夕暮れの海は朱色に染まり、波が寄せては引いてを繰り返していく。
風は少し冷たくて、楓が肩を
「ありがとう」
「うん」
二人は約束した海岸で亜澄を待っていた。
楓の思い出で、唯一幸せな時間を過ごした場所。
亜澄がまだ小さな楓と美奈を連れてきては、二人が遊ぶ姿を優しい笑みを浮かべ見守っていた。
あの頃の亜澄は今とは違い、普通の母親のように楓を愛しく思ってくれていたように思う。
「ここが思い出の海?」
懐かしそうに目を細め海を眺める楓の邪魔をしないように、要は静かに問いかける。
「うん……よく母さんと妹と三人で来た。
母さんが私たちを優しく見つめる目が好きだった」
楓が紡ぐその言葉に、要はただ静かに耳を傾ける。
「あの時から母さんはきっと辛かったんだと思う。
笑ってても、たまにすごく寂しい目をしてた……。
ここへ来ては自分を慰めてたんだと思う」
そのとき、背後から砂を踏みしめる音が聞こえた。
「こんなとこに呼び出して、何?」
楓が振り向くと、そこにはすごく不機嫌そうにそっぽを向く亜澄が立っていた。
「母さん……来て、くれたんだ」
楓が嬉しそうに微笑むと、亜澄は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「しょうがないでしょ……美奈ちゃんが行けって言うから」
嫌がる亜澄を美奈が諭している映像が、楓の脳裏に浮かぶ。
なんだか微笑ましくて、楓は自然と笑顔になった。
「美奈っていい奴だよな」
要も可笑しそうに笑っている。
「それで、私に何か用?」
この場の雰囲気が嫌なのか、亜澄はさっさと要件をすませようと催促する。
楓は要を見つめた。
要もそれに応えるように力強く頷くと、楓の背を力強く押し、送り出す。
手は震え、口は乾き、足は
逃げたい、逃げたい……でもここで逃げたらまた同じ。
楓は力強く前を向いた。
「……母さん、私、母さんに伝えたいことがある」
見たこともない楓の姿に、亜澄の心が揺れる。
本当はこういう日がくることを恐れていた。
いや、少し……期待していた?
何かを変えたかったのかもしれない。でもその勇気が私にはなかった。
誰かが動くことを期待していた。
まさか、それが楓だとは夢にも思わなかったけれど。
亜澄は楓を真正面から見つめる。
その眼差しに応えるかのように楓が静かに、しかししっかりとした口調で語り出した。
「いつも不安だった……。
私は母さんにとって必要ないんじゃないか、家族や世の中に必要とされてないんじゃないかって。
もしそうなら……私はいったい何のために生まれたんだろうって。
誰からも愛されることはない、利用価値が無くなれば捨てられてしまう、誰からも必要とされない。
そう思って……生きるのは苦しかったっ」
楓は胸の辺りをギュッと掴むと、苦しそうに息を吐いた。
「誰でもいいから愛されたい……そう思ってた。
私を必要としてくれるなら、誰だっていい。とにかく愛され、必要とされたいって。
……でも、今はわかる。
私が本当に愛されたかったのは母さんだった。
だから、母さんが苦しんでる姿は見たくなかったし、母さんが少しでも楽になるなら、私はどんな目に遭ってもよかった」
楓は一度大きく深呼吸する。
そして、一度目を閉じてからゆっくりと開け、真っ直ぐに亜澄を捉える。
「でも……でもね、それじゃあ駄目なんだ。
私が壊れていく、私が無くなっていく。
私は私を愛してなかった。
私……自分を愛したい、大切にしたいの。
要がそれを教えてくれた、気づかせてくれた」
楓が要の方へ視線を向ける。
ずっとこちらを見ていたのか、要の視線とすぐに交わった。
お互いの考えていることがわかる。
わかってる、わかってるよ、ありがとう。
どこまでも強くなれる……そんな気がする。
「母さんも、もっと自分を大切にして、愛してあげて。
我慢しないで欲しい、母さんには笑って生きてほしい」
今まで黙っていた亜澄が、この言葉にはすぐさま反応し言い返してきた。
「何言ってるの? 私は私を愛してるわ!」
強気な口調とは裏腹に、亜澄は何かに怯えるように小刻みに震えている。
「母さん、今誰のために生きてる? 父さん? 美奈?」
「違う! 私がみんなに尽くすのは私のためよ。愛されたいから尽くすの、それが幸せだから!」
「でも、それで自分が苦しんでたら意味ないよ!」
亜澄は頭を抱え、楓の言葉を振り払うかのようにブンブンと横に振った。
「そ、そんなことわかってる! わかってるわ!
でも……どうすればいいのかわからないのよ!
私はずっとこうやって生きてきた、そんな簡単に自分の生き方を変えることなんて、できないわよ!」
亜澄の声が辺りにこだまする。
怯え震えている……亜澄も
一人、闇の中を
そんな亜澄の姿はなんて……。
楓はゆっくりと亜澄に近づいていく。
亜澄は動くことなく、怯えた目をしながら楓を見つめる。
亜澄の目の前で優しく微笑むと、楓は亜澄の両手をそっと握った。
ビクッと反応し、亜澄の瞳が楓を捉えた。
「少しでいい……ほんの少し変わろうと思うだけで、きっともう何か変わりはじめてる。
母さんは一人じゃない。美奈がいるし……私もいる。
私は絶対に母さんを見捨てない、裏切らない。
私……頑張る。母さんにもらったこの
だから、母さんも自分のために生きて……お願い」
いつの間にか、亜澄から一筋の涙がこぼれ落ちていた。
亜澄は力が入らずその場に崩れ落ちる。
楓は亜澄を支え、たどたどしく抱きしめた。
亜澄の瞳からは涙が次々と流れていく。
泣き声を必死で押し殺しながら、亜澄は苦しげな息遣いを繰り返す。
楓は困ったような顔をしていたが、次第に亜澄を愛しそうに強く抱きしめていた。
少し離れた場所から見守っていた要は、ほっと一息つき微笑む。
その目には涙が光り、今にも零れそうだ。
沈みそうな太陽に目を向け、要はそっと涙を拭う。
親子はあたたかな夕日に照らされながら、いつまでもそこにいた。