の物を!」
「あぁ、書斎の机の引き出しの中に入ってるから、持ってけドロボー!」
父上、テンション上げ過ぎじゃ。
でも、いっひっひ!
これこそわしが待ち望んだ瞬間。大金ゲッチューじゃ!
「うん。わかった。この紙、もういらないよね? シュレッダーに入れればいい?」
「おう。そんな感じで!」
「じゃ、僕これからテラ先生のところに行くから。あと明日そのまま野球の練習にいくから、帰ってくるのお昼の3時ぐらいになると思う。また明日ね」
「おーう。寺川先生によろしくな。あと練習頑張ってなー」
「ではこれにて!」
「おう、これにて!」
電話を切り、わしは子機を廊下の電話台に戻す。
んで再度書斎に戻り、床に散らばった紙を束ねた。
それらをシュレッダーという、斬首台のような残酷さを匂わすからくり道具の入り口にねじり込み、さてお待ちかねの瞬間じゃ!
と、わしはルンルン気分で書斎の机の引き出しを開けた。
「……な、なんと……?」
3千円じゃ……3千円が入っておる。
これは……なんという……父上……? そなたは神か……?
いや、もしかするとたまたま小銭が無かっただけで、後日父上から500円の引き取りを要求されるやもしれん。
でもこのわしがそんなもん返すわけがない。
そもそも父上の性格上、あえて多めの報酬をくださったのと考えるのが妥当じゃろう。
あとでお礼を言っておかねばな。
それで――3千円じゃ。
わしのお小遣いの半年分。
わっぱのわしに正式な仕事はないけど、半年間素直なわっぱを演じ続ける労働に値すると言ってもいい。
しかもそれをわずか数分の労働で手に入れた。
時給換算にすれば、とてつもない額になる。
まぁ、今わしがこなした仕事は技術職の類だから、単純に時給換算するわけにもいかないけどな。
技術職は、技術があればある程早く仕事をこなせる。
常人が1時間かかる仕事を達人が10分で終わらせたからといって、報酬を6分の1にするのはおかしな話なのじゃ。
なので時間当たりの報酬ではなく、1件当たりの報酬。
わしも父上もそれをよく知っておるし、さっきの電話でも父上はわしに作業時間を問うて報酬を下げようなどとはしなかった。
問題は至極単純な入力ミスだったけど、それに気づくのもわしの能力。
武威がなければ1時間かかったかも知れんし、数時間に及ぶ可能性もあったしな。
ちなみにほんの数分で2千行を超えるプログラムの本文を読み進めたわしの速読っぷり。これは武威を利用しただけじゃ。
武威を発動して視覚の情報収集速度を上げ、速読というか瞬間記憶というか、そういうものを高めたのじゃ。
わしの目にとまらぬ速さで動く三原が、超速の中で自身の体勢とまわりの状況を把握できるのと同じ理論じゃな。
さすればこの仕事っぷりは、武威という技術を持つわしが貰える正当なお金。
500円多いけど、これは誰からも咎められようことのないわしのお金なのじゃ!
「ふっふっふ! これぞ勝ち組!」
さて……さすれば、このお金をどこに保管しよう?
小学生になり、色々と出費をするようになってわしはお財布なるものを父上から頂いておる。
可愛いカエルちゃんのガマ口財布じゃ。
でもあの財布はわしもしょっちゅう外に持ち歩くし、こんな大金を入れておいてそれをなくしたりしたら大変じゃ。
では1階の小さな神棚ではどうじゃろう……?
