こんちくしょうのあんちくしょう。朝から厄災続きじゃ。
それに、まさか寺川殿の近くにゾウさんじょうろがあったとはな。思わぬ災難じゃ。
……じゃなくてさ。
元々の原因と言えば、あやつじゃ。由香殿じゃ。
わしは悪くない。ちゃんと謝ったもん。
だけど、今後もあやつがわしにまとわりついてくるとなると大変じゃ。
わしの通園生活いとヤバし。さてどうするか……?
うーん。
由香殿はどう考えても相手の態度からその心境を察するほど配慮に長けたおなごではない。
かといって、さっきのように直接嫌悪感を伝えると大変なことになる。
やはりじわじわとあやつの心を傷つけてゆくしかあるまいか。
またの場合、あやつの母上に嫌われればどうじゃろう?
わしがあやつの母上に嫌われて、母上の方からわしに近づかないように言い聞かせてもらえば……?
こういう場合、たいていのわっぱは親のいうことを聞く。
まぁ、わしや勇殿のように絶対にそういうの聞かない類のわっぱもおるんだけどな。
あやつは気持ち悪いぐらいのお母さんっ子じゃったはずじゃから、問題無かろうて。
唯一の問題は、由香殿の祖父が公家のような武家のような……よくわからないけど、そういう身分だとかなんとか……。
なんて言ったっけ……? 区議会のなんとか。
現代の貴族のようなものらしいのじゃが、ここは藩立の幼稚園じゃから、下手をするとその翁がしゃしゃり出てくることもあり得る。
うーん。
いろいろと難しそうじゃな。この件はしばらく保留にしておくか。
確実に……完全に……由香殿を完膚なきまで叩けるように。
ふっふっふ。
我ながら質の悪い園児じゃ。
いや、園児じゃと思って舐めるなよ。
中身は46のおっさんじゃ!
体はクソガキ。頭脳はおっさん。みたいな。
おし、ちょっとテンション上がってきた!
それじゃそろそろ――
「いへひひひぃ……」
勇殿の優しさに包まれながら悪だくみをしていると、いつの間にか足軽組メイトの皆々が壁際にあった椅子を運び、寺川殿の周りに二列の弧を描くように着陣しておった。
これから寺川殿主導の“おはようの会”なる会合が催されるのじゃ。
それに先立ち、わしと勇殿もその準備をせねばならなかったのじゃが、わしが泣いている間に華殿がわしらの分の椅子を運んでくれておった。
なのでわしは華殿に軽く会釈し、勇殿と華殿にはさまれる様に椅子に座った。
「泣きやんだ? 元気出して」
華殿の優しさがじょうろの衝撃残るわしの身に深く染み入り、またまた泣きそうになっていると、寺川殿が例の甘ったるい口調で喋り始める。
「はーい。朝の挨拶から始めましょう! じゃあ今日は山田蛇都狩(ジャッカル)君! 挨拶お願いしまーす」
と同時に、わしらの前に座っていたわっぱが勢いよく立ちあがり、戦口上役のような大声を張り上げる。
「きりーつッ!」
わしらは立ち上がり、息を大きく吸う。
「せーんせい!」
それに呼応し、わしらも大きな声を出した。
「おはよーうございますッ!」
次は足軽組メイトが各々に挨拶を送る番じゃ。
弧の前列に並ぶ者どもが背後に振り返り、わしら後列と向き合う。
再びジャッカル殿が大きな声を上げた。
「みーなーさん!」
「おはよーうございますッ!」
こんな感じじゃ。
