会社で理不尽に係長に怒鳴られ、その愚痴を聞いてほしくて彼氏に電話したら、女が出て二股かけられていたことが発覚し、実家のお母さんからは早く田舎に帰るようにと留守電が入っていた。
あまりにもプライドがずたずたになり、みじめにもなったので、居酒屋で一人で飲んでいたら終電間際になってしまった。幸い終電には間に合い終着駅について、バス停までダッシュする。酔っ払っていたのもあるが、駅の階段で毛躓いて靴の踵が取れかけた。
「もう、やだ……」
と呟いている間にも、最終バスの時間は刻一刻と迫ってくる。息を切らしてバス停についた時には、バスの乗車口が閉まりかけていた。
「乗ります!乗りまーす!」
閉まりかけたドアが開いた。私は慌ててバスに乗り込んだ。
バスはガラガラで乗客は私一人だけだった。今日も空いているな……と酔った頭でぼんやりと考えていた。
「毎度、西東バスをご利用いただきありがとうございます。この車は深夜急行バス、きさらぎ駅前経由、あの世入り口行きでございます」
うすぼんやりとアナウンスを聞いていた私は、そのアナウンスを聞いて慌てて席を立とうとした。
「運転中の席の移動は大変危険です、おやめください」
運転手さんに怒られてしまったがそれどころではない、バスを乗り間違えてしまったのだ。
「運転手さん。このバス、富士見ヶ丘団地には停まりますか?」
「お客様、席に座ってください。危ないですよ」
私は、言われるがままにバスの最前列、運転手さんが見える左側の席に腰を降ろした。
「右よし、左よし、車内よし。発車します、お掴まりください」
私は、席に座りちょっと深呼吸をしてから言った。
「ええと、このバスは富士見ヶ丘団地には止まります?」
「いえ、深夜急行バスなので、きさらぎ駅前と終点あの世入り口以外のバス停には停まらないです」
眼鏡をかけた多分私と同じくらいの年恰好の女性の運転手さんは、ちょっと困ったように言った。
「バス停以外の場所でお客様を降ろすことはできないんですよ……すみません」
「わかりました、こちらこそ無理言っててすみません」
私は諦めて席に座りなおした。バスは駅前を抜け徐々にさびれた県道へと向かっていった。私はこの状況を誰かに報告しなくては……と思い、スマホを鞄から取り出した。
「あ……」
スマホの充電はこういう時に限って切れていた。今日は何から何までツイていなかった。私はこのまま終点まで乗ってあの世へ行ってもいいかなぁと思い始めた。酔いもあったし、家に帰っても寂しいだけだと気が付いたのである。
「右よし、左よし、車内よし。発車します、お掴まりください」
運転手さんは交差点で停止するたびに喚呼を繰り返している。バスはもう小一時間程度走っただろうか、次のバス停のきさらぎ駅前に着く様子すら見せない。
「運転手さん……よかったら運転の邪魔にならない程度で結構ですので、お話していただけませんか」
「普段なら怒られますけど、お客様おひとりですから。構いませんよ……前よし」
「その……指差し確認って飽きないんですか?」
運転手さんは笑って言った。
「飽きませんよ、これは、運転手のプライドみたいなものですからね」
「そうなんだ……いいなぁ」
私は心から呟いた。運転手さんも世の中の人もみんなプライドを持って生きているというのに、私のプライドはボロボロでどうしようもないのに。
「あの世入り口まではどれくらいかかります?」
「ええと、道が混んでないので、運行表の通りに進むと思います。午前2時過ぎには到着しますかね……右よし、左よし、車内よし。」
バスに飛び乗ったのが午前0時を少し回ったくらいだったから、あと1時間半はこのバスの中で過ごさねばならない。
「運転手さんのプライドってなんですか?」
「そうですねぇ……いろいろありますけど大事なのは3つありますね」
「そんなんですか」
「当ててみますか?」
そういって運転手さんはいたずらっぽい笑顔を見せた。
「ええと、定時に目的地へ着くこと?」
「まず当たりです。確実な定時運行は運転手の基本ですからね」
「あとは……そうだ、車内の安全?」
「それも当たりです。快適な車内空間を提供するのも仕事の一つです」
「あと一つ。うーん、なんだろう」
酔っぱらった頭で考えたが、上手い答えを見つけることができなかった。
「あはは、あとで教えてあげますよ」
「わかりました。ちょっと酔ってるので寝ちゃったらすみません」
「終点に着いたら起こしてあげますよ、ご安心ください」
私はうすぼんやりした頭で残り一つを考えていたが、だんだんそれも面倒くさくなり、あの世についたら何をしようかなと、とりとめもないことを思いながら眠りについてしまった。
「お客様、お客様……」
私は男性の声に呼ばれて目を覚ました。目の前には初老の男性が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。私はバスの一番前の席に座り眠りこけていたのだけど……。
「ああ、よかった、お気づきになりましたか」
「ここは……?」
私は寝ぼけた目をこすりながら言った。私は最終バスに乗ってあの世入り口へ行くはずだったのに、ここはどこなんだろう。
「稲荷坂のバス停を過ぎたところです」
「稲荷坂……?」
富士見ヶ丘団地の二つ手前のバス停だった。
「あれ、女性の運転手さんは?それに、きさらぎ駅経由のバスに……」
男性はそこで目をちょっと目を伏せた。
「申し遅れました、西東バスの運行専務の大山と申します。お客様の状況をご説明します……」
そして大山と名乗る男性から私のおかれていることを説明してもらった。
私が最終バスで寝こけていたこと。その最終バスは富士見ヶ丘団地行きだったこと。乗客が私一人だったこと。運転手さんが急な心臓発作で亡くなっていたこと。
「えっ、運転手さんは亡くなってしまったんですか?」
「運転中に急な発作を起こしたようで……バスを路肩に停めて、非常通報ボタンを押したところで亡くなったようです」
私はその状況をにわかには信じられなかった。私の中では運転手さんと話した記憶が鮮明によみがえってきたのだから。
「大山さん、ちょっと……お伺いしてよろしいでしょうか」
「はい、私に答えられることでしたら」
私は馬鹿げていると思いながらも、問わずにはいられなかった。
「バスの運転手さんのプライドって何でしょう?」
大山さんは驚いた顔をしたが、私の問いに答えてくれた。
「定時運行、車内安全とありますが……」
「ええ、運転手さんにそれはお伺いしました。あと一つがわからなかったのです」
「何よりも一番大事なのは、人命優先。お客様のお命を守ることです」
そうか、あの運転手さんは一人できさらぎ駅を経由して逝ってしまったのだ。半ばヤケになって、あの世へ行こうとしていた私なのに。見ず知らずの私に優しく話しかけて笑ってくれたのに、そう、彼女の運転手としてのプライドが私をあの世行きのバスから降ろしてくれたのだ。お礼も言えぬままに彼女は一人で逝ってしまった。
私は気が付くとボロボロと涙をこぼしていた。