いや、ダメじゃな。
あそこは母上も触れるし、これが母上の目に入ればいらぬ尋問をされる恐れもある。
母上が……あと、康高も触手を伸ばせない場所。
ならばあそこしかあるまい。
わしの部屋にある学習机の引き出し。すでに過去数年にわたるお年玉を隠してあるわしの埋蔵金の隠し場所じゃ。
ちなみにわしが財産をこのように隠す理由は1つ。
インターネットに巣くうわしの仲間たちが、母親にお年玉を預けるなと言っておったからじゃ。
それゆえわしは毎年おじいちゃんや親戚のおじちゃんと事前に口裏合わせをし、母上の前でわしに渡されるポチ袋には全額を入れず、それを囮として別口のお年玉をこっそり頂くようにしておる。
案の定母上の前で渡される方は「将来のために貯金する」という訳のわからない名目で母上に没収され、そのまま行方が分からなくなってしまうのじゃ。
そんな悲劇を繰り返さないために、必死に財産を隠しておるのがわしの机の引き出しの中なのじゃ。
あの机の引き出しには鍵をかけられるようになっておるし、3段ある引き出しの一番下にはカップラーメンが3つ常備されておる。
母上が外出した時とかにこっそり食べるための兵糧だけど、その下にこのお金を隠しておけば万が一母上が引き出しを開けた時、真っ先に目に入るのはカップラーメンじゃ。
その時点で母上は激怒してわしを説教し始めるだろうから、カップラーメンがへそくりの身代わりになってくれるというからくりなのじゃ。
お年玉にも匹敵するほどの大金。
さすれば隠すはあそこしかなかろう。
「その前に……下の様子を」
わしは忍び足で2階の廊下に出て、階段から下の階の様子をうかがう。
どうやら母上はダイエットという名の無駄な抵抗を諦め、寝起きでぐずぐず言うておる康高をあやしておるようじゃ。
もしかするとそのやり取りの中でわしの帰宅を知った康高がここに来るかも知れん。
けどその前に隠しちゃえばよかろう。
わしは階段の踊り場で踵を返し、自分の部屋へと向かう。
物音立てずに引き出しのカギを開け、最下段の引き出しの奥底深くに潜む丁字色の封筒にお金を差し込んだ。
いや、待てよ。
近いうちに康高とアイスクリームを食べに行く約束じゃ。
わしのお財布の方にはあまりお金が残っておらんかったはずだから、この3枚のお札のうち1枚だけ軍資金として抜き取っておこう。
とはいえ今日明日のわしは移動に移動を重ねる身だから、お財布を持ち歩くのは危険じゃ。
寺川殿も三原も、わしと一緒に居る時にわしの金を当てにしたことはないから、お金を持たんでも大丈夫だしな。
さすればこの1枚をお財布に移して、残りを封筒へ。
お財布はいつものように一番上の引き出しに入れておこう。
とんとんとん……
その時、わしの予想に沿うように康高が軽やかな足取りで階段を上がってきおった。
「お兄ちゃん! おかえり!」
「うん、ただいま」
「遊ぼ!」
ちなみに、もうそろそろ午後の4時になろうかというところ。
わしは寺川殿のお仕事が終わるのと時を同じくして、一軒家城を出る予定じゃ。
なのであと1時間ぐらいしたら一軒家城を出るし、その前にお泊りセットと、あと明日の練習に着る野球のユニフォームや野球道具の準備もしなきゃいけない。
さすれば康高と遊ぶとしてもほんの数十分。
無理してスケジュールを詰めると、忘れ物をしてしまいそうな気もするし、ここは準備にじっくり時間をかけた方がいいような気もする。
さすれば心苦しいけど康高の希望には応えることができんな。
「いや、ごめん。出かける準備しなきゃ」
「うーぞーだー! ぞんなのうぞだー! お兄ちゃんはどごにもいがないもーん! ぼぐどあぞぶんだもーん! うわーーーーあーーーん!」
くっそ。無理だったわ。
結局その後は康高と一緒に、わしがふと思い立った“旅行の準備ごっこ”なる不可思議な遊戯を行うことになる。
康高に邪魔されながらもなんとか準備を済まし、時間は5時。
一軒家城を出陣しようとしたところで、もう1個面倒な事件が起きたわ。
寺川殿の長屋に向かおうとするわしの自転車の前輪のあたりに、康高がしがみついて離れないのじゃ。
「おかーさーん! 康君をどうにかしてぇ!」
運命というものは残酷じゃな。
血の繋がった兄弟をいとも簡単に引き裂く。
でも……。
今のわしにとって、康高の涙よりも寺川殿の長屋で飲めるしゅわしゅわの方が大切なのじゃ。
「ほら! 光成! 早く行きなさい! 私が康君を抑えているうちに……ぐっ……康高……諦めなさい……」
「ぴーぎゃー! ふんぎゃー!」
「じゃ、行ってくるね」
「えぇ。寺川先生によろしく言っておいてね」
「うん。おっけーッ! ふんふふーん♪」
その後、今生の別れなんじゃないかと錯覚するほどの悲しい別れを乗り越え――いや、わしはそうでもなかったんだけど、母上の腕の中でもがき抵抗する康高を尻目に、わしは寺川殿の長屋に向けて出陣した。