6月も終わりに近づいた梅雨の晴れ間。俺たちはプールにいた。
といっても、遊びというわけじゃない。
7月頭のプール開きを前に、オフシーズン中に溜まったプールの汚れを落とすのが、新一年生の役目であり、この学校の伝統なのだそうだ。
「なんてわけのわからない伝統なんだろう……」
緑色のコケに覆われたプールの底をデッキブラシで擦りながら、思わず呟く。
この清掃作業は美術科を除く三つのクラスが課外活動の一環として行うものらしく、俺たちは四限目をあてがわれていた。
「普通、こういうのは水泳部がやったりするんじゃない?」
「水泳部の知り合いがいるが、頑張れと言われただけだったぞ」
隣で一心不乱にデッキブラシを動かす
「うちの学校、掃除部とかなかったっけ。よくゴミ拾いしてるしさ」
「ああ、あるな」
「あそこは手伝ってくれないのかな」
「同じく知り合いがいるが、この時間は河川敷の清掃に行くと言ってたぞ」
そういえば、学校から少し離れたところに河川敷があった気がする。
俺は家が近いので使わないけど、自転車通学の連中はあそこをよく通ってくるという話だ。
「それにしても、翔也は各方面に知り合いがいるよな」
「あちこち手伝ってると、自然と繋がりができるもんなんだよ」
彼はあっけらかんと言うも、普通はなかなかできることじゃない。素直にすごいと思った。
「
周囲に洗剤をぶちまけていると、頭上から明るい声が降ってくる。
視線をわずかに上げると、
「四限目だし、このあとのお弁当は最高だぞー! 皆頑張れー!」
元々声が大きな人だし、プール全体に響き渡るようだった。
その気持ちは嬉しいのだけど、清掃作業中の俺たちは基本体操服か、水着を着用している。
着替えの時間を考えると、学食組や購買組は確実に出遅れるだろう。
普段は購買組の翔也も、今日は購買ダッシュを諦め、コンビニを利用したそうだ。
「あ、向こうの男子たちがサボってる。ほのかっちに教えてあげなければ」
そんなことを考えていると、部長はプールサイドを駆けていく。
実際に部長の声が届くことはないのだろうけど、彼女は彼女なりにこのイベントを楽しんでいるようだ。
ちなみに日中はかなり暑くなってきたが、部長は冬服のままだ。
先日、夏服はないのかと尋ねてみたら、『別の服を着たら透明人間が服を着てるようになると思う』と、真顔で言われてしまった。
幽霊である彼女は暑さや寒さを感じないそうだし、本人がいいのなら、俺がとやかく言うものでもなさそうだ。
「後藤君、そっちが終わったら向こうの女の子たちを手伝ってあげて。コケがすごくて、いくら擦っても落ちないんだって。男子の力の見せ所だよ!」
その時、雨宮部長とは別の元気な声が響き渡る。
見ると、
「さすがクラス委員長。全体をしっかり見てるな」
それを見た翔也が作業の手を止め、デッキブラシの柄を杖のようにしながら言う。
俺はそれに頷いたあと、自然と彼の目線を追って汐見さんを見る。
ポニーテールにまとめられた赤髪は、彼女が動くたびに太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
その様子が美しすぎて、俺は思わず見とれてしまう。
「……ほのかっちって、スタイルいいよね」
「それは思います。スタイルいいですよね」
いつしか隣に来ていた部長が呟き、俺もつられるようにそう口走る。
掃除に参加している女子たちは体操服の下に学校指定の水着を着ているのだけど、水に濡れると体操服が透けるし、その……どうしても胸が目立つ。
「お? やっぱり護も気になるか。あいつ、胸でかいからな」
「い、いや、そんなの気にしてないから」
その発言を拾った翔也が意味深な顔で言うも、俺は全力で否定する。
「恥ずかしがるな。健全な男子高校生だもんな。目のやり場に困るんだろ」
俺の肩を叩きながら、翔也がからからと笑う。
彼も同じく健全な男子高校生のはずだけど、相手が幼馴染だと気にならないのだろうか。
「むー、私、負けてる気がする。ほのかっち、着痩せするタイプなのかな」
部長はプールの壁に背を預け、遠くの汐見さんをジト目で見ながら自分の胸を触っていた。