その後寺川殿が今日の予定を下知し、ついでに昨日新宿駅でナンパされたとか、好きな俳優が夢に出てきてプロポーズされたとか、そういうへドの出るような話を聞かされ、歌のお稽古へと移行するのじゃ。
ちなみに、世間で“きらびやかネーム”と呼ばれる命名文化が問題となっておるらしいけど、ジャッカル程度の名前で驚いておったら、わしの足軽組はキリがない。
強いて言うなら――。
わしが思うにここ百年ほどでからくり技術や各種文化が急速に発展しおった。
きらびやかネームもその流れじゃと思うておるし、急激な文化の成長はからくり技術のそれと同じく、世に恵みをもたらす一方で戸惑いももたらすものじゃ。
命名文化もその段階に来ておると思っておる。
今後は西洋の神話の登場人物が用いられ、次に、マンガやアニメの必殺技を名乗るわっぱたちが出てくるじゃろう。
キャラクターじゃのうて、必殺技がな……。
さらにはテレビゲームの魔法が用いられるようになり……そこからが本当の地獄の始まりじゃ。
特に寺川殿のような仕事を生業とするものたちには、さぞ地獄じゃろうて。
寺川殿は去年もわしらを率いておったのじゃが、最初は半笑いで足軽組メイトを呼んでおった。
心中察するばかりじゃ。
じゃが、わしは将来卒園した後も、毎年卯月(4月)に寺川殿から新入生の名簿の複写をふりがな付きでいただきたいと思っておる。
この国の目指す未来というか、そういうものが見えてきそうな気がするんじゃ。
あと、ジャッカルは西にある砂漠の国の神話に出てくる双子の冥界神じゃという。
山田家のご両親は御子息をどう育てたいのか気になるところじゃ。
まぁよい。次は楽しい歌のお稽古じゃ。
「はーい! じゃあ、今日も元気出していっくよー!」
「おーッ!」
寺川殿が大きな声で叫び、わしらもそれに答える。
寺川殿が部屋の隅に設置してあるキーボードという怨霊豊かな楽器に歩み寄り、おもむろにその悪魔に命を吹き込んだ。
ふーう。
キーボードから軽やかなメロディが流れ始めるのを合図に、わしらは身構える。
このキーボードがなぜわしにとって怨霊込めたる楽器かというと、先に寺川殿について「テンションが高い」と言っておったと思うが、その件と深くかかわっておるのじゃ。
彼女のテンションが高いというか、彼女によってわしらのテンションが引き上げられるというか。
なんかいろんなものを含めて、この時間の全てがテンション高しなのじゃ。
これこそ寺川殿が幼稚園教諭としてもっとも得意とする技術であり、この時間を体験しておるからこそ、わしは寺川殿を“テンションの高いおなご”と見なしておるといってもいいのじゃろう。
そんでそんで。
テンションの上がりすぎたわしら園児はたまに訳のわからない境地に至ってしまうため、わしらにとってあの楽器は悪魔の申し子という訳じゃ。
もはや一種の宗教と見なしても構わんぐらいじゃが、そんなこんなで寺川殿がキーボードの鍵盤に手を触れ、この瞬間から狂気の宴が始まった。
まずは……前奏から察するに“どんぐりぼろぼろ”か……。
お次は……おッ! この調べはわしもよく知っておる。伝記“桃太郎”殿のタイアップ曲じゃ。
そんで次は……ほう。“おもちゃのバ・バ・バ!”が来たか……?
と、わしらはオープニングから破竹の勢いで3曲歌い、激しいビートに身をゆだねた。
そしてお次は、ライブの中盤を支えるバラードじゃ。
西洋の偉大な雅楽師が作った“大魔王”から“大きなのっぽのソーラー時計”へと続く鉄板のセットリストをこなし、わしらは感動のクライマックスへと向かう。
ちなみに、“大魔王”は本来元服を迎える頃に習得する楽曲らしいけど、この1年間、寺川殿に基礎から叩き込まれたわしらに死角はなく、完璧に歌い上げるからの。
「あーー♪ あーー♪ おーーー♪」
静かに湧き上がる興奮がバラードタイムによって一時押さえられ、そしてクライマックスには押さえられていたその感情が蓋を開けるかのように爆発する。
「よっしゃ! 元気出して最後まで行くよー!」
伴奏をしながら寺川殿がわしらをあおり、最後は90年代のガチなロックじゃ。
寺川殿に操られる様に頭を揺らし始める者。用具入れから箒を取り出しギター代わりにする者。両手を左右に大きく振り、フィナーレの感動に花を添える者。
それぞれがそれぞれの心を解放し――朝っぱらから嫌な出来事が連発して身に降りかかっていたわしも、その鬱憤を晴らすように頭を振り続ける。
しかしあれじゃな。
このタイミングで思い出すのもどうかと思うが、大晦日の夜にテレビでやっておる“歌の戦”。
去年初めて見たのじゃが、この時代は多様な楽曲が多くて楽しいな。
うら若きおなごが舞いながら歌ったり、楽隊を従えた歌舞伎者がしんみりと歌ったり。
そりゃ、戦国の世も祭囃子(まつりばやし)や能に添えるにぎやかな演奏があったし、桃山の頃になればそれはそれは華やかなものじゃった。
じゃが、現代のものには到底及ばん。
特に装束が非常に凝っておって、千手観音を思わせる迫力満ちた衣装を着たあやつ。
番組の最後の方に出てきたおなごのことだけど、それはそれは圧巻じゃった。
除夜の鐘まで起きようとがんばったものの、ついついうとうとしてしまっておったわしじゃったが、あれを見た瞬間生存本能が奮い起こされ、思わず父上の7番アイアンを手にとってテレビに襲いかかってしまったぐらいじゃ。
直前で父上がわしを取り押さえてくれたからよかったが、あやうく父上が母上に土下座して買った新品の60インチの液晶テレビに傷を与えるところじゃった。
あやつが敵の大将だったら、わしは即座に殿下を裏切り、軍門に下る。
間違いなかろうて。
いやはや、この時代に生を受けて5年しか経っておらんが、現代もなかなか――
「にーーーんーーーげーーーーんーーー……ごーーーじゅーーーーねーーーんーーー……」
やっちまったぁ!
テンション上がりすぎて、あろうことか皆々が弧を描いておるその中心に躍り出てしまったぁ!
しかもなんじゃ? 右手に握って扇代わりに振りまわしておるのは……近くに置いてあったクレヨンの……箱……?
わし、いつこれを手に取った!?
いや、そんなことはどうでもいい!
今度こそしゃれならん……やっべ、どうしよ。
「……」
突如暴走したわしに気づき、驚いた足軽組メイトが合唱を止め、果ては寺川殿まで演奏を止めちゃった。
なので、沈黙した部屋の中心で、みんなの注目を一身に受けるわし。
おそらく今後3年ぐらいは忘れられない失態じゃ。
ど、どうする? 続けるか?
ここでやめたら石田三成の名がすたる……だろうか……?
と、窮地の極みに立たされ、正常な判断すら失っていると、ここでわしの身に奇跡が起きた。
「しゃんしゃんしゃん……いよーーおぉーーー! ぽん! ぽん!」
見れば、華殿がいつの間にか太鼓付きのタンバリンを手に取り、わしの背後に移動しておった。
さらには左手に持ったタンバリンを右肩に乗せるように固定し、鈴の音と響き渡るような声。そして軽妙な太鼓の音とともにわしの舞を後押ししてくれていた。
あぁ、華殿。
もちろん、この時ほど華殿に感謝したことはない。
というかこういう時にだけ異常な速度でわしの暴走についてくる華殿の人格が捉えにくい。
面白そうなことを嗅ぎ分ける嗅覚が優れているのじゃろうか?
なにはともあれ、わしの眼に映る華殿は満面の笑みで、わしの舞の続きを求めておる。
ならば仕方あるまい。
「げーてーんーのうーちーをー……くらーぶー……」
途中、遅れて状況を把握した寺川殿が16ビートの伴奏を添えてくれる中、わしと華殿は無事に演目“敦盛”をやりきった。