「あ、護くん、私だってそれなりにあるんだからね!」
続いて、彼女は顔を赤くしながら叫んだ。俺にどんな反応を期待しているのだろう。
「ちょっと、そこの二人! そっちが終わったら次はこっち!」
その時、俺たちの手が止まっていることに気づいた汐見さんが息巻きながらやってくる。
「排水口の落ち葉が溜まってるとこ、誰も掃除したがらないの!」
「俺たちだってしたくねーよ……あそこの汚れ、ハンパねーし」
「だからこそ二人に頼んでるんじゃ……わっ!?」
半分駆け足だった汐見さんが、俺たちの目の前で盛大に足を滑らせる。
「わわ、わわわわ」
どうやら先程ばらまいた洗剤がまだ残っていたようで、彼女は前のめりになりながら突っ込んでくる。
……まっすぐに、俺のほうへ。
「うわ、危ない!」
とっさにその体を抱きとめるも、その勢いを完全に止めることはできず。俺は汐見さんと一緒になって、床に倒れ込んでしまった。
「あいたた……汐見さん、大丈夫?」
「う、うん……」
なんとか彼女を庇えたものの、背中から後頭部にかけて思いっきり打ちつけてしまった。痛い。
……その代わり、胸の辺りがすごく柔らかい気がするけど。
そう考えながら目を開けると、汐見さんの顔が目の前にあった。
俺の顔が映り込みそうなくらい近くにある瞳は、心なしか潤んでいるような気もした。
それ以上に気になったのが、俺の胸板に当たっている、その……大きな二つの膨らみだった。
「あ、あわわ、ごめん……!」
下敷きになっていた俺が固まっていると、頬を赤く染めた汐見さんはすぐさま飛び退いた。
こっちこそごめん……と謝ったものの、彼女はなんとも言えない表情で自分の体を抱いていた。
「おいおい、委員長は恋人がしっかり守ってやれよー」
なんて言葉をかけるべきか悩んでいると、その様子を遠巻きに見ていた男子たちから野次が飛んでくる。
「こ、恋人ぉ!?」
「茶化すなよ。こいつはただの幼馴染だって言ってるだろ」
どうやら翔也に向けられたらしいその言葉を、彼は涼しげな顔で受け流していた。
「そ、そうだぞ! 人をおちょくる前に、君たちは掃除終わったのかな?」
冷静な翔也の対応を見て我に返ったのか、汐見さんはそう言って男子たちのもとへ走っていった。
「ほのか、そんなに走ったらまた転ぶぞー」
朗らかに笑う翔也に目を向けながら、一つ気になったことを聞いてみる。
「翔也、ああやってからかわれるの、よくあることなのか?」
「え? 恋人うんぬんって話か?」
「そう。あんなふうに言われて、嫌な気分になったりしない?」
「ほのかがどう思ってるのかわかんねーけど、俺はなんとも思わねーな。中学ん時からしょっちゅう言われてたし」
俺を引き起こしてくれながら、彼は表情を変えずに言う。
「それによ、幼馴染とは恋愛に発展しないって言うじゃん。俺たちの関係は、まさにそれだ」
人差し指を立てながら翔也は言う。
「身近すぎて異性として意識できねーんだよなー。ガキの頃は一緒に風呂入ったりしてたしよ」
「うわ……よく聞く話だけど、本当にあるんだ」
「まあなー。つーか、護にも幼馴染の一人くらいいないのか?」
「いないよ。親が転勤族だったし、この街にも小さな頃に滞在しただけだから……」
そこまで口にした時、突然俺の脳裏に髪の長い女の子の姿が浮かび上がってきた。
本当に小さな頃の記憶で、一緒に遊んでいた気もするけど、顔も名前も思い出せない。
ただただ、さやさやと風に流れる長髪だけが、印象に残っていた。
「――おい、護、大丈夫か?」
「……え?」
気がつくと、俺は翔也に肩を揺すられていた。
「頭打ったみてーだし、もし調子悪いようだったら保健室いけよ?」
「う、うん。大丈夫だよ。ありがとう」
心配してくれる彼にお礼を言い、一通り自分の体を調べてみる。
特に問題はなさそうだけど、さっきの光景は一体何だったんだろう。
「……護くんのスケベ」
思わず首を傾げていると、背後の部長からそんな言葉を投げられる。
反射的に振り返るも、部長は頬を膨らませたまま、ずっと俺を睨みつけているだけだった。